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人と同じはつまらない!は本当か?

日本の教育現場では「個性豊かに!」が叫ばれて久しいと思います。
団塊ジュニアの私でさえ、子どものころから
「個性的」ということはいいことだと言われていました。

まぁ、実際のところは「人とちがうことをする」というのは
あまりいいこととはされなかったですが・・・

私はデザイナーだった両親に育てられましたので、
いつも日常が画材やデザイン用具に囲まれていましたから
なんとなくいつも「創ること」「作ること」
創意工夫が当たり前の環境に生きてきました。

そこでは「個性的」なことはとても褒められました。
当然、私の中では「人とちがうこと」は
ひとつの評価軸としていつも存在していました。

「人と同じなんてつまらない!」

そう思って生きてきました。

ですから、何か「平凡」に見えることがあると
生理的に拒否したり、
否定したりしてきた部分があったと思うのですね。

それはその後、広告業界に入り、
CMなどをつくっていくにあたって、とても有効に機能しました。

そんな自分にとっての一大転機は、
「普通」な感じの仕事や、意図的な「マンネリ」の価値を知った時です。

CMの世界で言えば、例えばいつも理由もなく危険な状況に陥り。
そこから抜け出すリポビタンDのファイト一発!シリーズだし、
映画の世界で言えば「寅さん」ですよね。

ドラマでいえば水戸黄門とか、必殺シリーズ。

つまり、このあとどうなるのか、みんなわかっている、ということです。
そんなのはつまらない。意外な展開こそが面白い。
そう考えていた自分にとって、その価値を理解していく工程は
新鮮さと驚きがありました。

平凡なことというのは、
平凡な能力によって生み出されているのではない。
平凡であろうとすることは、努力を要するのだ、
ということを知ったのでした。

そこでは隣の人と同じように喜怒哀楽を感じ、
共感することに価値がありました。
もしかすると、甚だ古臭い考えのように思われるかも知れません。

けれど、本当にそう感じたのです。
言ってみれば、私の中では個人主義的な価値観しかなかった自分が、
大衆的な感覚や喜怒哀楽がわかるようになった。

田舎で暮らすおじいさん、おばあさんの人生に、
敬意を持つようになった。
すべての人に人間ドラマがあることを知った。

そんな感覚でした。

「普通」なんてつまらないと思っていた私は、
「普通」を理解していなかったんですね。
私にとっては個性的にすることはとても簡単で、
でもその考え方はコアな支持者をつくることはできても
メジャーになることができない。
大多数の人が深く考えることなく共感することができるという価値観。

それを見極めることには、
ものすごい創意工夫が必要なのだとわかったわけです。

「普通」の意味や意義。「マンネリ」の偉大さ。
そこに気づいた私は、
それ以降、簡単にマンネリを否定することはしなくなりました。

それでもやはり、
「普通」や「マンネリ」には非難されるべき点があると
私は思っています。

それは、深い思考の結果、「普通にしておくべきだ」と結論づけたり、
「マンネリという選択をしよう」としているのか、
あるいは、ただの思考停止に陥って「面倒臭いから前と同じでいい」とか
「新しいことは何もしなくていい」としてしまっているかのちがい。

目的意識のちがいです。

人と同じことや、人とちがうことに、
どのような意味や意義を見出しているのか。
どのように意識しているのか、ということこそが、
最も問われなければならないことなのです。

なぜそうなのか。
そうであるべきなのかを自分の頭でしっかり考えること。
それこそが重要なのであり、
教育現場で子どもたちに備えさせてあげるべき力なのです。

大切なのは「人と同じか、ちがうか」ではないのです。
なぜそれをするのか、という目的意識です。

しっかりと考え、判断し、行動した結果として
人とちがっていても、同じでも、どちらでもいいのです。

いけないのは、無目的に「人と同じであろうと」することであって、
人と同じことそのものが悪ではない。

人と同じであろうとすることを目的にすることが悪なのです。
それは同時に、人とちがうようにすることを
目的にすることも悪だということです。

大事なのは、「なぜそうするのか」だからです。
そこが抜け落ちているのであれば、
個性的であることにもそれほどの意味はありません。

日本人が傾向として没個性化するのは理解しています。
それは恐らく日本が四方を海に囲まれた島国であることに
端を発していることです。

単一の価値観の中から逃れる場所のない日本人は、
必然的に集団主義的になっていきました。

そこから「恥の文化」が生まれ、
現代の「同調圧力文化」へと進展していった。
そのような日本人は人前では他人に合わせつつ、
心の中では他者を煩わしいと感じるという
感情の「闇」を抱えたのでしょう。

それが経済のお客さま至上主義や、
ネット社会の匿名性をという「主張できるメカニズム」を得て、
どんどん荒んだものになっていった。

そんな心の変容が起きてきたのだと感じます。

日本は物理的に島国であるだけでなく、
日本語も日本円もこの地球上で日本でしか使えませんから、
すべてがガラパゴス化しやすいんですね。

そんな日本自身を反省したり、戒めたりする意味で、
海外の文化を異常なまでに崇めてしまうという傾向もあります。

なぜいつも、こうもバランスが悪いのか・・・

今の日本人に足りないのは、
深く「意義」を考えるチカラだと思います。
なぜそうなのか。なぜそれが必要か。
それはいったいどういう意味なのか。どういう現象なのか。

そのようなことを経済合理性などではなく、
精神的な豊かさをもって深めること。

その結果、人と同じになろうが、人とまったくちがっていようが、
どちらでも構わない。

そんなことは、本質ではないからです。

何が本当に大切なのか?を考えることを
子どもたちに身につけさせてあげることこそが、教育の目的だと思います。

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