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ネガティブ思考な人が、地球温暖化を止められるとは、今のところ思えないという長い話

もし仮に数百年後、地球温暖化の進行を止められたとします。
人類は「俺たち、本当に良くやったよな!」と
ハイタッチして、ガッツポーズをして抱き合います。

頑張った人々は、肌の色に関係なく、本当にお互いを讃えあい、
満面の笑顔でいます。

その影に、ひっそりと、恨めしそうに、
その輪に入れずにいる人がいます。

それが、日本人です。

残念ながら、私にはそんなイメージしかできないんですよね。
今のところ。
現代の日本人が、世界をリードして
この困難を解決するメンバーの一員になっているでしょうかね。

そういうことは、自分ではないどこかの誰かがやること、と
ほとんどの日本人が思っているような気がしてなりません。

島国って、不利ですよね。

ここ一週間、本当に悩んでいることがあります。
それは私自身のことではなく、
私ではない人のことなのですが。

というか、ある特定の人のことでもなく、
ある性質の人たちは、どうすればいいのか、という悩みです。

それは「ネガティブな人」です。
単に根暗とか、マイナス思考の人ではなく、
ポジティブなものへの積極的な拒絶感を持った人です。

そういう人はネガティブな言動で、
その波長を周りに伝染させていきます。
昨今の「多様性」の誤った解釈によって、
周りの人も過剰に配慮するからです。

そうすることによって、
人は本来の性能をどんどん発揮できなくなっていきます。
ちょっと極論ですが、
この現象が「失われた30年」がつくりあげたものです。

自分はネガティブでいいんだ。ネガティブでいたいんだ。
私は何も努力をしない。むしろポジティブさを排除したい。
私は無気力、無関心でいるんだ。
こんな私にも人間の権利があるんだ。何もしない権利だ。

そういう人が実際にいて、
そういう人に今の社会は何も言いません。

でも、優しく抱擁してくれるわけでもなくて、
結局は切り捨ててしまうのです。

こういう全体像を見て、どうすべきなのかと悩むのです。

私は、「他者を変えることはできない」と思っています。
人は自分で変わるものだからです。
ただ、変わるためのインプットや助言はできるし、
気づきのきっかけを与えることはできます。

しかし、それらも、受け手に「変わりたい」とか
「このままではいけない」という気持ち
(最近私はこれを「レセプター/受容体」と呼んでます)
がなければほとんど心の中に入っていくことはありません。

今の社会は、昔より厳しいことを言わない社会になりました。
それは一見「優しい社会」のように錯覚されます。
しかし、実際には他者を育てることをやめた社会なのであって、
「いいよ、そのままでいいんだよ」という甘やかせの結果、
世の中で生きていく力を備えていない人間を量産している。

これは長い目でみた人権侵害であって、
この30年の日本のデフレだって無関係ではないと
私は思っているんですよね。

ポジティブな人が、
「この現状をなんとか打破しなければ!」と、
皆を鼓舞すればするほど、ネガティブになっていく。

そういう人を放っておくことも可能なのだけど、
でもその人がこの先、未来を明るく切り開く可能性は少なくて、
社会や世の中がそんな人を受け入れていく素地もなくて、
結局、みんなが去っていってしまう可能性も高く、
だから、少しだけ自分を変えて、
考え方、捉え方を変えて、物事のマイナスな部分ばかり見ずに、
発想を変えてみてはどうですか?と提案はするのですが、
レセプターのない人には、マイナスな効果しかないのです。

「あなたはそうできるけど、私はあなたとはちがうのです」

それがその人の言い分です。確かにそうです。
人はみな、ちがいます。それを受け入れるのが多様性ですもんね。
でも、人の思考は脳でできているので、その気になれば、
本気になれば脳(性格)だって少しずつ変えることはできるんです。
もちろん簡単じゃないですけどね。でも不可能ではない。

それもわかっているだけに、微妙な気持ちになるわけです。

いろいろな書籍を読んで、
ネガティブ思考に関しても調べました。

世の中には「がんばらなくていい」とか、
「そのままでいい」ということを言う人が結構います。

そう言って欲しい人が今の世の中にはたくさんいて、
そういう人の本は売れます。
でも、私はとてもずるいなぁと思うんですね。

そういう人がいう「がんばらなくていい」は、
がんばろうとしない方が結果的にはがんばれるよ、ということで、
結局はがんばることなのです。
ポジティブさ、建設的であることの推奨なのです。

