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知性認識のパラドックス

松田語録:潜在空間の活性化 - YouTube

 ここでも逆説パラドックスですね。  
 人間的には、直観と推理の作用様態で、直観より推理の方が(右脳より左脳の方がということも考えられるようですが、この場合、直観でなく直感かもしれません)、高次の知性認識作用であると思われがちです。  
 CoTの様にsuccessive継起・継次的な推論・言語生成をする理性作用(ratiocinatioは理性の運動・働き)には時間と空間における認識の展開が前提します。ここには言語として観ても主語と述語の結びつきなど、複合的要素があり、様態modusがcomplexになっています。人間も存在者ensとして複合的存在者であるとされる所以で、その知性作用の様態に反映しています。  それに対してSimplex純粋・単純な存在者は、その働きの様態も単純で、知性作用もsimplex apprehensio単純把握・直観による認識作用となると、神学では考えられてきました。  
 「moudus operandus sequitur modum essendum.働きの様態は存在の様態に従う」という基礎原理に正に従って、上位の知性作用の方が直観をもっぱらとなすわけです。
 「御言葉の受肉」という『ヨハネ福音』の冒頭にあるロゴス神学のテーマは、(完全知性体イデアの中のイデア=純粋現実態エネルゲイア=人間が神と呼ぶ者の自己認識による自己概念ノエシス・ノエセオス=宇宙の全てがそれに基づき創造された)その御言葉が、人間的身体の位置する時空の様態に降りてきた、即ち人間の立場になって寄り添ったということを表象しています。
   全情報(ビッグデータ)をそのまま提示して世界を見せるのではなく、LLMは人間的言語に降りてきて推論して見せるのでしょうか・・・?

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