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「はじめて楽しむ万葉集」 上野誠



今回は上野誠の「はじめて楽しむ万葉集」からです。

冬過ぎて       冬が過ぎて
春し来れば      春がやってくると
年月は        年月は
新たなれども     新しくなるけれども
人は古(ふ)り行く   人は齢を重ねる

著者は、初頭の詩人劉希夷の「代白頭吟」

「年々歳々花ハ相似タリ、歳々年々人ハ同ジカラズ」
咲く花は毎年同じように見えるけれども、それを見る人間の方は同じではない。

代白頭吟

を引いて、これらの時間には二つの時間があるという。
一つは一年というまあるい時間。もう一つは一歳ずつ歳をとる直線的に進んで行く時間。つまり、私たちは円環的な時間と、直線的な時間を生きているという。

これを読んで私は世阿弥「風姿花伝」の年々去来の花を思い出す。

年々去来とは、幼かりし時のよそほひ、初心の時分のわざ、手盛りのふるまひ、年寄りの風体、この時分時分の、おのれと身にありし風体を、みな当芸に、一度に持つことなり。

風姿花伝 別紙口伝

人の人生というのはその時々に時分の花を持っている。懸命に生きればその時々に花が咲く。その経験は自然と我が身に備わって現在の「わたし」を形づくる。だからその過程(プロセス)に無駄はない。そのすべてが「わたし」である。

先の直線的な時間は、同じ時間であってもその速さの感じ方には差がある。例えば、毎朝同じ道を通ると時間は短く感じるが、別の道を初めて通ると長く感じることがある。初めての経験するということが時間を長く感じさせているらしい。大人になると時間が短く感じるのはそのせいだ。

そうだとすると、人生回り道をすれば時間は長く感じるのだろうか。回り道の人生も捨てたものではない。


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