アートに意味は必要か。

昨日は特に意味のない言葉だけを羅列したポエムのような記事をあげました。

中学生高校生のときはこんなのばっかり書いている少年でした。
思いついた言葉をひたすら繋いでいって、そこに後で意味を付けたり付けなかったり。

僕は『偶然にも僕らは出会い、あの時、此処で歌った讃美歌は今でも君の心を支配したまま』という長い名前でソロミュージシャンとして音楽活動をしてるんですが、この名前も元々はそうやって書いたポエムの一部を抜粋した文章です、確か。

名前の由来とか名前の意味とか結構聞かれるんですけど、正直自分でもよくわかっていません。
ただ、周りが勝手に意味を見出してくれたり、自分でもああこういうことだったのかってなったりすることがあったりします。

今は『偶然にも僕らは出会い、あの時、此処で歌った讃美歌は今でも君の心を支配したまま』という名前ですが、数年前は『偶然にも僕らは出会い、あの時、君に歌った讃美歌は今でも僕の心を支配したまま』という名前でした。(違いわかります?(笑))

とある先輩がこの長い名前を解釈してくださって、改名した方がいいとなって少しだけ改名したことがありました。

もしかしたら、この名前は時々改名して少しずつ意味を帯びていくのかもしれません。
正直、長い名前に飽きてきた感もありますが、愛着もあるので大きくは変えられないまま使い続けています。割と話のネタとして使えることもあるので(笑)

ちょっと話は逸れてしまいましたが、僕は昔からアート作品に「意味」「メッセージ」は必要ないと考えています。
全く無意味の中にストーリーが生まれたり、無意味であることが意味だったりすることがあると思っています。
自分の中にパラレルワールドが生まれて、その中で生きている人々がいる。その中にはたくさんのストーリーがあって、作り手がわざわざ意味をつけ足したりしなくていいのかなというのが僕の持論です。

もちろんアートは自由なので、意味やメッセージを込めた作品があってもいいと思います。

これはあくまで僕の持論であり、僕が作品を作る上での考えです。

作品を受け取る側になったとき意味やメッセージがあるものも大好きです。
好きな作品の中にはそういうものもたくさんあります。

ただ、僕が作るときには、無意味であったはずのものの中にストーリーが生まれたり、自分の中にいる小人のような人たちのストーリーを描くことのほうが好きっていうだけです。
僕は僕の視点でそのパラレルワールドを作品にするだけなので、それを演奏したり、文字にしたりして第三者の目や耳に触れたとき全く違う角度から想像を膨らませてくれる人たちもいるのがとても楽しいです。

『あ』

という文字の中にはたくさんの住人がいて、たくさんのストーリーがあります。
その住人と会話をしながら作品を作っていっている感じがします。

結構楽しいんですよ、その会話。

今日もまたある世界の住人と会話をしてきます。

本日2/23は福岡親不孝HOMEにてライブです。
改名したほうがいいって言ってくださった先輩も一緒です。

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先輩方と呑みながら、無意味なポエムのような作品を演奏してきます。

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