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私たちは怒っていい|性暴力被害者が、打ち明けられるようになるまでの道のり

「なんで打ち明けられるようになったの?」

実兄からの性虐待を両親に打ち明け、家族と離れて暮らすようになってからすでに20年以上が経過した。
自分が受けた被害と向き合えるようになったのは、(というか向き合っても発狂したりしないようになったのは)本当にこの数年のこと。
口に出すと、自分が壊れてしまいそうで、とてもじゃないけど向き合えなかった。そのくらい、時間が必要だった。
今でもまだ、パブリックな場で、この事について話すのは無理なんじゃないかと思う。

付き合いが長い友人にも、ほとんど過去の話はしていない。
ただ、昨日友人と何気ない会話をしている時に、「家族とは最近会ってないの?あってあげなよ」という言葉がきっかけで、「もう話してもいいかな」と思い、これまであったことや家族との現在の関係性についてお話した。
彼女は、とても真摯に聞いてくれました。

ひとしきり話した後、「でもなんで、話せるようになったの?」と聞かれて少し考えました。
今日はその理由について掘り下げたいと思います。

今でも兄がつけてきて、両親に打ち明けたことを逆恨みされて殺されるかもしれないと思っているし、彼の中で私たちの関係の認知が歪んでいて、わたしにとっての悪夢だった時間が、「良かった記憶」とされているかもしれない。恨まれている、歪んだ愛情を持っている、どちらにせよ、今も心のどこかでそんな存在を意識しながら暮らしている。
そんな得体の知れない恐怖と戦いつつ、日々をなんとかこなしているという感じにもかかわらず、どういう心境の変化で、言語化できるようになったのかについて今日は書きたいと思います。

契機になったもの|悪いのは、被害者じゃない

契機になったことはいくつかある。

一つは、大学時代に自分の過去をテーマとして取り上げようと考えて、担当教官に話した時に、教官がわたしの代わりに怒ってくれたことだ。
このテーマを扱う自分のことを「気持ち悪い」とか、「変なやつだ」とか、はたまた「めんどくさい内容をテーマにするな、やめておけばいいのに」とか、そういう拒否反応が帰ってくるかも知れないと覚悟していた。
話すことで、自分が根本的に否定されるかも知れないと怯えてはいたが、どこかで過去と向き合わなければといけないと思って決心したことを、やっとの思いで口にした過去の話を、彼女はしっかり受け止めてくれた。彼女のリアクションは、現実は、想像と大きく違っていた。
2人の娘をもつ教官は、わたしがまだ苦しんでいること、守ってくれるはずの親が、結果的に被害者であるわたしを守らずに兄を守っていることに腹を立てて怒ってくれた。
わたしの代わりに、怒ってくれたのだ。
意外だった。
これは、怒っていいことなんだと初めて知った。

ずっと、自分にも非があると思っていた。
わたしが仕向けたのかも知れない。誘うようなことがあったのかも知れない。意図的じゃないにしろ、そういうことがあったような気がする。悪いのは自分も同じなんじゃないのか。
ずっとそう悩んでいたことに、「違うよ」と言ってくれる大人が現れた。

わたしは、被害者で、怒っていいんだって。

また、わたしにとってもう一つの契機になったのは、伊藤詩織さんとフラワーデモの存在じゃないかと思う。

伊藤詩織さんは、自身の性暴力被害を勇気を持って顔出しまでして告発をしたにもかかわらず、それはもうすごいバッシングにあっていた。見ていて辛かった。なぜ、被害を受けた方が悪いとバッシングに合わないといけないんだろう?被害にあったことなんて、口に出した方が馬鹿みたいじゃないか・・・と思わされた。そして、やっぱり、わたしも、口に出さない方が、波風立てない方がいいんじゃないかと思った。

伊藤詩織さんや#Metoo運動と時を同じくして、毎月11日に開催されるフラワーデモが始まった。それは、全国で同時に行われる性暴力根絶を目指すデモで、性暴力を受けた人々の声に耳を寄せ、「あなたのことを信じる、あなたのそばにいる、あなたにおきたことをなかったことにしない」という#Withyouの意思を込めて、その象徴としての花を持ち、声をあげ続けるデモです。
デモの参加者は、マイクを受け取ると、自分の言葉で、自分の性暴力被害を語り始めます。似たような経験をされている方もいらっしゃいました。
そんな中で気づかされたのです。

性暴力は、加害者が悪いのであって、被害者には落ち度はない。
まだ子供だった自分に、性虐待をした加害者である兄が、どんな理由があったとしても悪くて、わたしには落ち度はないんだということを。

こんなことに気づくのに、約20年くらいかかりました。
アホみたいですが、自分の感覚がズレてしまっている、認識がすり替えられているのは、過去のせいで、やっぱりわたしのせいではないんだと理解できるようになってから、やっと人に話すことができるようになりました。

なぜ、被害者が隠れるように、そして自分を恥じながら生きなくてはいけないんだろう?
なぜ、被害者が、苦しみ続けないといけないんだろう?
勇気を持って口にした被害を、なぜ「そんなこと」と言われないといけないのだろう?
なぜ、被害者に落ち度があると思わされないといけないんだろう?

そう思うようになって、初めて、口に出せるようになりました。

葛藤はまだまだ続きます。

しかし、性暴力被害者が自分のことを口に出せない理由もまた、当事者が明かしていかないとわかってはもらえないでしょう。

これを読んでいる当事者の皆さん、
あたなは悪くないですよ!
あなたに加害した人が悪いのであって、あなたに落ち度はないんですよ!
むしろよく生きてきました!
あなたもわたしも、相当すごいし、褒められていいと思います!
私たちは悪くない。私たちは、怒っていいんだ!

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