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「それはなぜだろう?」思考だけが、人類を救う。

今朝、ある本を読んでいて、ものすごく重要な、
人類の存続に関わる法則をみつけたので、
そのことを共有したいと思います。

お腹が空いていない人は、そこに食べ物があっても食べませんね。
けれど、それがものすごくいい匂いだったら、
もしかしたら食べるかも知れません。

そんな話です。

皆さんは「万有引力」を知っていると思います。
あるいは「相対性理論」を知っていると思います。
内容はともかく、そういうものがあることを知っているでしょう。

万有引力はアイザック・ニュートンが発見したもので、
すべてのものにはお互いに引き合う引力がある、という法則。

相対性理論は、アルバート・アインシュタインが発見したもので、
時間と空間は絶対的なものではなく、相対的なものだ、という理論です。

私が今日したいのは、それらの説明ではなく、
彼らがどうしてそれを思いついたのか、ということです。

有名な話としては、木から落ちるリンゴを見たニュートンが、
万有引力を発見し、
光の矢に乗ることができたら、と考えたアインシュタインが、
相対性理論を発見した、というものです。

「発見した」と聞くと、なにか「閃いた!」みたいな印象ですが、
そういうことではありません。
ニュートンの方で説明すると、ニュートンは、木から落ちるリンゴをみて、
「なぜリンゴは落ちるのだろう?」と思ったのです。

そして、木のリンゴは落ちるのに、
空にある月はなぜ落ちてこないのだろう?と思ったのです。

その理由が知りたいと思ったニュートンは、そこから必死に考え、
そして「すべてのものに引き合う力がある」という説に到達した。

アインシュタインで言えば、
我々が物を見ることができるのはなぜだろう?と考えると、
光があるからだ、ということになり、
つまり目で見えているものは光の速さで進んでいるということだが、
では、その光と同じ速度で進んだらどうなるのか、と考えた。

そして光の速さは一定だとすると、
実は時間や空間の方が歪むのではないか?という説に到達した。

そんな感じですね。

多くの人は、リンゴが木から落ちても、
光があるからものが見えるのであっても、
「それはなぜだろう?」とまでは考えないわけで、
一見当たり前すぎて気にもとめないようなことについて
その理由を知りたいと思った、というところに重要なポイントがあります。

先ほどの「万有引力」も、「相対性理論」も、
人間がこの地球上で生き物として生きていくためには
特別、必要な知識ではありません。

現に、この地球上に存在する人間以外のすべての生命体は、
「万有引力」も「相対性理論」も知らずに、ちゃんと生きています。

逆に言えば、それらを生み出した「考える」という行為だけが、
人間をその他の全ての生物と分けているちがいであり、
「考える」ことの根源は「それはなぜだろう?」と思うことなのです。

そこが今回の発見なのです。

「なぜだろう?」と思い、知りたいと欲すること。
それだけが人間の、人間たる所以だといえるのです。

「そう思わない俺は人間じゃないってのか?」と
腹が立つかも知れませんね。
そう思わない人も人間ではあると思いますが、
人間にしかできない特典・利点を使いきってはいない、と言えるでしょう。

人間の利点を使いきれていないということは、
人権を侵害されていることであって、
「それはなぜだろう?」と思わないように育ったということは、
教育があなたの人権を侵害したと言えなくもないですね。

冒頭に「お腹が空いていない人は食べ物を食べない」と書いたのは、
日本の教育の欠点を指摘したかったからです。
日本の教育は、子どもたちに知識を植え付けようとします。
でも、なかなかうまくいきません。

その理由は簡単で、教えられることを、
子どもたち自身が「知りたい」と思っていないからです。

最近は子どもたちの発想力や創造力を伸ばそうとする教育やサービスも
いたるところで考えられていますが、私がちょっと違和感を感じるのは、
クリエイティビティというものは確かに重要なのだけれど、
それは「創ることが楽しい」というようなことではないのです。

そうではなく「考えることが楽しい」なのですね。
「考える」と「創る」は直結していますが、目的は「考える」にある。
手を動かすことで脳が動くわけで、脳を動かすことに本質的な意義がある。

つまり人間は、今よりもっともっと「アタマ」をつかう必要がある。
「脳みそ」を使う必要がある。
その使い方を教えてあげる責任が、教育にはあるのです。

科学者になった人の話を聞くと、だいたい共通しているのは、
「なぜなんだろう」という疑問を持つ考え方をする習慣があったことと、
それを知りたいと思う能動性があったことです。
わかったときに喜びや楽しさを感じる感覚があったことです。

