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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(60)

〈前回のあらすじ〉
 海洋科学博物館からT大に戻ったまことは、再来訪を待ち受けていた事務員の佐伯とともに校舎内を歩き、風間教授の研究室を目指した。その途中、佐伯は諒の兄が自殺したことを知らず不躾な問いを繰り返したことを詫びた。しかし、諒はただしが生きていたことを知る人が自分を含んだ僅かな人たちだけでは心細く、佐伯に直を忘れないように懇願した。

60・直は父親に懐柔された。いや、懐柔されたふりをしなければならなかった

 僕はゆっくり「風間研究室」と札が掲げられたドアに向き直り、佐伯さんが見えない蝋燭の火を吹き消したときのように、深く息を吸い込み、細く長く吐いた。そして、一歩踏み出し、煎じ損なった茶のような深緑のドアをノックした。

「どうぞ」

 ノックの反響もやまないうちに、ドアの内側から男の声がした。僕は真鍮のドアノブを回し、静かにドアを開いて、研究室に入った。

 風間研究室は、薄暗かった。厚いカーテンの隙間を抜けて窓から差し込む光は、そこだけ歪な平行四角形のプラスチックの板を置いたように、黄金色に輝いていたが、それ以外の光の分子は、シュモクザメの表皮のようなくすんだ背表紙の書物を並べた書棚に吸い込まれていった。だから、光が届かないところは、とにかく薄暗かった。

 研究室に入ると、すぐ右側に給湯室があったのだが、そのドア枠の周りにも書籍が積み上げられていたので、開いた給湯室のドアはその書籍に妨げられ、どうにも閉められなくなっていた。

 そこから数歩進むと、研究室の中央にある筆記机の奥に応接セットがあった。その一脚に、小さな初老の男性が座っていた。その人が風間教授だった。

 頭髪の半分の量が白髪で、それが適度にもとの黒髪と混ざっているので、全体は鋼色に見えた。ツイードのスーツを着て、一人がけのソファーに座っている風間教授の体躯は決して大きくないと想像できた。何しろ、穿いているチョコレート色の革靴が、女性のパンプスくらいの大きさしかなかったからだ。

「よく来たね」

 僕がまだ書籍の谷で右往左往しているというのに、風間教授は暢気にそう言った。

 僕はようやく応接セットの手前に出ると、風間教授に一礼し、改めて名を名乗った。

「逸見まことです」
「タダシにマコトか。マコトとは、どのように書くのだね?」

 風間教授は挨拶もろくにせず、ぶっきらぼうに尋ねてきた。

「ゴンベンに、『京』と書きます」
「ほう、やはり。益者三友だね」

 そう感心しながら、風間教授は黒尾が居酒屋で教えてくれた孔子の言葉を口にした。

ただしきを友とし、まことを友とし、多聞を友とするは益なり」

 僕が黒尾から教えてもらった言葉を暗証すると、ステンレスのレンズフレームを人差し指の背で持ち上げながら、風間教授がその続きを唱えた。

便辟べんへきを友とし、善柔を友とし、便侫べんねいを友とするは損なり」
「それって?」
「君が唱えたのは『益者三友』、僕が唱えたのは『損者三友』だ。ズル賢かったり、誠実ではない連中とは付き合うなということだ」

 そのやり取りが初対面の僕らの合言葉のようで、僕は少し緊張を解くことができた。その脱力感が伝わったのか、風間教授がソファーに座ったまま、僕に着席を促した。風間教授が腰掛けている一人がけのソファーの脇にある小さな灯油ストーブが、穏やかな炎を揺らめかせていた。

