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「重すぎる母 無関心な父 『いい子』と言う名のアダルト・チルドレン」を読んで(読書感想文#23)

信田さよ子さんの依存症の本がすごく面白かったので、家族関係の本書も読んでみようと思いました。アダルト・チルドレンは聞いたことはあったけれど、年代的に?毒親の方が耳にする機会は多かったなと思い、どんな話か興味を持ったのでした。

▼重すぎる母 無関心な父/信田さよ子著

アダルト・チルドレンの定義

アダルトチルドレンの定義は、「現在の自分の生きづらさが親に起因すると認めた人」ということで、主観で自分がそうだと思えばアダルト・チルドレンなのですね。元々は、アルコール依存症の方の子どもの問題から出てきた言葉ということですが、この定義だと現在でも「これだ」と思う人はいるんじゃないかな。

アダルト・チルドレンは、無理をしていい子をする人が多いそうです。依存症の父本人、それを支えるパートナーの母(共依存的;イネーブラー)、その関係性を調整するような子ども、というような構図。

愚痴を受け続けるのも虐待?

夫や姑の愚痴を子どもに垂れ流すことは虐待である。愚痴を子どもに言ってはいけません。それは母から子へのコントロールです。

この言葉にそうなの!?とびっくり。それであれば、私でも愚痴を受け続けたことはあったけれど・・・。虐待とは思ったことないけど、つらかったことはまぁ確かにあるなぁ。

アダルト・チルドレンとは、自己認知のための言葉。

アダルト・チルドレンという言葉は、「自己認知」のためのキーワードであるというのが印象的でした。つまり、自分はこれなんだと認識して、そこから整理できて、動き出せるための言葉?

人間というものは、わけのわからない傷つけられ方をすると、その意味を自分で整理できなければ、一歩も進めないものなのです。

自己認知と底つきがあって、意味づけができないと動き出せないということかなぁ。

自分のままで子と向き合ってはいけないということ?

「母から子のコントロールは、子が不幸でないと成立しないため、子を不幸に留めようとする。母としてのコントロールを強めるという事は、妻や女として不幸であることを子は見抜いている。母は、母という役割が強くなりすぎてはいけない。」という内容が述べられていて、なるほどと思いました。(↑要約なので解釈が違ったらすみません)

その一方で、「役割演技ができる人が親になるべき。」とのお話があるんです。素のままで子どもに対峙してはいけないと。

これ、私には難しい。どういう立場で子と一緒にいればいいの?
自分でいたらいけないということなのか?
バランスよく母でいればいいということかなぁ、と一旦の結論にしておく。

自分の過去を意味づけて、それから進む。

アダルトチルドレンの本、他にも用意してみたけれど、何となく読み進められるのかいまいち自信がありません。なんだろう。

私の中で、対象を定義する言葉がだんだん不要になってきたというか、「自分がなにか生き方に違和感を感じるならば、内省し意味づけして整理することが必要なんだな」というところまで来たので、さぁでは次にどうすれば・・・?という気持ちになっているからです。

ここまでお読みいただきまして、どうもありがとうございました。

▼同じ著書の依存症の本、面白かった。


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