丸の内9

東京駅は城の中にあった

東京のど真ん中、丸の内はいつも華やかだ
丸の内のOL、ビジネスマン、都会の真ん中でバリバリ働くスーツ姿、そんなイメージが強い。

前回は、この場所に建てられたモダニズム建築に触れた。昭和の時代に入ると、そこにはもう今とは変わらない洗練された丸の内が出来上がっていたんだ。

では、ここがそんな都会の中心部になったのはいつからだろう?
上野~東京ツアー後半はそんな丸の内の歴史を歩きながら考えてみる。

丸の内10

三菱一号館 1894年(2010年復元)

丸の内の通りを歩くと、東京駅に似た赤レンガの建物が見えてくる。この三菱一号館は明治政府が雇ったイギリスの建築家、ジョサイア・コンドルによって建てられた。そして依頼をしたのは三菱。この丸の内に今に続くオフィス街が誕生したのは岩崎邸庭園でも触れた三菱・コンドルのコンビだった。

明治の中頃、陸軍の土地として使われていたこの辺り一帯は、軍が郊外に施設を移すに当たって民間に払い下げられた。この土地を買ったのが三菱だったのだが、しばらくの間運用されることなくただ荒地が広がる様は「三菱ヶ原」を揶揄される始末だったという……。

そんな土地もコンドルのグランドデザインに沿って、徐々に西洋式の建築が広がっていった。そしてついた名前が一丁倫敦(ロンドン)。まさに明治日本が憧れる大都市、ロンドンのような街並みがここ丸の内に広がっていった。写真の三菱一号館は2010年に復元されて、通りからは当時の外観を見ることができる。西洋に追いつけ!の精神で出来上がった東京という街。中でもこの建物は一号館というだけに、そのさきがけ的存在だ。

今回の散歩に向けて手に取ったのはこの本。丸の内の歴史と、明治時代の東京の都市計画についてまとめられている。地図も多く載っているし、図面などの資料も豊富だった。設計者のジョサイア・コンドルについて紹介するページも多くて、彼が手掛けた建築スタイルについての解説もあった。イスラム様式を採用した建築を多く残したこと、そしてたくさんの日本人に建築の技術を教え、弟子を育てたことなど、日本の近代化を都市と建築を通じて知ることができる。


さて、丸の内は陸軍の土地と書いたけど、その前はどうだったのだろう?そもそもこの丸の内という地名はなんだ?
近くには皇居があることだし、丸というのもなにやら江戸城に関係しそうな気はする。「敵の本丸(ほんまる)を攻めろ!」なんて言葉を時代劇なんかで聞いたことがあるかもしれない。

丸の内周辺地図 

さきほど挙げた本「丸の内スタイル」にはこの土地の由来も書かれていた。江戸時代の丸の内は武士の屋敷が集まる政治の町、そしてその外側には日本橋などの町人の町が広がっていた。今でこそ、この二つの性格を持つ町は地続きで繋がっているけれど、江戸時代には外濠(そとぼり)という水路が江戸城を取り囲んでいて、丸の内はその内側に当たる。だから江戸城(丸)の内側で丸の内というわけだ。


どこまでが城の内側だったのか、今の地図ではわからない

江戸時代にはたくさんの水路が広がっていたけど、近代以降になるとその多くは埋め立てられている。こういう地名の由来を知るには古い地図と見比べるのが一番いい。下のサイトは江戸時代と現代の東京周辺を見比べることができるアプリで、今回の散歩の下調べに使ってはじめて丸の内の昔の範囲を知ることができた。言葉の説明を聞くよりも、まずは地図を見るのが一番だ。


丸の内

昔は江戸城の敷地だった駅前広場

ここまで見てきた中央郵便局も東京駅も、すべて江戸城の中に建っているというわけだ。赤レンガの一丁ロンドンも、現在のオフィス街もぜんぶ武家屋敷の跡地だと考えると歴史の重なりの面白さに気が付く。どうりで巨大な高層ビルが建てられるわけだ。ダイナミックな変化をしながらもその背景には歴史の動きが常にある、東京のど真ん中でそんなことを考えた。


#歴史 #建築 #東京 #散歩 #街歩き

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