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服薬介助の無駄話

錠剤と粉薬はどっちが先だろう。

というのも介護を仕事にしていると、毎日とんでもない量のお薬を扱わなければならない。主に食後がゴールデンタイム。いや、シルバータイムといったほうが適切かもしれない。
いずれにしても医師に処方されているお薬を、各ご高齢者に確実に、滞りなく飲み込んでもらわなければならない。そのために介護士として介入させてもらう。そこそこに神経をすり減らす任務であろう。

もしチョンボがあろうものなら、即カンファレンスが開かれ、チームとしての改善策をお上に明示する必要がある。施設として同じようなミスを繰り返してはならないからだ。つまりお薬のミスはそれほど重大な事態なのである。
もっといえば、仮に誰かがふとした合間に、床に落ちているお薬を一錠発見したとする。いつの、誰のお薬かはわからない。これですら立派な「落薬事故」と処理され、カンファレンスが開かれる。我々が神経をすり減らす理由を少しでもおわかりいただけるだろうか。
つまり場合によっては本当に命に係わる分、連日連夜それぞれの「服薬介助」には相応の集中力が求められるのだ。

だが当然ながら「服薬介助」は十人十色。
人によってお薬の種類もちがえば数もちがう。タイミングもちがえば飲ませ方もちがってくる。よってこちらの介入の仕方も変わってくるのだ。
たとえば今ぼくが所属している現場を思い返すと、手のひらに差し出したお薬を――それが10錠以上ある数量でも――すべてをキレイにお茶で流し込んでくれる人もいる。むしろ究極、認知症も見られず身体麻痺などもないしっかりし過ぎた人の中には、「お薬はすべて自己管理」という90代もいる。介護の手間が省けてありがたいのが本音だが、あまり大きな声では言えない。これも本音である。

他方、いわゆる「全介助」の人がいる。このようなケースでは、確実に滞りなくお薬を飲んでもらうのにしばしば難儀することが多い。
これまた今の現場を思い返すと、「錠剤」を「異物」として吐き出す人がいる。食後、正攻法に挑んだところで吐き出されてしまうのがオチなのだ。とはいえ飲んでもらわなければならないし、落薬につながってはこちらの責任問題になる……。たしかにやわらかい軟菜食を食べきったあと、いきなり硬い錠剤をお口の中に放り込まれたら誰だって「異物」と感じるだろう。
だから介護士の一つの技として、錠剤を粉末に砕くという突破口がある。さらにその粉末を、プリンやゼリーなど食べやすいものに混ぜ込む。良薬は基本的に口に苦いわけだが、甘味の強いものに混ぜ込み、なんとか中和することで、ギリギリ食べてもらえることがある。結果お薬を飲んでもらえるわけだ。だから本来は「食後薬」であろうと、上手に「食中」に混ぜ込むのも介護士としてのテクニックといっていいだろう。
最初から粉薬にしてもらえよという意見が正しいだろうが、労を惜しまないのが美徳でもあろう。閉口したまま乗り切るのが、現場のやり方である。また実際に意見したところで、錠剤化できないお薬もあるという。なら現場で何とかするのが得策だろう。

なんてことを朝食。全介助しながらぼんやり考えていると、冒頭の疑問が浮かんだりする。

錠剤と粉薬はどっちが先だろう。

個人的にはおそらく、先に粉薬、のちに技術が伴って錠剤化が進んだと思っている。
お薬の古い歴史を紐解けばきっと、薬草など、植物や鉱物が主流の話になる。樹液を飲むことで健康が保たれるとされたり、ある葉っぱを火傷した肌に貼ることで治癒を促したりといった話になるだろう。起源となるのは粉か液体か、はたまた塊なのかは、さまざまな文献に当たる必要がありそうである。

だから面倒くさがりのぼくは、ほとんど推測でいかせてもらう。
まずきっかけ。自分が子供の頃の風邪薬といえば、まだ「粉薬」が主流だったと記憶している。でも今「錠剤」も増えてきたという実感を考慮すると、どうしても前代が「粉薬」、のち(技術が進んで)の「錠剤」だと、(主観的に)棲み分けていた。

とはいえ一応ある程度の思案はした。そもそも薬剤を凝固(錠剤化)するにはどのような工程を踏むのか。いわゆる「粉薬」というものは錠剤を粉末化するのか、それとも「錠剤」は粉末をもとに凝固させるのか、など。

別に研究者ではないのでササっとググる程度の調べだが、昭和30年頃まで、製薬企業で生産される医薬品は「粉薬」が大半を占めたいう。その情報は、ぼくの記憶とも相まって、やはり「粉薬」あっての「錠剤」という順番を確かなものとするのだ。

まぁ真実はどうでもいいにせよ、「粉薬」あっての「錠剤」だとしよう。要は「粉薬」から進化したのが「錠剤」である。要は「錠剤」のほうが「粉薬」より使い勝手が良いはずであり、飲む側も飲みやすいなどのメリットを多分に含んでいるはずである。
でも、こと現場的には、進化した産物をわざわざ手間暇かけて「粉薬」に戻そうということで、地味ながらも真剣に労力を施す場面がある。「錠剤」のままでは任務を遂行できなさそうだから、「粉薬」にしたほうが良いだろうという判断のもと。

繰り返すが、詳しいことは調べてもいない。
だがはたして「錠剤」と「粉薬」どっちが優れているのだろう。
「錠剤」優位とするなら、わざわざ砕くぼくたちの労力はどこに還元されるのだろうか……。


職を変えるべきか……などの思いから、「履歴書」というものに目をやる。
今でこそ「履歴書」というものは、上っ面の情報だけで大事なことを決められる「差別の温床」みたいに捉えられている節があるが、実は正反対の思想から始まっているらしく、「差別をなくそう」という運動の中から生まれたのが「履歴書」だそう。

黒人差別から公民権運動にまで及ぶ話だが、簡単にいうと、本来「履歴書」というもののスタートは、外見や出自に縛られない「情報」を頼りに、「公平」に人事採用するためのものだったという。
たしかに「学歴」や「職歴」だけを尋ねるものであり、当人の細かな「出自」や「趣味」には踏み込んでこない構成であろう。
ただ、ぼく自身もかつて経験したように、「履歴書」の情報だけをもとに選別されるのもまた事実。
「差別をなくそう」として生まれた制度に則ると、新しい「差別が生まれる」と実感するのであった。

錠剤と粉薬はどっちが先だろう。

ぶっちゃけそんな話はどうでもいい。
おそらく恣意的に事実を捻じ曲げることだってできる。
ただぼくの肌感覚としては、「粉薬」→「錠剤」として広まっていった。

「錠剤」を必死に砕く同僚を前に、ぼくは何を言えばいいだろう。

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