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名前があるのは社会的に価値があるから

かつて歌人の穂村弘さんが言った印象的な言葉に、「名前があるのは社会的に価値があるから」というものがある。
一言一句を完全再現はできてはいないかもしれない。だからもしかしたら彼のアイロニカルな一面が出て、「社会的に価値のないものに名前はない」という真逆・否定的な言い回しだったかもしれない。
ただニュアンス的には合っているはずだ。当時コピーライター養成講座に通っていた僕の前にそびえ立つステージの上、ゲスト登壇者として招かれた穂村さんは、「名前」と「社会的価値」の関係性について確実に、流ちょうに語りはじめた。そこははっきり覚えている。次いで穂村さんは「バナナ」を例に話を膨らませていたのである。

バナナを食べる場合、「皮」というか「ヘタ」というか、「チャック」的な部分をめくる必要がある。誰もが関わったことのある行為だろう。だが、バナナのその部位や行為には名前がない。
いや、もしかしたら僕らが知らないだけで本当は専門的な名前があるのかもしれないが、少なくとも広く認知はされてはいない。だから現段階では、わざわざ「バナナの」を前置きする必要がある。スムーズな意思疎通ができているとは言い難い状況だ。
仮にバナナの先っぽだからという理由でその部位を「バナ先」と名付けたり、バナナをめくる行為については比喩的に「モンキーアクション」と呼んだりすることもできたはず。より正確に意思の疎通をするために――もっとかゆいところに手の届いた――言葉があってもいいと思われる。のに実際は、くり返すが「バナナの」をわざわざ前置きしなければならない状況である。

このような例を取り上げて穂村さんは、「名前があるのは社会的に価値があるから」。あるいは「社会的に価値のないものに名前はない」という類のことを言い切った。
たしかに、僕自身の実生活において「バナナの」あの部分をうまく伝えられなくて困ったことはない。「モンキーアクション」的な行為を誰かと話題にしたことなどないのである。むしろ「バナナの」を前置きさえすれば事足りるなら、そっちのほうが早いとさえ感じる。困ったことなど一度もないのだ。きっと大多数がそうだと思う。(一部、バナナ農園で働く人や、忙しいスイーツ店の厨房、動物園のオランウータン担当などでは求められる言葉かもしれないが……。)
要は社会的には、わざわざピンポイントで名付けるほどの価値はない。「社会的に価値のないものに名前はない」のである。
裏を返せば、同じ理屈で、(いま世界中に転がっている事物に)「名前があるのは社会的に価値があるから」とも解釈できる。少なくとも僕はそう解釈して、刺さった。だから(穂村さんの?)その言葉がずっと耳に残っているのである。


かなり翻って、次の写真を見てみてほしい。

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これらを整然と積んだのは僕の仕業だが、そこじゃない。これらチラシで作られた一つひとつの箱を折ったのは、たったの一人の高齢者である。うちの老人ホームに入居している90代のSさん(女性)なのだ。

彼女が特別なわけではない。
いわゆる高齢者介護施設の現場において、たびたび目にするのが、チラシで折られたこの箱なのだ。僕の個人的かつ実感的統計では、どの施設――デイサービス、有料老人ホーム、特別養護老人ホーム――においても、おおかた1割の高齢者(100%女性)が、空き時間を利用して淡々とこれ作りに勤しむのである。

どこでどう折り方を教わったのかはわからない。だがなぜか1割の方々はこれの作り方を熟知していて、「時間はある」「退屈はかなんから」という共通の動機から手を動かしはじめる。新たに「自分がやるべき仕事を見つけた」という使命感を持っている方もいるほどに、真剣に取り組む人すらいる。
(しっかりした人の中には)新聞を取っている方も多いので、施設にはチラシが余るほどある。またいずれの施設も、たくさんの高齢者が集まる場所であり、食事やおやつも出るわけで、手の届くテーブル席にそれぞれゴミ箱的なものが欲しいという高齢者側の事情もきっとある。
要は、施設の状況をどこまで鑑みてチラシの箱づくりにつながったのかはわからないが、直感的にでもそれぞれの高齢者が「チラシでゴミ箱を作ろう」と感じたのは確かなこと。手を動かすことで自身のリハビリやいわゆるボケ予防にもつながるとはいえ(だから自身のためでもあるとはいえ)、1割程度の高齢者たちが(おそらく全国各地で)同じことをしていると思うと、なおざりにはできない事態だし、個人的にもとても興味深い。

もしかしたら、かつての女学校では、このチラシの箱の作り方をくり返し学ぶ授業があったのかもしれないと思うほど。そう思ってしまうほどにみな、折り方も出来映えも共通しているのである。

おそらく、いま流行りのSDGsでもあろう。
なぜなら結果的に、(チラシという)ゴミは少しだけ減り、若干ながらほかの高齢者たちの生活環境づくりに貢献しつつ、作り手である自身(一部の高齢者)の生きがいややりがいにもつながっている。

介護士モードの僕としては。
一部の高齢者たちがチラシで折りがちなこのゴミ箱的なものって、社会的にはめちゃめちゃ価値のあるものなんじゃないかと思う。
だが今のところは、「高齢者」が「チラシ」で折った「ゴミ箱」的なものだと、かなりの前置きを入れなければならない。

実際。生活者の僕としても、キッチンの隅に置いたり、ダイニングテーブルの上に置いたりすることでこのチラシ箱を活用している。冗談でもステマでもなく、「めちゃめちゃ使い勝手が良い」のが本音である。

穂村さん、ぼちぼち名付けが必要ですわ。

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