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ユリシーズを読む|006.安易な納得|2021.03.15.

『オデュッセイア』第3歌。わけのわからない儀式の描写が続くとうんざりする。ある程度、基本的な知識が共有されるからこそ、こういう描写から映像が想起されるのだけども、装束、建物のサイズ感、人の並びや位置関係、肉を焼くのはどういう道具で?食器はどういうものを?そうしたことをある程度詳しく理解していないと、こちらにできるのは妄想ばかり。
 何の疑問もなくどこかの映画でみたイメージを(しかもそれは古代ギリシアじゃなくてエジプトとかローマとかだったりするだろう)なんとなくで思い浮かべながら妄想して、意味深な雰囲気に酔う。そういう読み方ができる人もいるのかもしれないが、僕はあまりそういうことはしたくない。わからないものの前ではわからないといってしまう。わかった気になること、自分に勘違いさせること、そういう罠はそこかしこにある。いや、それを望んでいるのは脳だろう。安易な納得への罠をしかけてくるのは、いつだって自分の脳なのだ。
 意識の下にある無意識が、意識へと安易な納得感を提供する。意識は、自覚しなければその提案を受け入れる。意識は思っている以上に無意識のいいなりだ。無意識は、意識が自分で納得したと勘違いするところまで用意してくれるので、意識は自分で考えて納得したと満足する。自分では何一つしていないのに、全部自分でやった気にさせられる、おだてられて悦んでる裸の王様、それが意識だ。意識にできることといえば、無意識からの甘い提案に、否、と返すことくらいだ。無意識にとっては、生命に問題のない疑問はとっとと納得した気になって、違うことに気をかけたほうがコスパが良い。脳の消費カロリーは大きいのだ。

話が逸れたが、儀式というのは、こうまでやってることの意味がわからないと、想像すればするほど滑稽にみえてくる。

生贄の舌を火にかけると、一同は立ち上がってその上へ神酒を注ぐ。
(『オデュッセイア』(上), 松平千秋訳, 岩波文庫, p.75)

何をしているのだろう。それに何の意味があるのだろう。生贄は神酒を味わっているのだろうか。生贄と神酒とによって前後に関係性が感じられるが、それを剥ぎ取ってしまって、生贄を豚と読み替えると、もはやシュールレアルの詩だ。
 厳かな雰囲気や、いたって真面目なふるまい、歴史の古そうな様子(実は案外、古くない場合もある)に騙されてしまうが、儀式は神なり精霊なりに向けておこなっているようでいて、その実、自分たちに向けておこなっている自己暗示、集団幻想なのだろう。とりあえず、同じ所作を繰り返すことで、何かがおさまったと納得する。そういう手続き。近代的な理性の持ち主としてはそう感じてしまう。もしその儀式に神に通じる意味があるのであれば、どうして別の民族では違う方法を用いるのだろうか。

儀式とは、とても古いもののようで、現代にもいくらでもみつかる。珈琲にこだわるマスターのお湯の注ぎ方であったり、ソムリエがワインをあける手順であったり。儀式はパフォーマンス的なので、芸能にもつながっていく。儀式を担うものから、芸能者が派生してくる。芸能と儀式はルーツをともにする。絵と文字とがそうであるように。

どうやら、脳が習慣に堕するところに安易な納得や儀式がある。脳は消費カロリーをおさえるため、様々な思考停止のツールをうんできた。自分自身へ向けては、平凡な納得と同意。行動様式をパターン化することで思考の無駄を省く。他者に向けても、一定の所作を経ることで何かが達成された、と勘違いさせる。でも、いつまでも自転車に乗るときに悩んでいても仕方がない。スポーツ選手がベストパフォーマンスを発揮するのは、無意識をうまく機能させられたときであったりもする。
 自分のなかにいる絶対的な無意識さんを教育する。無意識さんの奴隷になるのではない。努力も勉強も、すべてそういうことだ。


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