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南方熊楠の書簡に登場するピアニストと謎の男・平澤哲雄

1. 南方熊楠の書簡に登場するピアニスト

 南方熊楠の書簡を読んでいたら自分にとって予想外の人物が登場したので紹介していきたい。平凡社の『南方熊楠全集9』の岩田準一あての書簡(昭和6年8月20日南方記)から引用してみよう。

山田の従兄も御坊町へ帰るに付いて、葉山の別荘に琴やら裁縫やら歌俳諧に茶湯やら英仏語やらを教えて、故平沢哲雄氏(タゴールをつれ来朝せしめたる三土忠造君の弟。もと和歌山県知事、今は衆議院議員と記憶する宮脇梅吉氏の妻の弟。この人、米国へ八歳のとき渡り、まるで欧米人のごとし。『大菩薩峠』の駒井甚三郎そのままで、まことにおとなしき人。震災のときに、永井荷風方へ逃げのき、それより小生に頼み来たり、本山氏にあい『大毎』派出員かなにかの名義でパレスチナ、パリ等に遊び、帰りてまもなくチプスになり、自由結婚の妻の腹に鮒を盛り込んだまま置き去りにして冥途へ旅立たれ候。この人特製の法螺の音が太い。その説の一つといっぱ、その人と知らずにかたわらに行きて特異の霊感に打たれた人は一生に二人、一人はポーランドの初大統領パデレウスキー、今一人は熊楠とのこと。この人の世話で小生岩崎家より研究費一万円もらえり)の遺児を守りおる吉村勢子女子へいいおくる、(後略)(筆者が重要であると考えた箇所を太字にした。)

 かなり情報密度の高い文章だが、まずは「パデレウスキー」という人名に注目したい。これはポーランドの初代首相・イグナツィ・パデレフスキのことだろう。パデレフスキは政治家としてよりも、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したピアニストとして知られている。特にショパンの演奏が有名でショパンの譜面の編集も行っていた。上記に引用した文章によると、「平沢哲雄」という人物がパデレフスキに会っているらしいことが分かる。国会図書館デジタルコレクションを調べてみると、平澤哲雄(以下、資料中の文章を引用するとき以外は「平沢」を「平澤」と表記する)の著作である『直現藝術論』が閲覧できた。この本の中にパデレフスキと会った時のエピソードが確認できた。

自分は曾(かつ)て、彼の洋琴の天才、アイ・ヂェー・パデレフスキー氏と米國において曾談したことがあった。その茶曾の時彼は自分に突然、今「君は實に美しい音樂を奏した」と私の茶を飲みつつ曾談している姿を側(そば)から見て云うた。(後略)
(『直現藝術論』のP291より引用。一部筆者が現代仮名遣いにあらため、重要であると考えた箇所を太字にした。)

 平澤はアメリカでパデレフスキに会っていたようだ。この本の冒頭では、平澤のアメリカ滞在の経験が語られているが、それによると平澤はアメリカ滞在中に絵画や音楽などの芸術をよく鑑賞していたようだ。この本のP28にその例として「パデレフスキ―のピアノの演奏」が挙げられており、パデレフスキのコンサートに行っていたと推測される。おそらくそのときに面会したのだろう。南方の書簡から平澤にとってパデレフスキとの面会が非常に印象に残ったことが分かる。

2. 平澤哲雄とは何者か?

 ところでこの平澤哲雄とは何者なのだろうか?上記に引用した『直現藝術論』では序文を哲学者・西田幾多郎、跋文を一燈園を創設した西田天香が書いているため、彼らと交流があったことが分かるが、ウェブで調べてもほとんど情報が出てこなかった。(注1)そのため上記に引用した南方熊楠の書簡を手がかりに調べていきたい。

