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私の英国物語 Broadhurst Gardens NW6 (42) Flaming June by Lord Leighton

後期ヴィクトリア朝の古典主義を代表する画家であり、彫刻家である Lord Leighton の magnum opus (最高傑作)と称される "Flaming June"。
鮮やかなオレンジ色のドレスを身に纏い、アームチェアで微睡む女性の絵。 その緻密に描かれた、透き通るように薄いドレスのドレープと女性の官能美は、今も世界中の多くのファンを魅了する。
後期ヴィクトリア朝画壇の重鎮レイトン卿の自宅兼スタジオ、Leighton House は、Holland Park の南、Kensington High Street から一本入った Holland Park Road にある。 現在は "Leighton House Museum" として、レイトン卿自身の絵画や彫刻とともに、ラファエル前派やコロー、ミレーなどの絵画も収められている。
学校の学生ラウンジで紹介されている色々なイベントの中に Leighton House でのレクチャーを見つけ、早速申し込んだ。

Frederic Leighton は、1830年、North Yorkshire の Scarborough で生まれた。
ロシア皇帝付きの医師として仕えていた祖父は、かなりの財産を残しており、レイトン家は裕福だった。
1840年から約20年ほど、父親は病弱な妻の療養のため、一家を連れてヨーロッパ各地をまわる。 そのため、フレデリックは、少年時代から青年時代の大半をヨーロッパ大陸で過ごすことになるが、その間、フィレンツェ、ベルリン、フランクフルト、パリ、ブリュッセルでアートを学んだ。
その後、1852年から1855年はローマで、1855年から1859年はパリでスタジオを持ち、その頃、ドラクロワ、コロー、ミレーと出会う。

1855年、the Royal Academy に出品した "Cimabue's Madonna" がヴィクトリア女王の眼にとまり、買い取られたことから一躍名声を得る。
1860年、ロンドンへ転居し、1864年にはロイヤル・アカデミーの会員になり、そして、英国の美術家、詩人、批評家たちから成るラファエル前派のグループとも交流する。
当時は古代ギリシャ・ブームであり、彼の絵画や彫刻は絶大なる人気を博するようになる。
1878年には the Royal Academy の会長にも選ばれ、以降1896年まで務める。 同年、Windsorで Knight の爵位を与えられ、1886年には Baronet (準男爵)、1896年には Baron (男爵)となった。

ドームを架した赤煉瓦の洋館は、1864年にレイトン卿の友人、建築家の George Aitchison によって建設されてから、それ以降30年の間に2回増築された。
一見、普通のクラシックな洋館なのだが、一歩足を踏み入れると、そこは、まるで、エキゾチックなペルシャの小寺院。
1867年から1873年まで、レイトン卿は中東をたびたび訪れていたが、1877年に増築された "the Arab Hall" には、ロードス島、トルコやベイルート、シリアから収集した13世紀、16世紀から17世紀のタイルが埋め尽くされている。 また、床には黒と白のモザイク装飾が施され、中央には1枚の黒大理石をくり抜いた方形の噴水が設けられている。

William de Morgan によるブルーのタイルで飾られた階段を上ると、そこにはスタジオがあって、石膏模型やイーゼル、アームチェアなどが置かれている。当時、ここはレイトン卿が画家たちを招いてのサロンともなっていたという。
レクチャーでは、オレンジ色のドレスを身に付けたモデルが、"Flaming June" のポーズを再現して見せてくれたが、まるで、絵画そのものの世界に入り込んでしまったような錯覚を覚えた。

狭心症の発作で急死してしまったレイトン卿は、生涯独身であったため、男爵家は断絶した。

20世紀に入り、モダニズムの台頭によって、時代遅れのヴィクトリアン・アートは人気を失い、かつては一世風靡したレイトン卿の絵画も額縁以下の値段をつけられるようになっていった。
絵画の多くが辿ったように、レイトン卿の絵画もオークションによって英国から海外へと渡って行き、そして、その後、英国のコレクターたちによって買い戻されていくが、しかし、"Flaming June" は、英国へもヨーロッパへも戻ってくることはない。
ヴィトリアン・アートにとって不遇であった時代、アムステルダムの画廊の片隅に置かれていた "Flaming June" は、1963年、Puerto Rico の the Ponce Museum of Art の設立のためにヨーロッパ各地を回って絵画の収集をしていた Luis A. Ferre によって見出され、プエルト・リコへと渡って行ったのだ。

後に、プエルト・リコの知事ともなるフェレは、コレクターたちからのオファーを断り続け、99歳でこの世を去った。
「誰にもこの絵を売ってはならぬ。」という遺言を残して。

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