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『三酔人経綸問答』中江兆民を読む②―その宴席二度と開かれず

以前投稿した記事で『三酔人経綸問答』中江兆民は近代日本史を考える上で現在でも通用する分かりやすい見取り図を提供してくれることを述べたが、この記事では少し想像力をはたらかせてこの本に関して考えていきたい。

 『三酔人経綸問答』中江兆民は以下の文章で終わっている。

二客竟(つい)に復(ま)た来たらず。或は云ふ、洋學紳士は去りて北米に游(あそ)び、豪傑の客は上海に游べり、と。而(しこうし)て南海先生は、依然として唯、酒を飲むのみ。

 この本は、南海先生、洋学紳士君、豪傑君の三者が酒を飲みながら政治に関して意見を交換するという形式をとっているが、最後の文章によると、洋学紳士君の留学、豪傑君が中国に行ってしまったため同じような機会は二度となかったという。

 兆民は意図していなかったかもしれないが、この最後の文章はその後の日本史の展開を考える上で非常に示唆的である。兆民の時代には、この本の舞台となった酒の席のような南海先生、洋学紳士君、豪傑君という異なった思想を持った人々が交流する場や雰囲気があった。上記で紹介した記事でも少し触れたように、今では交流することのないと思われる人々が党派性や立場を超えて交流しているのが兆民の生きていた時代やその後に続く大正時代だ。有名なところでは、右翼の巨頭・頭山満(豪傑君的に近い人物)は民本主義を主張していた吉野作造(南海先生に近い人物)(注1)、無政府主義者・大杉栄(洋学紳士君に近い人物)と交流があった。このような事例は探してみると、意外と多いことに気づかされる。

 しかしながら、30年代以降の兆民がえがいたような交流の場は消失してしまう。国家主義が台頭していく中で自由主義、マルクス主義は弾圧され多くの国家主義者への「転向者」を生み出した。そこでは、思想の差異が「党派性」に反映されて相手のことを排除するようになり、異なる思想が交流する機会も場所も大きく制限を受けることになってしまう。私にはこの交流の不足が十五年戦争につながっていると思えてならない。また、これは現在の問題でもあるだろう。

(注1)『三酔人経綸問答』の岩波文庫版の解説を参考にして吉野作造を「南海先生に近い人物」としたが、近年の吉野作造研究では、吉野の無政府主義的な一面が指摘されている。(たとえば、『吉野作造と柳田国男 大正デモクラシーが生んだ「在野の精神」』田澤晴子(ミネルヴァ書房))そのため、穏健な南海先生に近い人物かと言えるかどうかは議論になると考える。

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