でも、一見、とても優しそうなんですね。

人間の感覚はすべてが脳による解釈ですから、
いいことも、嫌なことも、快も不快も、
自分の脳が決めているだけです。

その仕組みを理解し、自分の脳をコントロールすれば、
嫌なことも嫌ではなくなります。
苦しいことも苦しくなくなります。

これはスピリチュアルではなく、脳科学です。

なので、あなたが「嫌だ嫌だ」と言っているのは、
あなたが好きでそうしているだけなんですよ、という事実を知って、
「なぁんだ、そうだったのか」と肩の力を抜けば、
解釈が変えられて、自然体で頑張れるよということです。

私が推奨するのも、同じことです。
しかし脳の中のネガティブウォールが尋常ではなく分厚い人もいて、
そういう人は自分を変えると言う提案を一切受け付けません。

つまり「がんばらなくていい」を本気で捉えたいのです。
「がんばろうとしなくていい」ではなく、
本当に一切がんばらなくていいのだと。

ネガティブであることが自分のアイデンティティと化してしまっていて、
そこから抜け出すことは自己否定につながるからです。
しかし、自分がネガティブであるせいで、いちばん苦しんでいるのは、
他でもない、その人自身なのです。

そういう人を救ってくれる人は、
今の社会にはいません。
お節介をしてくれませんからね。

だから、昔の方が、実は社会は優しかったのです。
昔は他人がお節介で根性を身につけさせてくれましたが、
今は自分の主体性で根性を身につけた人間以外は
残念ながら落伍してしまう社会なのです。
つまり、今ほど一人ひとりに自前の根性が必要な時代はないのです。

人権とか、多様性とか、叫んでいる人はいます。
私もそれは当然、重要だと思っています。
でも、社会のほとんどの部分はそれに対応していないし、
まだまだ対応しないでしょう。

私は普通の人より優しくて、お節介なので、
そういう人に自分を苦しめるのはやめたらどうですか?
と提案しているだけなんですけどね。

どうやら苦しむことが好きなようなのです。
それなら苦しいことを楽しめばいいのに、嫌だ嫌だと文句ばかり。
私はとても不思議なのです。

多様性って、いったいなんなのでしょうね。
私は生まれや育ち、民族や性別など、
本人の努力で変えることができないことによって
不都合が生まれてはいけないと思っています。

この考えには、「本人の努力によって」という部分があります。
つまり、どんなに属性としては優位にある人でも、
努力をしなければ尊敬すべき人ではないし、
属性として現状では不利な人でも、
努力をしている人は尊敬すべき人だと私は判断します。

つまり私の解釈は
「なんらかの形で頑張っている人は、
同じように評価されるべき」と思っているということです。

このとき重要なのは、「がんばり」というものを型式化しないことです。
「がんばり」の様子は人によってちがいますから、
必ずしも熱血になれとは言っていないといことです。

例えば障害などで手足が動かせない人にとっては、
日常のほんの小さなことを自分でやることが
大いなる人生の挑戦です。ものすごいがんばりです。

「がんばり」をひとつの物差しで測ることはできません。
これが多様性だと私は思っています。

そのとき「無気力・無関心」な人はどうすればいいのか。
つまり、多様性社会でも、
ダメなやつと言われる人はいるのかいないのか、ということです。

あらゆる人が、ありのままで認められる。

これはとても素晴らしいことです。
しかし「努力したくない人は、まったく努力しなくていい」わけで、
その人もそのまま認めるとは、どう認めることなのでしょうか。

「お前は努力しない人だよね。いいよ、努力しなくて。」

ここまではいいですよね。問題はこの後です。

「努力なんかしなくても、お前は素晴らしいんだから」なのか、
「努力しないなら、相応の人生が待っているだけだから」なのか。

こうなると、「素晴らしい」という概念はいったいなんなのか、
ということになってきます。
私は、自分で自分のことが心底納得できていれば、
それは素晴らしいと思えると思っています。

でも、なんか自分の中にもモヤモヤが残っているなら、
やっぱりそれは素晴らしくないと思うんですね。
もちろん、素晴らしいかどうかを決めるのは、本人です。

考えながら書いているので、話がとっちらかっていますね。
でも、皆さんにも一緒に考えていただきたいのです。

どうやら私は、山本太郎さんは好きですが、
人間は生きているだけで素晴らしいとは思っていないようなのです。

でも、私は自分を優生思想とか、差別主義だと思っていません。
軍国主義だって大嫌いですよ。そういうことではなくて、

どんな人でも、それぞれがんばっているよね、と思っているからです。
でも、がんばりが足らない人もいます。
そういう人は、実は自分で自分に納得していないんじゃないかなと。

