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【エッセイ】カルピスは夏の季語

 季節の変わり目は飲み物の変わり目だ。真っ白かった桜並木が若葉で茂ってゆくように、カフェで頼む珈琲がホットからアイスに移ろい、自動販売機の「あったか~い」が隅へ隅へと追いやられ、冷蔵庫に備蓄されるお茶の量が変わる。毎日家と職場の往復くらいしかやることがない社会人にとって、歳時記に載るような季節感を得ることは難しいが、飲み物は社会人の生活にも密接だ。仕事の合間に飲みたいと思うものが変わると、あぁ、季節が変わったのか、と感じ入る。

 そして高倉は最近、カルピスが飲みたくて仕方がない。
 高倉は毎日、風呂上りには白湯を飲むようにしている。湯冷めをしては風邪をひく。冬は特に、すぐに暖を取らないとすぐに体が冷えてしまうのだから、風呂から上がるとすぐにお湯を沸かし始めて、スキンケアや何やが全て済んだ頃に白湯が完成するようにしている。完璧な段取りであり、健康的な習慣だ。お陰様でこの冬は一度しか風邪をひかなかった。
 しかし最近はすっかり春めいて、風呂上がりの部屋が冷えているということもなく、湯冷めを厳重警戒する必要がある気温ではなくなった。白湯は飲んでいるが、いるが、今欲しいのはこの仄かな温かさじゃない気がしている。
 気温が上がると身体も温まりやすくなる。となると風呂でかく汗の量も増えるというもので、当然、失う水分量も増える。温まりきった身体が欲しているのは更なる温かさではない、水分だ。ほてった身体に染みわたる、きんと冷えた水が欲しい。
 分かっている。そういう話なら水でいい。或いはお茶でいい。白湯より腸内環境に優しくないかもしれないが、カロリー的には変わらない。風呂上りは睡眠前だ、摂取カロリーは少ないに越したことは無い。
 そういう理性的な判断が効いて、「お茶でいいや」と思えるうちは春なのだ。いずれ必ず、高倉はカルピスが欲しくなる。お茶の味気無さでは我慢できなくなる日が来る。カロリー?腸内環境?知ったことか、この欲を殺す方がよっぽど不健康だ!と叫びだす。カルピスが欲しくてほしくてたまらなくなって、スーパーで希釈用カルピスを買い物かごに入れた瞬間、高倉の夏は始まる。

 食欲の季節は秋とされているが、カルピス欲の季節は圧倒的に夏だ。カルピスは季節問わず手に入るが、それでもカルピスは夏の飲み物に違いない。寸胴のガラスコップの中で、からん、と音を立てる氷は、決まってカルピスに浸かっている。
 偏見が過ぎるという自覚はある。今の高倉はカルピスが飲みたいがあまり若干気が触れている。ちょっと喉が渇いてきた、THERMOSのカップを口に運ぶ、麦茶の香りが口内に広がる、舌が、カルピスの甘みを求めている。ああどうして今ここにカルピスが無い。どうして、カルピス、どうして、カルピス、カルピス!!

 高倉の家の冷蔵庫に、カルピスはまだ無い。つまり、まだ春ということだ。天気予報によると、明日、明後日と気温がぐんぐん上がるようだし、明日は買い物に出かける予定だし、そろそろ夏が来るかもしれない。

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