「少し冷めてしまったが、紅茶を飲みなさい。生憎、安物のティーバッグだがね」

 風間教授は組んできた足をほどき、一人がけソファーの背もたれから上体を起こして、テーブルの上に置かれた白磁のティーポットを手にとった。

 これだけあらゆるところに書籍が積み上げられているというのに、応接セットの真ん中にあるローテーブルの上には、一つのティーポットと二客のカップ・アンド・ソーサーと、たった一冊の本しか置かれていなかった。恐らくその本は、僕を待つ間に風間教授が読んでいた本なのだろう。本のカバーは外されていたが、その本の背表紙には『続813』と書いてあったが、僕はその本の作者を知らなかった。背表紙に小さく刻印された作者を読み取ろうとしたが、僕の座っている場所からは暗くて読み取ることができなかった。

 風間教授がティーカップに紅茶を注ぐと、埃っぽい研究室に芳ばしい紅茶の香りが舞った。そして、その香りに心をほぐしている僕の前に、風間教授はカップ・アンド・ソーサーをそっと置いた。

 風間教授はティーポットに残った紅茶を自分の飲みかけのティーカップに注いだ。そして、注ぎ口の雫を切ると、風間教授はティーポットをローテーブルの上にそっと置き、再び椅子の背もたれにゆっくりと身体を預けた。

「突然押しかけて、すみませんでした」

 僕は恐縮して、そう言った。高校を卒業して以来、先生という肩書を持つ人に会うのは、初めてだったからだ。

「いや、それがね……」そう言って、風間教授は自分のソーサーとカップを手に取り、静かに紅茶を啜った。そして、そのカップを胸のあたりの高さに保持し、次の動作の号令を待つ牧羊犬のように、天井の一点を見つめていた。「……突然ではないのだよ」

 僕は、そう言った風間教授の言葉の意味を、即座に理解することができなかった。

 ぐるぐると思考をめぐらし、もしや僕がへそを曲げて一人で電車に乗って移動している間に、福島に帰ると思っていた黒尾とかおりが先にこの地へたどり着き、風間教授との接見を果たしていたのではないかとも考えた。ただ、直の親族でもない黒尾とかおりがあの有能な女性軍人のような佐伯さんから、校内に入る許可を得られたとは思えない。百戦錬磨の黒尾であっても、佐伯さんの鉄壁の守りを崩すことは困難だっただろう。だから、余計に風間教授の短い言葉に、深い指南が含めれているのではないかと考えてしまった。

「逸見くんのことを、僕はすっかり記憶の隅に押し込めてしまっていました」
「忘れていたのではなくて?」
「忘れていたのだろうと言われれば返す言葉もないが、君ではない先の客に逸見くんのことを尋ねられたとき、自分でも驚くほど鮮明に、彼の面影が蘇ってきたよ」
「先の客?」
「あぁ、君より一回りくらい年上の女性でね、逸見くんとは……、つまり君とも従姉の関係にあるのだと、その女性は言っていたよ」

 柳瀬結子だ。僕は直感的に、いや断定的にそう理解した。そして、行方知れずとなっていた彼女が、その彷徨の先に僕と同じ三保の松原に辿り着いたことに驚きつつも、まだ生存していてくれたことに胸を撫で下ろした。

「その人は、僕らの従姉ではありません」
「あぁ、わかってますよ」

 そう言って、風間教授は僕に優しく微笑みかけた。

 父親の部下であった柳瀬結子。そして、直の恋人であった柳瀬結子。水族館に僕を訪ね、そこでようやく僕から直の死を聞き出した。それ以来、僕の前から姿を消してしまったと思ったら、彼女は海まで下った鮭が本能に任せて故郷の川に遡上してくるように、直が暮らした三保の松原と、直が在籍したT大学を訪れていた。

 それにしても、いかにして柳瀬結子は佐伯さんの厳格な審査を通過して、風間教授に会えたのだろう。もしかしたら、そのときは別の事務員が彼女に対応したのかもしれない。あるいは、佐伯さんが柳瀬結子の身元確認を怠ったことを省みて、その後大学を訪れた僕の審査が厳しくなったのかもしれない。