 上記に引用した南方の書簡によると、平澤哲雄は「宮脇梅吉」という人物の妻の弟であることが分かる。この人物を図書館デジタルコレクションで閲覧できる『人事興信録 5版』で調べてみると、宮脇の家族の情報から妻が1898年(明治31年)8月生まれの「須磨子」という人物であることが分かった。また、須磨子は、埼玉県の「平澤三郎」という人物の二女であると書かれており、平澤哲雄は平澤三郎の息子であったことが分かる。残念ながら、哲雄の父である三郎については『人事興信録』にものっておらず詳細は分からなかった。

 また、同じく『人事興信録 5版』によると、南方の書簡に書かれた「三土忠造」は、宮脇梅吉の兄であったようだ。南方は、哲雄のことを「三土忠造の弟」と述べているが、親族関係を考えると哲雄は三土忠造の「義弟」であったというのが正しい。

 『直現藝術論』の自伝的な箇所によると、哲雄は1913年6月に電気工学を勉強するため日本を出発したようだ。この記述は南方の書簡と矛盾しているが、後述する理由により私は自伝の方が正しいと考える。

 米国滞在中は電気工学の勉強をせず上記に紹介したような芸術鑑賞、読書に精を出していたようだ。この時期に同じく放浪していたイタリア人の老人に芸術的な面で多くのことを学び、放浪した後に、大西洋側にあるC市のA・Iという学校に入学することになった。『直現藝術論』には、学校は芸術関係の人々が通っていたということ、C市が大西洋側の湖岸にあることが語られている。この学校はシカゴ市の「the Art Institute of Chicago」(現在のthe School of the Art Institute of Chicago)ではないだろうか。当初は学校を理想的な環境と感じていたものの、哲雄はここでも満たされなかったようだ。やはり学業はそっちのけで、芸術鑑賞や恋愛に夢中になってしまう。しかしながら、母の危篤や親しい人の死によって煩悶の時期は終わりを告げ帰国することになった。帰国後、早稲田大学の政治科に入学して卒業後普通に就職して働きはじめるようになる。

3.  『断腸亭日乗』永井荷風に登場する平澤哲雄

 南方の書簡によると、関東大震災で焼け出され永井荷風の家に転がりこんだとあるが、荷風の日記である『断腸亭日乗』にも哲雄が登場する。以下に該当箇所を引用してみよう。

十月朔。災禍ありてより早くも一箇月は過ぎたり。予が家に宿泊せる平沢夫婦朝より外出せしかば、家の内静かになりて笑語の声なく、始めて草蘆に在るが如き心地するを得たり。そもそも平沢夫婦の者とはさして親しき交あるに非らず。数年前木曜会席上にて初めて相識りしなり。其後折々訪来たりて頻に予が文才を称揚し、短冊の揮毫を請ひなどせしが、遂に此方よりは頼みもせぬに良き夫人をお世話したしなど言出だせしこともありき。大地震の後一週間ばかり過ぎたりし時、夫婦の者交るる来り是非にも予が家の御厄介になりたしといふ。情なくも断りかね承諾せしに、即日車に家財道具を積み載せ、下女に曳かせ、飼犬までもつれ来れり。夫平沢は年二十八歳の由、三井物産会社に通勤し居れど、志は印度美術の研究に在りと豪語せり。女は今年三十三とやら。本所にて名ある呉服店の女の由。中洲河岸に家を借り挿花の師匠をなし居たるなり。現代の雑誌文学にかぶれたる新しき女にて、知名の文士画家または華族実業家の門に出入りすることを此上もなき名誉とせり。色黒くでぶでぶしたる醜婦にて、年下の夫を奴僕の如くに使役するさいま醜猥殆ど見るに堪えず。曽我の家の茶番狂言などには適切なるモデルなり。凡そ女房の尻に敷かるる男の例は世上に多けれど、此の平沢の如きは盖稀(がいき)なるべく、珍中の珍愚中の愚と謂うべし。(後略)
(『荷風全集 第二十一巻』(岩波書店)より引用。一部筆者が現代仮名遣いにあらため、重要であると考えた箇所を太字にした。)

