見出し画像

2月振り返り。虐待の連鎖。

これは、ただ個人的な2024年2月の経験、過去の痛みをつらつらと書いてみたものです。

今年の、2月は終わるのか。

2024年は結構長く感じるというか、あっという間に2月になったというよりは もう半年ぐらい過ぎたような気分なのにまだ2月なのかって感じ。
2月3日はおばあちゃんのお見舞いに行ってきたんだよね。 知らないうちに おばあちゃんが 老人ホームに入居しててさ 。
それで私、 初めて 老人ホームに行ったのね。初めてだから、ほぼ絶縁していた母親と老人ホームで久しぶりに落ち合った。一緒に入った 広い部屋には、長い大きなダイニングテーブルがあってさ、真ん中の席に小さなおばあちゃんがうつらうつら居眠りしていた。
おばあちゃん、と声をかけると顔を上げたけど、私のことはわからなくなっていた。
おばあちゃんはびっくりするぐらい小さくなっててもう認知症も進んでいたみたいだけど、でも私に立派になったわね って言ってくれたのが嬉しくて込み上がる涙を抑えられなかった。久しぶりに会ったからかな。感心した顔で、「立派になったわね」って言ってくれた。

おばあちゃんに会いに行ったのは、おばあちゃんが 老人ホームに入ったって知らせを聞いたからだけど、もう一つ目的があって、おばあちゃんが 老人ホームに入ったなら おばあちゃん家に住めないかお願いしようと思っていたのだ。
このお願いについて、おばあちゃんは、「(おばあちゃんの家ではなく)実家に住んだらいいじゃない」と言った。でも、わたしは両親から精神的な虐待というか 母親にずっと傷つけられてきたから、それはできないのだった。
親と一緒に住みたくないと言うと、「でも(母親には)あなたしかいないのよ」と言うのだ。でも、私にはおばあちゃんしかいないのよ。おばあちゃんしか感心した顔で「立派になったわね」なんて言ってくれないのよ。

おばあちゃんは、私が一人暮らししていることを知ると、女は一人で暮らしちゃだめよ。男が居ないと危ないわよ。と言った。それから「いい人見つけないとね」と言った。同じことを親から言われるのは本当に嫌なのに、おばあちゃんは心からの優しさで言ってることが伝わってきた。もう、ここ十年……いやもっと長いこと触れてない温かさに触れて、心が決壊して涙が、ボロボロ出てきた。おばあちゃんは、私が泣いているのを見て、隣りにいる母親に、「私、何か言っちゃったかしら。この子が泣いてるわ」と心配そうにしていた。そういう仕草さえも優しくて涙が、止まらなかった。家族なんて要らないと思ってたけど、急におばあちゃんに私の赤ちゃんを抱いて欲しいと思うほどだった。彼氏も居ないのに。妊娠する予定もないのに。

おばあちゃんの家で暮らすことについて、おばあちゃんから許可を貰うのは大変だった。「おばあちゃんの家に住んでも良い?」とお願いしても、もう、自分が、もともと住んでいた家のことを綺麗さっぱり忘れていて、私も老人ホームに住もうとしているのだと誤解するのだった。「こんなに狭いから(おばあちゃんの個室のこと)、住めないのよ」、と優しく諭されることを3回ほど繰り返し、そのたびに母親は「おばあちゃんが元から住んでいた場所があるでしょう」と説明する。すると突然、「あら、家があるの?」とおばあちゃん。そうよと返すと、おばあちゃんは「じゃあそこに住めば良いじゃない。」と急に物わかりが良くなり、二十年ぶりに母親と私は一緒に笑った。

それから、おばあちゃんの家に住むための準備に取り掛かった。と言っても、私にはそんなに多くの荷物はない。

母親はこの機会に私と仲直りする算段を立てていたみたいだった。すごく優しくて、メッセージもたくさん送られてきた。私は、優しくされればされるほど、昔の苦しみを思い出していた。

