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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(49)

〈前回のあらすじ〉
 チェックアウトの際、フロントクラークが小さな封筒を示した。それは直が獲得し、まことが受け取った旅行券だった。黒尾とかおりはそれを福島への復路に使うこともできたが、二人は迷わず諒と同じ目的地を目指した。その道中、かおりは黒尾の身の上話を聞く。黒尾はまるではるか水平線の彼方を目指す冒険家のようであった。 

49・まだ自分が救われるべき人間、あるいは自力で立ち直る余地のある人間であるように思えた

 黒尾が手配したシティホテルの近くにあった駅に行き、僕は券売機の上部に掲げられた路線図を見上げた。その駅の名さえ初めて目にした上に、その路線図にあるほとんどの駅の名を、僕は知らなかった。

「すみません」僕は、改札にいる駅員に声をかけた。「静岡県の清水というところに行きたいんですが、ここからその方面に向かうには、どの切符を買ったらいいですか?」
「ここからだと、小田原に出て、JRに乗り換えるといいと思うけど」 
「ここはJRの駅ではないんですか?」

 僕がそう尋ねると、駅員は少し鼻で笑うようにして、「ここは小田急線って言うんだよ」と言った。

 時刻はまもなく夜の十一時になるところだった。かおりと反目して、その勢いでシティホテルを出てきてしまったので、小田原まで移動して宿を探すか、このままここで別の宿を見つけて、翌朝に移動を始めるか、僕は躊躇した。しかし、万が一、黒尾とかおりに翌朝に鉢合わせてはバツが悪いので、僕は小田原までの切符を買い、深夜の電車に乗った。

 僕は見知らぬ夜の闇を走り抜ける電車に揺られながら、ぼんやりとかおりや竹さんのことを考えていた。

 僕は僕の意思とは裏腹に、厄介な重い荷物を背負わされて生きてきた。

 もしも僕以外に、父親と兄の自殺や母親の引きこもりという荷物を背負ってしまった人に出会えたなら、僕はそれがその人にとってどれだけの重さだったのかを尋ねてみたいと思っていた。だが、なかなかそういう人と会うことも叶わず、仕方なく暗闇を手探りで歩くように生きてこなければならなかった。その闇が最も深かったのは、直を失ってからの日々だった。

 だが、僕は思いがけず、アルバイト先で出会った竹さんやかおりの中に、僕が抱えた闇に似たものを見出し、少しずつそれに寄り添うようになった。誰かに何かを委ねられるようになると、まだ自分が救われるべき人間、あるいは自力で立ち直る余地のある人間であるように思えた。その救いの手も立ち直る術も、目に見えるものではないが、確かにそこにあるという確信を感じていた。

 僕が水族館に申し込んで面接に出向いたとき、かおりがポツリと言ったことを、僕は忘れていない。

「わたしも、片親なの」

 他愛もない一言だが、同じく片親である僕に向けて、かおりもまた救いを求めていたように思えてならなかった。

 かおりは高校在学中に母親を病気で亡くしてから、残された父親と祖母を守るため、中途退学を余儀なくされた。そして、ほどなく祖母も亡くすと、かおりが父親に同情したことをきっかけに、父親の性の捌け口も担い、やがてかおりもその行為に慰めを求めるようになった。

 元来明るかったかおりだから、そうした歪んだ環境に立たされても、周囲には笑顔を振りまき続けた。友達と青春を謳歌したかった無念や思春期に恋を諦めた思いなど、かおりはその笑顔の下に封印したに違いない。

 父親と二人きりの暮らしの中で、家計を助けるために水族館に働きに出たのは、いよいよ、父親と二人だけの閉鎖的な暮らしに危うさを感じたからかもしれない。そこで、図らずも竹さんという無垢な存在に触れた。すると、自分の苦悩も知らずにただ身体だけを求めてくるようになった父親への憐れみや、身勝手な欲望に任せて自分をおもちゃのように扱う高木への蔑みなど、かおり自身が抑えつけてきた不浄な気持ちを洗い流すことができたのかもしれない。そこに僕がアルバイトとして採用された。その時は僕の父親や兄が自ら死を選んだことを知らなかったが、履歴書で読み取った家族構成から、かおりは僕に対してひとり親家庭の共感を抱いたのだと思う。そして、両親の死後、兄弟から見放された竹さんに対しても。

 小田原に着くと、僕は改札を出て一番初めに目に飛び込んできたビジネスホテルの看板に導かれ、そこに宿をとった。幸い平日ということもあり、滞りなくシングルルームを確保できた。加えて、日付を変えてから深夜にチェックインしたことで、宿泊料金の割引もあった。旅行券を手放した僕にとって、そうした思いがけない割引は、とてもありがたかった。

 フロントで宿泊料金を前払いし、小さなエレベーターに乗って部屋にたどり着くと、黒尾が手配したシティホテルとは違い、そこは酷く寒かった。バスルームのドアを開いて中を覗いてみたが、ユニットバスの湯船は、とてもかおりと二人で入れそうにないくらい小さかった。

 僕は湯船に湯をためている間、M65を着たまま、冷たいベッドの上に仰向けになった。

(もしも、かおりがいたなら、一緒に湯船に入れなくても、すぐにでも抱き合って、またたく間に身体を温めることができたというのに)

 そう思うたび、僕は鼻の奥のほうが締め付けられ、目尻に涙を滲ませずにいられなかった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(50)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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