 少しずつ詳細を検討していこう。まずは南方の書簡の通り、哲雄は荷風に助けを求めたことが荷風の日記にも書かれている。関東大震災の後の日記を読んでいくと、9月8日に「午後平沢生来訪。」とはじめての訪問があり、9月9日には「午後平沢夫婦来訪」と夫婦で荷風を訪問している。9月10日には、内田信哉という人物の家に避難している平澤夫婦を荷風が訪問している。おそらく、この3日間に居候させてもらえるように平澤夫婦が荷風に頼んだのだろう。9月11日には、「平沢今村(筆者注:平澤夫婦の知人)のニ家偏奇館(筆者注:荷風の家)に滞留することとなる」とあるので、このタイミングで居候がはじまったことが分かる。

次に冒頭の方の文章に注目してみよう。荷風は哲雄と「木曜会」という集まりで知り合ったと述べられている。木曜会は児童文学者・巖谷小波が開いていた文学サロンだ。(注2)哲雄と小波の関係性に関しては、ウェブ上で閲覧できる『デジタル版『渋沢栄一伝記資料』』を調べてみると、小波と哲雄が日本美術愛好家・ヘンリー・ブイ(注3)という人物の追悼会に同席しており、小波があいさつ、哲雄が追懐談をしていることが分かる。以下に引用してみよう。

竜門雑誌  第三九五号・第五六頁大正一〇年四月
○故ブイ氏追悼会 旧臘米国に於て逝去せるヘンリー・ブイ氏は三月二十六日百日忌に相当せる依り、故人生前の知己たる青淵先生を始め塩沢博士・バーネツト氏夫妻其他五十余名、築地精養軒に参会の上ブイ氏の肖像画を安置し、駒子未亡人・長男威馬男・武夫両君の遺族と共に春の夜を故人の追懐に更したる由なるが、当夜発起人側より巌谷小波氏の挨拶、青淵先生・平沢哲雄氏の追懐談あり、食堂に入りて更にバーネツト夫人の追懐談あり、かくて来会者一同記念の染筆ありていと湿やかに散会せる由。(注:筆者が重要と考えた箇所を太字にした。)

「五十余名」の追悼会の中で代表してあいやつや追懐談をしていることから、両者ともブイと深い交流があったことが分かる。彼らはブイという共通の知人を通して知り合ったのだろうか。(注4)

 上記に引用した荷風の文章では、関東大震災当時、哲雄は28歳であったと述べられているが、これはおそらく信用していいだろう。一部上述した箇所と重複になってしまうが、『直現藝術論』の中の自伝的な箇所によると、哲雄は中学校を卒業した直後に満16歳でアメリカへ渡ることを決意して1913年6月に日本を出発している。決意してから渡米までどれくらいの期間があったかは分からないが、準備期間を考慮すると1913年に中学校を卒業していきなりアメリカへ出発することはおそらく現実的でないだろう。そうすると、1913年以前に中学校を卒業したことが推測され、荷風の述べている28歳という年齢におおよそ合致する。ここから哲雄の生年は1894, 1895年ではないかと推測できる。

 ここで気になるのは、南方が書簡の中で哲雄を1898年の宮脇の妻・須磨子の弟と述べていることだ。哲雄が1898年以降に誕生したとすると、渡米時の年齢が15歳以下になってしまい『直現藝術論』の中の記述と時系列的に矛盾するところが出てきてしまう。そのため、南方の書簡の情報の方が誤りではないかということが考えられる。(注5)

 上記に引用した荷風の文章の中盤では、三井物産会社に勤めながらインドの美術の研究をしていたことが分かる。早稲田大学を卒業した後すぐに就職したのだろうか。哲雄は現在における「在野研究者」とも言えるだろう。荷風の文章からは哲雄が不本意ながら働いており、就職しても煩悶が続いていたことが伝わってくる。また、哲雄は年上の妻に頭が上がらなかったようだ。