私は、この文章を読んでいる人たちが想像できないくらい母親からケチつけられてた。一挙手一投足に。でもさ、私出来の悪い子じゃなかったよね。昔を振り切ってみてそう思うよ。(※なんなら、突出している美点もあった。)私は大学卒業して 一人暮らし始めてから6年経ったが、お正月に実家に帰ったことがない。 だから、これまでも実質 絶縁してるようなものだった。でも両親はなんでか私ほど私のことが嫌いじゃないみたいで。私が私のことを嫌いになった理由はね、 両親がね 、関係あるんだけどね。 両親は全然わかってなくてね ……。私は自分のことを嫌いになるきっかけとなった両親のことが嫌いだけど両親は私のことそんなに嫌いじゃないって感じだったの。

あのときに今の母親の優しさがあれば…まだ、私は家族とうまくやれていただろうか?いや、そもそも私さえ 寛容になれば 私の家族はまたまとまる かもしれなかった。
そして母親からこのメッセージが届いた。

このメッセージが来るに至るまでのやり取りを、ここには載せないが、しかし当時に巻き戻ったかのような過干渉ぶりは、思いやりのようで違うのだと思った。
すぐに続きが送られてきた。

幼少期から、大学卒業に至るまでの道のり、無用な苦しみ、無用な劣等感が愛情という身に覚えのない言葉で上書きされようとしていると感じた。まぁでもさ、私はやっぱりさ、恵まれてるんだよな。高校・大学は親の金で通ったし。経済的には裕福だった。だから、完全に否定するのも、なんか罪悪感あるの。

けど 、本当に、実家に居た頃は親からケチをつけられるたびに消えてしまいたくなってたんだ。それがふんわり良い思い出に上書きされようとしている。そんなの無理だと思ってすぐに連絡しないでくださいって 改めてメールで伝えた。すごい剣幕で送った。

その場の勢いで殺すぞ、書いていた。冷静になると自分が怖い。目を背けたくなる。
まぁ、私も言葉の暴力では負けてなかったよね。被害者であり加害者。離れることでしか平穏を得られない。多分、この文章だけよんだら、私のほうが悪く見えると思う。っていうか、今まで友達にも私の辛さはわかってもらえなかった。メンクリの先生は「しんどかったね」と言ってくれたし、カウンセラーの先生も私の話を聞いて涙を一粒零した。だから私の辛さは、一般人にはわからないものなのだと思う。表面的に見たらいい両親だと思う。でも、彼らと暮らすことはとてもつらいことなのだ。

結局、おばあちゃんの家に住む交渉は決裂

署名に父母って書いてあるけど、これは母親の文章。私達は仲悪すぎてLINEじゃなくてメールでメッセージを送り合う。私はこのメールの返信に、父親のメアドをccで付け加えた。そしたら、なんと父親からメールが届いた。

突然の父からのメッセージ

今まで、一度も仲裁してこなかった、私のことを母親と一緒に貶していた父親から突然、「愛する〇〇さん」から始まる、自分の思い出をつらつらと書いてあるメッセージが届いた。

このメールには怒りが湧いてきたよね。

続けざまに送ったメール。父親からの宣言通り、その後何の返事もなかった。

そう。これで私は家族を無くした。
このメールを送ってからしばらくして、平穏になった。母親からメールが来るたびにざわざわしていた気持ちも収まった。私は両親からやり込められてきたけど、、一方で母親がワンオペ状態で切り盛りする家庭で威張り散らす父親のことが嫌いだった。そして、その点に関して母親に同情していた。本当に、なんか、難しい。母のこと嫌いだけど、でも単純な憎しみだけではない。でも、もう無理なんだ。一人で生きるしか無い。それが辛いとしても。

おばあちゃんの「立派になったわね」という言葉だけが、燦然と輝く。この言葉だけ抱えて、残りの人生を生きていきたいと思う。

ところで、うちの母親は、このおばあちゃんの娘なんだよね。母親は、精神的、肉体的に虐待を受けていたらしい。おじいちゃん(つまり、母親の父親)から受けていたらしいことは、これまでの言葉の端々からわかっていることだ。

虐待の連鎖という言葉を私は実家を出たあとに知った。母親には、幸せに生きて欲しいと思っている。憎しみはあるけど、でも、本当に、私のことを忘れて嫌なことも忘れて、幸せに生きていて欲しいと思ってる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?