しかし、これは科学者だけではなくて、
例えばイチロー選手など、アスリートたちでも、
あるいはビジネスの世界で成功した人たちでも、
何か「ことを成している人」というのは、この発想方法をしている。

「それはなぜなんだろう?」ということを考えているのです。

ですから、小学校などで教えるべきは、
そして終生、意識し続けるべきことは、
「なぜなんだろう」と思う思考回路を身につけことです。
その思考回路さえ身につけば、あとは勝手に好奇心が自走します。

では、それはどうすればいいのか。
冒頭に書いたように「いい匂い」をさせてあげることです。

「いい匂い」がどんな匂いなのかはそれぞれにちがいます。
そこは絶対の答えはありません。教育に絶対の答えはないのですが、
いい匂いによって「なぜなんだろう」と考えることの楽しさを
実体験させてあげることと、
「なぜなんだろう」と考えるにはどのように脳を使えばいいのか、
という「脳の使い方」を教えてあげればいいのだと思います。

それはすべてがクリエイティブなことだと言えます。

ここで、先ほどの万有引力でもいいし、相対性理論でもいいのですが、
それらは「発見した」という言い方をしますよね。

ここに大きな視座があります。
科学はすべて「発見」なのです。

科学は「仮説」をたて、それを証明していくという方法で
正しさが立証されていきます。
もちろん「偶然の発見」もありますが、
人間が脳で「これはなんだろう?」と考えなければ、
偶然の発見だって見逃されてしまうはずです。

仮説を立てるということは、
そもそもクリエイティブな出来事だということがわかるでしょうか。
光と同じ速度で進んだら?と考えることは
ものすごくクリエイティブなのです。

そして科学はすべてが「発見」ですから、
コロンブスがアメリカ大陸を発見したように、
それは実はもともとあったのだけれど、
ある時点ではまだ見つかっていなかったということです。

あるいは「これはこうだ」と思っていたものが
実はちがっていて「これはこうではなかった」と気づくことです。
ガリレオが地動説に気付く前から、地球は動いていました。
人間が人間サイズの生き物として日常生活を送る中で、
それを発想するだけの創造性が持てなかっただけです。

つまり人間はいつの時代もずっとこの世界を「誤解」している。
それは今も続いているわけですが、
誤解を解くために一生懸命考え、
「実はああではなく、こうであったようだ」を更新していくだけなのです。

万有引力も、相対性理論も、量子力学も、
我々が発見していなかっただけで、恐竜時代から存在していたのです。

そう考えると「音楽」や「絵画」といった芸術も、
すべては「発見」だとわかると思います。

ドを3拍のばしたあと、シを1拍鳴らしたら、どんなメロディになるのか。
それを聞くと人はどんな気持ちになるのか。
そこに和音を加えたらどんな印象になるのか。
そこに言葉をはめると、人はどう感じるのか。
その言葉がちがうと、どのように効果が変わるのか。

すべては発見です。存在していたけど知らなかったことの発見です。
それは発見したから存在するようになった、とも言えますが、
そのような条件が整えば、そうなる、ということは、決まっていたのです。

赤と青を混ぜたら紫になる、ということは決まっていますが、
混ぜてみるまではわからない。
混ぜてみたら、紫になった。これは発見です。
そう考えれば、どんなに「初めてみる」ように見える創造物も、
すでに存在していたものの「発見」だといえると思います。

ゼロからものを生み出す「創造」は、実は「発見」なんですね。
発見は脳で生まれることですから、
その脳をいかに動かすか、というイグニッションが重要であり、
それが「なぜなんだろう」と思うということなのです。

さて、人間が人間たる理由は「考える」ということでした。
ですが、実際のところ、いろいろ考えなくても人間は生きてはいけます。
事実、多くの人は、そんなことは考えずに生きています。


なぜなのかを考えていない人でも、
一部の人が考えた生み出した便利なものを使って、
便利な暮らしができます。
それを可能にするのが、「経済」の存在です。
人間は経済合理性に基づいて生きる部分があります。

これは「トクをしたい」と思うことであり、
「損をしたくない」ということでもあります。
このモノサシにしたがって人間は行動します。

しかし重要なのは、この経済合理性は多分に反射神経的なものであって、
決して「なぜなんだろう」という本質を考える思考行動ではないということです。

そこに貨幣が絡むことによって、多くの人間は考えることを放棄して、
地球の環境を後戻りできないほどに破壊してしまいました。
そのことを訴えても、
多くの人は「一度手に入れた便利は手放せない」と言って
地球を破壊しつづけます。

