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甲子園ボウルを終わって

昨日、甲子園ボウルが終わり、
2023年の学生フットボールのシーズンが終わりました。

試合は61-21で関西学院が法政大学をくだし、
史上初の6連覇を達成しました。

法政大学は「自由と進歩」というチームの理念を
学生アメフト界のスタンダードにする、
という言葉を掲げて挑んだ甲子園でした。

その2日前、
日本大学はアメリカンフットボール部の廃部を決定。
学生フットボールの歴史を築き上げてきた
赤と青の2チームが、まったくちがう運命を辿りました。

様々なことが頭に渦巻くここ数日でした。
関学はリーグ最終戦で(そして春の定期戦でも)
関西大学に敗れ(大村監督にとってはリーグ戦での初敗戦)、
立命館との3校が優勝。
甲子園ボウルはくじ引きによる抽選に。
そこでキャプテンの海崎が「1位相当」を引き当てて
甲子園ボウルへの切符を手にしました。

その15分ほどの時間、
ファイターズの学生たちは「負けるとはどういうことか」を
身をもって感じたことでしょう。

運で掴んだ甲子園なだけに、関大、立命館のぶんまで
恥ずかしくない試合をしなければならないという
責任を負った関学は、甲子園で61得点で法政を圧倒しました。

トータルで考えれば、学生たちにとって
非常に成長につながる11月だったことでしょう。

4年生のQB、鎌田は学生時代最後のパスをインターセプトされ、
リターンで独走するディフェンダーをタックルでストップ。
4年生の面目は保ったと、私は感じました。

法政大学は、現段階では関西では上位3校とは
かなりレベルがちがうということは正直、感じました。

いちばんの差は、「タックル力」です。

タックルは気持ちがないとできないものです。
だからこれは「気持ち」の差です。
これは法政大学というより、
近年の関東のフットボール文化に欠如した
「ひたむきさ」の問題であり、
ここを克服しない限り、関東に勝利はないと私は思います。

気になったのは法政大学のある言葉でした。
「自由と進歩」という理念は素晴らしいですが、
それを「スタンダードにする」という考え方です。

時代は多様性ですから、なにかひとつの考え方を
「スタンダードにしよう」という発想は
私は時代に逆行していると感じています。
理念というものは自分が信じて、追求すればいいのであって、
他のチームにまで押し付けるべきものではない。

他者とは無関係に、
自らに磨きをかけるという姿勢であるべきと思いますが、
どうでしょうか。

たとえどんなに素晴らしい理念も、
人に押し付けると、ハレーションが起こります。
それが「人間」というものです。
「自由と進歩」を法政チームが自ら体現し、
学生たちが自らの生涯の支えにするのが
いいのではないでしょうか。

日本大学はフェニックスの「廃部」を決めました。
その「廃部」がいったい何を意味するのか、
まだ詳細がわかっていませんが、
報道によると「立て直し」を前提に廃部すると。

改めて、今回の薬物事件について、
「なぜ起きたのか」ということを考えていくと、
私は2016年のシーズンに行き着くように感じています。

その年、内田監督が身をひき、高橋監督が就任。
「自主性」を合言葉に新しいチームを作っていきました。
ところが、そこで選手と監督・コーチの関係が壊れたようです。

「自主性」は素晴らしい言葉です。
多くの日本人の大人が、子どもが自主性をもって
イキイキと生きることを夢見ています。

しかし、「自主性」を掲げる限り、
「自主性」とはなんなのかを
監督もコーチも、よく理解していなければいけません。

自主性は「主体性」を身につけた人間にとっては
非常に有効なものですが、
主体性を学んでいない人間に「自主性」という言葉を与えると、
それは「逃げ」になっていきます。

主体性というのは、簡単に言えば、
監督やコーチがグランドにいなかったとしても、
自分達だけで質の高い練習をできることです。
負荷の高い練習をできることです。

自分で自分を律することができる力。
困難を自分ごと化して乗り越えていく力。
それが「主体性」です。
「主体性」は物事に関心を持つ力と、
それを探求していく力でできています。

そして最終的に自分に対して課した「約束」を
毎日、しっかり果たす力。
これが「主体性」なのです。

そういう精神ができあがっている状態なら、
その「主体性」を用いて自主性を掲げるのはありです。

しかし、グランドに大人の姿が見えなくなると
とたんにサボってラクをしてしまうような子どもたちには、
「自主性」はちょっと早い。
繰り返しますが、
自主性の前に「主体性」を身につけるのが先です。