 このような哲雄に対して、「平沢夫婦の者とはさして親しき交あるに非らず」や「此の平沢の如きは盖稀(がいき)なるべく、珍中の珍愚中の愚と謂うべし」などと荷風は辛辣な評価をしている。「遂に此方よりは頼みもせぬに良き夫人をお世話したしなど言出だせしこともありき」や「志は印度美術の研究に在りと豪語せり」という表現から、荷風が哲雄のことをあまり信頼できない人物であると評価していたと言えるだろう。興味深いのは、南方も哲雄のことを「特製の法螺の音が太い」と評価しており、うさんくさい人物という評価は南方と荷風の間で共通していた。

 荷風の日記を読み進めていくと、10月25日に「この日平沢夫婦吾家を去り下総市川に移る」と書かれており、この日平澤夫婦が荷風の家から出ていったことが分かる。その後の哲雄の足跡の詳細は不明だが、南方の書簡によると、南方を仲介して「本山氏にあい『大毎』派出員かなにか」になったようだ。「本山氏」は『大阪毎日新聞』の社長・本山彦一のことだろう。本山は南方植物研究所の設立を支援しており、5,000円の寄付を行っている。その関係性を頼って哲雄は南方に自身の就職のことを頼んだようだ。

4. 南方熊楠と平澤哲雄の関係は?

 ここまでいろいろ調べてきたが、肝心の南方と哲雄は何をきっかけにして交流がはじまったのかは分からなかった。南方は南方植物研究所の支援依頼や資金集めのために、1922年上京していたが、詩人・平野威馬雄(いまお)はこのとき哲雄の紹介で南方に会ったという。そのため、上京以前に南方と哲雄の交流があったことが推測される。この上京を記録したという『南方熊楠全集10』に収録されている「上京日記」には、この訪問のことは書かれていなかった。(注6)

 また、南方の書簡に哲雄の世話で「岩崎家より研究費一万円もらえり」とあるが、これも詳細は分からなかった。岩崎家でまず考えるのは、三菱財閥の創業者の一族であるが、もしそうだとすると哲雄は有名な実業家とも交流があったことになる。

 平澤哲雄という人物に関しても謎が多く残されている。南方だけでなく、『直現藝術論』の冒頭に謝辞を述べるほど交流があったと思われる西田幾多郎、西田天香、北れい吉、ヘンリー・ブイらとの関係性も気になるところである。今回は南方の書簡からヒントを得て荷風の『断腸亭日乗』から哲雄を検討してみたが、広く知られていないだけで他の同時代の日記や書簡などの資料に哲雄のことが記録されていることもありうるだろう。哲雄の日記やまとまった数の書簡が残っていない限り、今後このような断片を少しづつ拾っていく作業が続くと考える。

(注1)ウェブで言及されている情報は私が調べた限り例えば下記のようになる。(2020年6月28日に閲覧)

このツイートによると、インドの詩人・タゴールが来日した際に通訳を務めたらしい。

また、南方熊楠のキャラメル箱というサイトがあるが、ここでは平澤哲雄は平野威馬雄を南方に紹介したとだけ述べられており、交流の詳細は分からないままである。

(注2)以下を参照した。

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000097176

(注3)哲雄は著書である『直現藝術論』の中でヘンリー・ブイに対して謝辞を述べている。哲雄のアメリカ滞在期間を考慮すると、彼らはアメリカで知り合った可能性が高い。

(注4)現在白百合女子大学で巖谷小波の日記の翻刻がプロジェクトとして進んでいる。翻刻が完了すれば哲雄と小波の関係のはじまりがなにか分かるかもしれない。

(注5)『直現藝術論』、『人事興信録』、『断腸亭日乗』が必ずしも正しいとは限らないが、南方の情報に従うと時系列的な観点から明らかに矛盾が起こってしまうため、今回は前者の情報を採用した。

(注6)『南方熊楠全集10』の解説によると、「上京日記」は、郷土史家・雑賀貞次郎あてに送られた書簡を編集して『牟婁(むろ)新報』に掲載したものであるという。全集に収録されている「上京日記」は元の書簡を基礎としているが、書簡が見つからなかったものは『牟婁新報』に掲載された文書を使用している。未発見の書簡に哲雄の訪問が書かれているかもしれない。


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