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人文学、多言語主義、自由検討

 私は今後、世界のすべての言語の面前で、それらの生成が脅かされていることに悲痛な郷愁を覚えつつ書く。それらの言語をできるかぎり多く知ろうとするのは無駄だと思う。多言語主義は数の問題ではない。想像界のありようの一つだ。表現するのに使う言語のなかで私は、たとえその言語だけを引き合いに出すとしても、もはや単一言語的には書かない。
 諸言語を「保ち」、摩耗と消滅から救うことは、そうした想像界を構成することであって、それについて多くを語らねばならない。一つの言語が明日にも滞りなく普遍語になりうるなどとは思わないようにしよう。そういう言語は、それを一般的に使用できるようにしたコード自体のもとで、すぐさま滅びるだろう。
──エドゥアール・グリッサン

1 人文学が役に立つのか、との反語的な問いには戸惑ってしまう。役に立つとはつねに、「何かに」役立つ、という相対的な問題でしかない。では、人文学が何の役に立つのかといえば、生きることに役立つのであり、まずもって(最広義の)政治の役に立つということになろう。人文学がルネサンスのヨーロッパで誕生したのは、市民社会にとって役立たずとされた中世スコラ学の観想的=理論的な知を批判して、まさしく人間として生きること──その筆頭は言語の使用であり、そして言語の使用によるほかに政治はありえない──に役に立つ活動的=実践的な生の学たらんとしてのことだった。

2 もちろん人文学それ自体に、実際の(最狭義の)政治に取って代われる(権)力があるわけではない。けれども、政治を支える力を有してはいる。権威にして正統性として、たとえば歴史学がどれほど政治に利用され──国威発揚のような国家政策であろうと、観光振興のような経済政策であろうと──、そのためにいかに論争の火種となっていることか。

3 今日にあって人文学(ひいては学問すべて)がともすれば無自覚に支えてしまう政治に、「言語帝国主義」がある。英語で(ないし西欧諸語で)書かなければ研究論文ではないというような発想は、白人でなければ人間でないとか、欧米のほかに文明はないといった、前時代的な発想の一変種にほかならない。英語で(ないし西欧諸語で)書いたほうが読者層が広がるとの実際的な判断も、より多数の反響を呼ぶほどより優れた研究だと思い込むコマーシャリズムにすぎず、結果として言語帝国主義を支え、言葉の植民地化を推し進めてしまう。

4 他者を顧みない独断的な研究は好ましくないが、しかし表面的に理解されただけで多数の反響を呼ぶよりも、たとえごく少数であっても細部まで行き届いた理解をしてもらえることのほうこそ、学問の幸福ではないか。読まれるべき人に読まれ、理解してもらうべき人に理解されることのみが、幸福であり、栄光である。それは成功とは別物だ。思考の正しさ、深さ、広さ、豊かさは、どの言語で語られ書かれるかには関わらない。

5 けれども、そのうえで翻訳への欲望を掻き立てることが必要だろう。思考の正しさは言語の複数性にこそ根差しているのだから。おそらくこの言語の複数性における思考というものにこそ、人文学を生み出したルネサンス人文主義の哲学的関心があった。
 ルネサンス人文主義は、当初は古代ギリシア・ローマの古典語の研究として始まった。それまで共通語として機能していた中世ラテン語を「野蛮」だと、つまり破格だと非難し、代わって古典ラテン語を再建するとともに、俗語とされた各国語を洗練させていく。かくして多言語主義的状況が到来する。
 言語は複数的であり、言葉の意味は歴史的かつ地理的に変化すると、ルネサンスの人文学者たちは説いた。言語の意味とはその使用である。とすれば、言語による真理の論証は、多様な言説を文献学的に比較対照し、その文脈を修辞学的に把握することで、構成されねばならない。彼らルネサンスの人文学者たちがかくも熱烈に「自由検討」を要求したのは、はじめに言語の複数性および言説の多様性を認める自由がなければ真理は明らかにならないからだ。

6 学問の自由は、多言語主義的状況における真理の探究にとって不可欠のものである。自由検討を新しい方法に掲げて誕生した「人文学 studia humanitatis」が、その名の通り「人間性 humanitas」の研究へとすぐさま拡張したのは、多言語主義がまさに人間の自由──というすぐれて政治的な問題──に通じているからだろう。

(2014年5月11日─2020年7月5日)