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かつて西洋にも「世間」はあった

「世間」から「社会」へ

かつて西洋にも世間が存在していた。しかし、キリスト教の普及により世間が解体され、「個人」が誕生し、「社会」が生み出されることになった。日本にしか存在しないと思われている「世間」と西洋の「社会」を「個人」という視点を通して比較検討していきます。


「世間」と「個人」

そもそも「世間」って何だったっけ?
以前のnoteで「世間」を以下のように定義していました。

「世間」=自分に関係のある世界

今回は、阿部謹也さんによる「世間」の定義を引用しながら取り上げることにします。

世間という言葉をあらかじめ定義しておく必要がありますが、あえていえば個人と個人を結びつけている人間関係の絆です。
「世間」という言葉は自分と利害関係のある人々と将来利害関係をもつであろう人々の総称なのである。

また「世間」には、「個人」は存在しないと、阿部謹也さん「日本社会で生きるということ」(朝日文庫)は述べてます。

「世間」とは何かというと非常にはっきりしています。つまり個人がいないということです。〜中略〜個人がいないということはどういうことか。一人ひとりが集団のなかに埋没しているためです。あえて言えば日本にも個人はいないと私は思っています。

「社会」と「個人」

「社会」と「個人」について、謹也さんは『「世間」とは何か』(講談社現代新書)の中でこう書かれています。

明治十年(一八七七)頃にsociety の訳語として社会がつくられた。そして同十七年頃にindividualの訳語として個人という言葉が定着した。それ以前にわが国には社会という言葉も個人という言葉もなかったのである。ということは、わが国にはそれ以前には、現在のような意味の社会という概念も個人という概念もなかったことを意味している。
また欧米の社会という言葉は本来個人がつくる社会を意味しており、個人が前提であった。しかしわが国では個人という概念は訳語としてできたものの、その内容は欧米の個人とは似ても似つかないものであった。

鴻上さんは阿部さんの言葉を以下のように要約しています。

日本の「個人」は、「世間」の中に生きる個人であって、西洋的な「個人」など日本には存在しないのです。そして、もちろん、独立した「個人」が構成する「社会」なんてものも、日本にはないんだと言うのです。

「社会」とは、独立した「個人」が前提として存在し構成しているものということになります。

「世間」と「社会」のちがい

先に述べておくと、「社会」とは「世間」が解体された状態と言えます。「世間」が解体され、世間の5つのルールが強制されない(拘束する権力がない)状態です。

世間を構成するルールには以下の5つがありました。

1. 贈与・互酬の関係
2.長幼の序
3.共通の時間意識
4.差別的で排他的
5.神秘性

佐藤直樹さんの『世間』の現象学」(青弓社)によると「世間」と「社会」の違いが以下のように書かれています。

1.贈与・互酬の関係

第一に、社会と「世間」とのいちばん大きなちがいは、社会が契約関係を中心とした市場原理で構成されているのに対して、「世間」は贈与・互酬関係によって結ばれているという点である。

「社会」では、何かを貰ったからといって、必ず送り返さなければならないわけではない。
「世間」では、もらったら必ず返さないといけない。

2.長幼の序

第二に、人間関係に関して、社会では「個人の平等」が貫徹されるが〜中略〜、「世間」においては目上・目下などの「長幼の序」に重きが置かれ、人間が平等だという考えは「たてまえ」にすぎない。

「社会」では年齢によって身分が決まるわけではない。
「世間」では年齢によって身分が決まる。

3.共通の時間意識

第三に、社会で個人は別々の時間意識をもつが、「世間」では共通の時間意識を持つ。社会は個人が集合してつくりだすものと考えられているが、「世間」では個人が前提となるのではなく、個人が不在であり、まず「世間」という世の間があって、しかるのちに個人が存在する。
 したがって、社会は個人がつくったものであるがゆえに、変えることができるものと考えられている。ところが、「世間」では、「世間」は個人がつくったり、変えたりすることができないものととらえられている。

「社会」では、共通の時間を生きなくて良い、すなわち個人での時間を生きることができる。「個人」が先に存在し、「社会」を構成しているため、「個人」次第で「社会」を変革することができると思われている。

「世間」が先に存在し、そしてその中に個人がいる。しかし、その個人はindividualの訳語として「個人」ではない。ゆえに、「世間」変革ができるとは考えられていない。

4.差別的で排他的

第五に、社会はウチとソトの区別をしないが、「世間」はウチとソトの区別という排他性をもつ。

「社会」では、身内だからと言って贔屓するわけではない。
「世間」では、身内であれば贔屓にしがちである。そこでは関係のあるなしによって、贔屓するかしないかを変えないという世界でもあります。

5.神秘性

第四に社会は合理的だが、「世間」は非合理的・呪術的である

「社会」では、伝統やしきたりに従うのではなく、合理性を追求することができる。
「世間」では、伝統やしきたりに従い、非合理的である。

以上が「世間」と「社会」の違いです。

続きは別のnoteに書ければと思います。

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