これは、一人ひとりが「なぜなんだろう」と考えることを
放棄したことによって起きています。

地球温暖化もそうだし、生物多様性の危機もそうだし、
経済格差の問題もそうなのですが、
これらの問題がなぜ起きているのか、
という物理的な原因はわかっています。
それはつまり、改善する方法もわかっているということです。

逆をすればいいだけですから。

しかし、それが遅々として進まない理由は、
我々一人ひとりが、それについて真剣に考えないことです。

もっと究極的に言ってしまえば、
我々が「考えないこと」が地球温暖化の原因なのです。
課題の本質を突き止めるということは、
その解決策を生み出す原石になります。
つまり、我々人類が持続可能性を実現し、
これからも可能な限り存続するために必要なのは、
一人ひとりが今よりも「考える」ことなのです。

そして「考える」とは何かと言えば、
それは「なぜなんだろう?」と思うことです。
そして「知りたい」と思うことです。

なぜなんだろう発想をするとき、最も重要であり、
かつ現代を生きるオトナにとって難しいことは、
今ある定数のように見える部分は、すべて可変であると考えることです。
すべての既成概念を忘れることです。

当たり前など存在しない、という事実を受け入れることです。

「それはなぜなんだろう」を繰り返してくと、
やがてそれは「本質」という根っこにぶち当たります。
それが重要です。なぜなら、いま、我々人類を取り巻く課題は、
その根治と対処の両方が必要だからです。

根治を目指さないと、同じ過ちは繰り返されます。
しかし今、目の前で起きている出来事に対処をしないと、
根治させることもできなくなります。

オトナたちが経済に夢中になって
長いこと「考える」ことを放棄したせいで、
我々は「短中長期」のすべてを、いちどに考え、
行動に移さなければならなくなっています。

しかしそのときもまた、経済が非常に邪魔をします。
経済は「短期視点」しか持たないからであり、その経済の短期視点が
今の人類の課題のすべてを生み出してきたからです。

グレタ・トゥーンベリさんが涙ながらに訴えていることは、それです。
しかし、その姿を冷笑するオトナたちがいます。
人類の持続可能性にとって、どちらが正しいか、
もうしばらくすれば科学が答えをだすでしょう。

「なぜなんだろう」と思うことを、
「知的創造性」とイコールだとしたときに、
現代のオトナたちはなぜか、子どもたちにそれを託そうとします。

もちろん、それは重要ですが、
短期視点で言うならば、まずはオトナたちが変わらなければなりません。

地球温暖化も生物多様性の危機も、
考えていくと根っこは宇宙と直結しています。
我々は地球という場所に住み着いた生命体なのではなく、
地球の物理現象として発生した宇宙の中に存在する物質の一部です。

個別の意識を持ってしまったがために、そう理解できないだけで、
それが科学的な事実です。
ですから我々は宇宙の法則から逃れることはできません。

人類がどんなに科学技術を発達させても、
我々は宇宙の外に出ることはできません。

その宇宙に存在するすべてのエネルギーの総量は決まっており、
変化することはありません。
それは宇宙の起源であるビッグバンの時点から変わらない。

すべては有限であり、我々の住む地球も、恵みの源泉である太陽も、
この広大な宇宙そのものでさえも、やがては終わりがきます。
形はどうあれ、人類はいつか必ず絶滅するのです。

人類とその他の生命体の最大のちがいは、
我々はいつか必ず自分が死ぬということを自覚しているということです。
同様に、我々人類は、いつか必ず絶滅します。
その事実をわかっている中で、
それでも命のバトンを次の世代に渡していくことが、
我々のなすべきことであり、唯一できることなはずです。

そのような使命を一人ひとりがほんの少しだけ考え、
今より少しでも理解していたら、
人類は今とはちがう状態になっているでしょう。
違う選択をし、行動するはずです。

逆に言えば、それだけが人類の持続可能性を高める唯一の道だと思います。

「それはなぜだろう?」と考える思考回路を持つ人間になりましょう。
自分の半径5メートルではなく、
様々なことに、その思考のアンテナを向けましょう。
何も考えない人間が、人類の未来に寄与する可能性はゼロだからです。

「それはなぜだろう?」を持たない人間は、
何を教えられたとしても、何も知ることはないのです。

それが今日、発見した法則です。

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