 僕の頭の中には、四方八方から暴風雨が吹き荒れ、渦巻いていた。その嵐は、もう二度と晴れ間など拝ませないぞとばかりに、激しく、際限なく僕に吹き付けた。

 柳瀬結子が縋る人は、もう直しかいなかった。でも、もう直はこの世にいない。そんな絶望の中で、柳瀬結子は直が言った「今、悲しくても、きっとすぐに笑える日が来るさ」と言う言葉の確証が欲しかったのだろう。直が、大学の目の前にある駿河湾の深さほどの傷を心に負い、人間であることを恥じ、悔いて、この世から決別した経緯を、どうしても、柳瀬結子は知りたかったのだろう。

「あの人は、逸見くんの従姉ではない」

 風間教授は、改めてきっぱりと断言した。虚言を繰り返してばかりいる罪人に頑なな有罪判決を下す裁判官のように。

「容姿も似ていないし、佇まいにも違和感があった。ただね……」風間教授はティーカップに指を触れたが、ソーサーの上で取っ手を弄んだだけで、カップを手に取らなかった。「あの人には、逸見くんと同じ純真があったよ」
「純真?」
「ええそうです。何物にも染まっていない無垢な心です」

 そう言って、風間教授はようやくソーサーごとカップを取り上げて、温い紅茶を美味そうに啜った。僕も風間教授の所作を真似て、左手でソーサーを取り上げ、それを胸元においてから右手でカップを持ち上げた。それは心に吹き荒れる嵐をおさめるための、儀式のようにも思えた。

「澄んだ湧水がけがれやすいように、純粋な人ほど傷つきやすい」

 風間教授は虚空の一点を見つめて、そう言った。

 僕は風間教授のその言葉を聴いて、古いことわざや偉人の格言にそのようなものがあった気がした。そして、頭の中で何度もその言葉を反芻しているうちに、昨年末に竹さんが暮らす敬光学園の忘年会に行ったときのことを思い出した。

「だって、澄んだ泉ほどけがれやすいんだもの。人間だって同じ。純粋な人ほど、本当は傷つきやすいのよ」

 そう言ったのは、かおりだった。僕は改めて、自分自身の純真も取り巻く人の醜い心に汚れされてしまったかおりを愛おしく思った。

 そして、風間教授は、ずっと見つからなかったクロスワードの答えに辿り着いたように、直について語り出した。

「弟の君ならわかるだろうが、それほど社交性に富んだ青年ではなかった」
「その通りです」

 僕は心の中で、血の繋がった弟にさえ本心を見せなかったのだから、と付け加えた。

「でもね、海洋と海洋生物の研究には、心血を注いでいたよ」
「僕も両親も、医師か科学者になると思っていました」
「あぁ、彼ならなれただろうね。でも、彼以外にも医師や科学者なれるような学生はいただろうが、彼以上に海洋生物学に詳しく、かつ熱心な学生はいなかった。彼が他者と大きく違っていた要素はなんだと思う?」