自主性と主体性のちがいを理解できなければ、
自主性を振りかざす学生は危険だし、
自主性を掲げる指導者は条件不足です。

もしかすると2016年のフェニックスの学生たちは、
まだ主体性を身につけていなかったのだと私は想像します。
手遅れになる前にそれをなんとかしようとしたのが
2017年のシーズンであり、フェニックスは日本一になりました。

しかし翌2018年に、例のタックル事件が起きてしまいました。
タックル事件そのものというよりも、
その後の様々な対応が、
フェニックスの中での学生と大人の信頼関係を
完全に崩壊させてしまったのではないかと感じています。

大麻所持の件で逮捕された学生が、
獄中からオンラインLIVEをやって
友達と談笑しているという情報が報道されました。

事実かどうかはわかりません。
しかし、学生たちの精神の居場所が
相当に荒んでいるということは想像できます。

なぜ彼らは、そこまでになったのでしょうか。

日大アメフト部の再建は、廃部云々の前に、
前提として大人と学生の関係性を再構築する必要があります。
薬物使用の原因究明や再発防止などは当然のことであって、
むしろ、なぜ学生が薬物を使うに至ったのかが重要です。

再発防止法といって、たんに監視体制の強化や、
懲罰規定を厳正化するということでは
おそらく本質的な問題は解決しないでしょう。

なぜ無垢な赤ん坊として生まれた個体が
大麻を吸うような子になってしまうのか、という部分に
真正面から向き合う必要があるのです。

その辺りをしっかりと整理した上で、
本当にチームを立て直すのだという
「志」を持った人間だけが集い、
新しいテーマに向けて本気で取り組む必要があるでしょう。

コーチと学生の関係性にもたったひとつの正解はないのでしょうが、
少なくとも互いの間に「猜疑心」があっては
いいチームができあがるはずがありません。
学生は学費を払ってはいるものの、
決して「お客様」ではないですし、誠実な学ぶ姿勢が必要です。

コーチたちは単にフットボールを教えるのではなく、
良き人間としてどう生きるのかという
人間教育をしなければいけません。

アメリカではそういうコーチは少ないそうですが、
日本とアメリカはちがいます。
社会が個人の自立性を教えてくれる環境がない日本では、
やはり子どもたちを導いてくれる存在が必要です。

でなければ、子どもたちに生きていく知恵を与えずに、
世の中の荒波に放り出すことになります。

それは「言いなり」の人間をつくるということとは別です。
恩師というのはつねに、
「答え」ではなく「問い」を立ててくれる存在だからです。
そういうことを学べることこそが
学生スポーツの最大の意義だと思います。

タックル事件以降のここ数年のフェニックスに、
ちゃんとその機能があったのか。
詳細は私にはわかりません。
しかし、何かが欠如していることは、
試合の日のサイドラインでの雰囲気からも感じていました。
コーチの学生への声がけも、どこか腫れ物に触るような
恐る恐るという雰囲気を私は感じていました。

その関係になったら、もう終わりだと思うんですね。
そういう部分から、ちゃんと作り直す必要があるでしょう。

2023年、私はフットボールシーズンの到来を
心から楽しみにしていました。
甲子園では赤と青が見られると心から期待していました。

結果は、当初の予想とは遥かにかけ離れたものになってしまいました。
日大アメフト部廃部の報を受けて、
すぐに署名活動を実行したものの、
これからどうなっていくのか、先はまったく見えません。

「悪いことを何もしていない」学生も必ず存在するはずです。
そういうメンバーたちにも、罪を犯したものと
まったく同じ責任を負わせるのは酷ではないかと思います。
しかし、だからといってチームが
無罪放免ということもまたありえないでしょう。

どこが落とし所なのか、誰にもわかりませんが、
これから社会へと巣立っていく若者たちにとって、
人間として少しでも大きく成長できる機会を、
大人たちは創出すべきでしょう。

甲子園ボウルへの道は、来年は大きく変わります。
関東のレベルが上がるために、
フットボール界全体が、互いに協力しあい、
柔軟な姿勢で取り組んでいく必要があるでしょう。

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