せっかくこの世に生まれたのだから、諦めずに、
もっとイキイキと生きてしまえばいいんじゃないの?と。
そう思っているんです。

「私はもう十分イキイキと生きているよ!」という人もいるでしょう。
そういう人はいいのです。それで。
他人がとやかく言うことではないですからね。

でも、ネガティブになって文句ばっかり言っている人は、
私はやっぱりイキイキしていないように感じるし、
せっかくの人生を自分でつまらなくしていると思っているのです。

「がんばらなくていい」派の人も、
結局「勉強も仕事も、楽しんでやればいいんです」なんて書いている。
無責任だなぁ。

楽しんでやるというマインドセットになれる人は、
一時的にネガティブマインドを持ってもいいんですよ。

それは過程ですからね。最終的にポジティブに転じるなら、
ネガティブはむしろ必要なんです。

私が悩んでいるのは、
そうやって「転じる」ことを拒絶している人のことです。

なぜこんなに真剣に思い悩んでしまうかといえば、
私の最終目標が、いつも「地球温暖化を止めること」だからなんですね。

最近、気づいたのです。
失われた30年を打破するチカラと、
地球温暖化を止めるチカラは、
同じもののベクトルちがいなのだなぁと。

そしてそれは、紛れもなくポジティブさなのです。
ポジティブさとは、困難を楽しさと解釈してしまう脳のスキルであり、
ある種の楽観主義でもあります。

無責任な楽観ではなく、責任を全うする方の楽観主義ですね。
私が子どもの頃から大好きな歌、
SHOGUNの「男達のメロディ」の一節のようなマインドです。

Pick up your head or lay your blues
どうせ一度の人生さ
The more you give, babe the less you lose
運が悪けりゃ死ぬだけさ 死ぬだけさ

この「前を向こうぜ、クヨクヨせずにやることをやろうぜ」
という気持ち。
与えれば与えるほど、失うものは少なくなっていく。
ポジティブであることで、本当の楽観に達すると私は思っています。

どうせいつかは死んじまうんだから、
上を向いて笑顔でいようぜ、という。

これは諦めじゃないんですよ。全然ちがう。
どうせ死んじまうということを、前向きになる力にしているんです。

私が常々「宇宙からの視点を持つべきだ」と思うのも、
同じ発想です。
こんな惑星の上で争い合うことの無意味さを感じた時に、
ポジティブなぬくもりが湧いてくる感じです。

宇宙の中の孤独を、
人類全体がひとつであることと感じるような発想の転換です。

伝わるでしょうかね。

地球温暖化は人間が引き起こしました。
人間が引き起こしたということは、
人間の脳が引き起こしたということです。

人間の脳は目先のことや怠惰な方向に行きやすい性質があって、
そこが変わらなければこの課題は本質的に解決しないと
私は思っているのです。

地球温暖化を止めるためにやるべきことは、
一人ひとりの人間が持っている自分の脳を、
しっかりコントロールすること以外にないと思っているわけです。

そのために必要なことは、物事に関心を持つ力と、
深く物事を思考する探究力です。
そのふたつの力によって脳に起こる状態が「ポジティブ」なんですね。

この世は変えていける。
それはそれぞれの小さな一歩から始まるという現実を受け入れ、
実行していくマインドです。

そう考えていくと、日本が失われた30年によって作り出した
ひたすら安定だけを求め、
自分には何もできないというネガティブマインドは、
人類の未来や地球を救うには本当にマイナスな存在なんですよね。

頑張ろうとする人を引き摺り下ろそうとする力学さえ発生させます。
そんな負のパワーが蔓延するこの日本は、
これからいったいどうなっていくのでしょうね。

人のせいにすることをやめて、
自分の足で立ってみる。

そうするだけで景色は変わり、
自分が大きな勘違いをしていたことに気づくことができる。

初めて、自分の脳を「使う」という感覚です。
自分の主観と客観をわけ、コントロールする感覚です。
トレーニングで筋肉を鍛えるように、
脳も思考でトレーニングされます。
そうして今よりレベルアップした脳に変化します。

地球の危機を救うには、
一人ひとりの脳がレベルアップする必要がありますが、
昨今の社会状況の中で、人々はどんどん考えることを放棄しています。

その放置が、いずれ、自分に返ってきますが、
そのときには、そのことを感知する能力さえ、
もう持っていないのかも知れません・・・・・・。

おっと!私がネガティブになっていた!
まぁ、なんとかなるっしょ!

私自身はいつでもポジティブなんで、悪しからず。

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