 風間教授は僕を見ずに、独り言のようにそう問いを投げかけた。僕なりにその問いに対する答えを探してみたが、僕がそれに辿り着く前に風間教授があっさりと解答を明かした。

「それが、純真だよ」

 そこからは、自身も海洋生物学者である風間教授の独壇場だった。

「僕も、マナティーやジュゴンには大いなる興味を抱いていたよ。でも、逸見くんのそれには到底かなわなかった。彼はもはや研究対象としてではなく、家族や兄弟を守るかのように、マナティーの生態の研究と個体の保護に尽力したんだ。野生に生息するマナティーを観察するために何度も沖縄に赴いた。しかし、そこで野生のマナティーに出会えなかったことを心底悔しがり、彼は考えるよりも先に、夏休みを利用してマイアミに旅立っていた。そこで、逸見くんはようやく野生のマナティーに出会えたんだ。しかし、現実は残酷だった。自然の中で静かに生きるマナティーの生息域に人間が拝金主義の観光事業や雑な調査で土足で入り込み、彼らを傷つけていた。マナティーは人間が外敵だなんて思っていない。むしろ、一緒に遊んでくれる友達だと思っていた。だから、悪いのは水上に浮かび鋭い刃を回転させて進む固くて巨大な侵入者であり、決して人間ではないと信じていた。健気に、ただ健気に水草をみ、子を産み、それを育て、家庭を守る。それだけの存在。そういうものに、逸見くんは胸を打たれてしまったのだろうね。それと同時に、自分自身もマナティーを傷つける人間の一人であることを思い知らされてしまった」

 風間教授は、長いパートを一気に吹き上げたトランペット奏者が息継ぎをするように、言葉を切った矢先に大きく息を吸い込み、再び語り出した。

「マイアミから戻った逸見くんの心の中に、巨大なつるぎで切りつけられたような深くて暗い傷ができてしまったことは、僕にも手に取るようにわかった。僕だって、彼に負けないくらいマナティーを愛していたからね。ただね、僕が野生のマナティーに出会ったのは、もうこの大学の教授になってからずいぶん経ったころのことだった。学者同士のつまらない競争や大学との研究費の交渉などに揉まれてしまうと、僕の中にも諦めとか妬みなんかが生まれた。愚かだと思うだろうが、それが人間だ。だが、不幸なことに、逸見くんは無垢な心のまま、同じく無垢な心を持つマナティーに出会い、共鳴してしまったんだ。だからね、僕はマイアミから帰って以来の逸見くんを見ているのが、辛かった。アマゾンの深い森が伐採されていくように、北極の氷が地球温暖化で溶けていくように、無垢な心を持つ彼が日ごとに汚れていってしまうのを見るのが、とても悲しかった」

 僕は風間教授の話にすっかり引き込まれていた。教授の話を聴けば聴くほど、僕の知らなかった直の姿が、今この場所に浮き彫りになっていくような気がしたからだ。

「その逸見くんが、二年生から三年生に進級するとき、こう言ったんだ。『卒業後は福島に戻って、父親と同じ仕事をします』とね。僕が父親の仕事は何かと尋ねたら、逸見くんは嬉しそうでも悲しそうでもなく、異国の言葉を日本語に変換した電子翻訳機の音声のように『原発です』と言ったんだよ。僕自身はね、原発反対論者でもないし、原発推進派でもない。ただ、逸見くんと原発が、水と油のように混ざり合わないまま、僕の心の中でゆらゆらとうごめいていて、とても居心地が悪くなったのを覚えている。当然ながら、逸見くんが原発についてどのような考えを持っているのか僕が知るところではなかったが、それから彼の海洋や海洋生物に向ける情熱に何かしらの陰りが生まれてしまった印象を拭い去ることができなかった」

 風間教授はそこまで語り終えると、紅茶を一口の飲み、僕に向けて小さく微笑んだ。

 罪を持って生まれた人間が、歳月を経るごとに善行を重ねて罪の許しを得ていくことに対する反定立を実証したと、誇らしく、また哀しく思い、風間教授は微笑んだのかもしれない。

「僕は大学時代の直を全く知りませんでした。それでも、大学を卒業したと同時に地元に戻り、父親と同じ原発に勤めると聞いたときは、やはり信じ難かったです。医師か科学者になるのではと期待されていた彼が、生涯でただ一度だけ親の反対を押し切って海洋生物学の道へ進んだのです。直に憧れ続けていた僕は、何かしらの強い志が彼の中に芽生えたことを、とても嬉しく思っていました。でも結局、直は父親に懐柔された。いや、マナティーをはじめとする野生生物たちに懺悔するように、懐柔されたふりをしなければならなかった……」
「いい考察だね」

 風間教授が、独り言のような僕の発言に、花丸をくれた。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(61)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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