子どもらしさを守る目と、虐待の影響を考える頭と。

今日もこのページに来て下さり、ありがとうございます。
今日は題名のことについて、少しお話したいと思います。


私には、姪と甥がいます。
ひとりひとり赤ちゃんの頃から見てきて、一番上の子は中学生に。
ここまで大きくなったかと、最近は会う度に驚くほどの成長を見せてくれます。

姪と甥は、ケンカもするし、イライラした感情も見せます。拗ねた表情を見せたり、親である姉夫婦へ文句も言います。
ゲームをまだしたいとねだったり、大好きなおやつをごはん前に食べてるのを見つかったり、お風呂がめんどくさいと動かなかったり。
楽しいこと、嫌なこと、退屈なこと、寂しかったこと。
姪と甥は、その胸の中に生まれた気持ちをそのまま表現しているように見えます。

私はいつもそれを「表現できるほど、この家族の空間に安心し、信頼し合ってるんだな」と、見て学んでいます。そして姉夫婦はそれらを「子ども一人ひとりの気持ち」として、否定することなく、子どもの話をさえぎらず、最後まで聞きます。そして必要であれば自身の思いも伝えています。
「子どもだから」という理由でその思いを軽くあしらうことをしない姉夫婦とその子どもたちを見ていると、私はいつも職場の子ども達が頭に浮かぶのです。


職場の子ども達は、関わるうえで特別な配慮が必要だと考えられています。トラウマ体験を持つ子ども達への支援ですので、私も日々そう思いながら彼らに向き合っています。子ども達を見ていく上で、虐待に関する知識や理論なども活用しながらでなければ、子どもも大人も互いに怪我をする。この仕事は学びなくできるものではない、そういう仕事だと自負しています。


ただ、入職後間もない私は、施設の子ども達に対してある勘違いをしていました。

子ども達の見せる行動は、”施設の子”つまりトラウマ体験のある子どもだから見せるものなのだと、私は捉えていたのです。

激しいケンカ、おとなへの文句、我慢できない感情、それらの行動は支援の対象として見るべきものであり、注意や直させる必要があることだと感じていました。
子ども達の言動を、ひとつひとつ拾い上げては「これはどうなんだろう」と敏感に考えていました。

でも、姪と甥の子どもらしく生きる姿を見て、自分はなんてひどい勘違いをしていたのだと気づきます。

目の前にいる職場の子ども達は、「ふつうのこども」だったことに気づきます。
虐待のケアをすることに頭でっかちだった私は、そういう目で子ども達を見ていました。確かに言動の激しさの程度の違いはあります。暴力もあります。
けれど、本当は子ども達は、子どもだった。子どもでいていい子ばっかりだったのです。

確かに、
虐待の影響で、楽しいことを素直に楽しいと言えないかもしれない。
虐待の影響で、誰も攻撃していないのに、攻撃されたと1日中緊張や警戒しているかもしれない。
虐待の影響で、助けてが言えず、いつもひとりで世界と闘い疲れてるかもしれない。

それでも、
楽しいと思う感情も、安らぎたいと思う感情も、遊んでたらテンションあがっちゃってケンカになるあのお決まりの流れも、寝れなくておとなを求めに起きてくることも、手を握るときに爪の間に爪を食い込ませてくることも、
みんな、子どもだから見せること、子どもだからしていることであって

全部に「虐待の影響」を付けることは子ども達になんて失礼なことをしていたんだと
心から反省をした、そんな経緯があります。

これは、私が職場の子ども達だけでなく、姪や甥の姿を見る機会があったから感じることが出来たこと。きっと、姪や甥との時間に触れられていなかったら、本来「子どもらしい姿」だった時間すらも「虐待を受けた影響」と余計な見方をして。
私は、子ども達のそばにいれるのに、彼らの純粋な子ども時代を見失うところでした。

児童養護施設の仕事には、一瞬が命取りになる、そんな瞬間があります。
あの時の喧嘩で止めておけば、あの時注意しておけば、など
事前にできる防止策をできる限りとっておきたい。
そう思うのは、当然の事だと思います。

ただ、それだけでなく
子どもの行動を子ども時代の子どもらしさとして、見て楽しめる、待てる。
そんな姿勢も、私たちおとなは持っていたい。

その子の子どもらしさを守る目と、
その子の言動にぶら下がるトラウマ体験を見つけ、その子にとっての安心を考える頭と。

それらを持ち合わせ、私は子ども達のそばに居たいと思っています。


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