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目的はポジティブに、手段はフレキシブルに。

今でこそ野球も好きな私ですが、
子どもの頃はまったく興味がなかったです。

そんな私の目を初めて野球に向けさせたのは、野茂英雄投手でした。
彼の型破りな投法はもちろん魅力でしたが、
「通用するはずがない」と言われながら
地位もお金も投げ打って単身渡米し、
ストなどで問題のあったその年のメジャーリーグそのものを救った
救世主となったその生き様に惹かれたのです。

野茂が登板する試合は日本でも中継され、
私はその様子を食い入るように観ました。
そこであることを発見したのです。

野茂といえば、トルネード投法。
あの大きな振りかぶりを「ワインドアップ」と言いますが、
よく見ると、ワインドアップしないときもある。

なんでだろう・・・どうやって使い分けているのだろう・・・

そんな疑問を持ちながら、試合を見続けていました。
そして気づきました。

「あ、ランナーがいるときはワインドアップできないのか」

野球をご存知の方なら当たり前のことでしょうが、
私はそれまで知らなかったのです。
野茂に注目し、その野茂が
あそこまで特徴的なワインドアップ動作をする投手だったからこそ、
私はそれの気づくことができたわけですね。

「なるほど、時と場合によって、投げ方が変わるわけか。」

よく考えると、当たり前のことですよね。

さて、なぜ野茂の話をしたかといえば、
なにをなすべきかは、時と場合によって変わる、という
誰もが理解している当たり前の話をしたいからです。

野球の場合、塁に走者がいる状態で、
ピッチャーがワインドアップしていたら、
その隙にどんどん盗塁されてしまいます。

だからワインドアップしない。当たり前です。
でも走者がいないのであれば、
ピッチャーは目の前の打者との勝負だけに集中して、
自分の間合いで投げる。

そういうことです。

けれど、野球の場合だと理解できることが、
野球以外の場合では理解できない人がとても多いです。
何をするにしても「方法」というものに絶対のものはなく、
状況に合わせて変えていかなければなりません。

けれどもなぜか人は、
「これさえやっておけば大丈夫!」という
唯一絶対の方法があるのだと思い込むし、
そういう方法であるべきだと決めつけています。

そんなことは、あり得ないというのに。

例えば円高と円安は、どちらがいいのでしょうか?
その問いに、絶対の答えはありません。
円高と円安は相対的なものであるし、
どちらにも利点と欠点があって、
行き過ぎれば悪いことが目立つようになります。

ですから、円高のときは円高対策を、
円安のときは円安対策をすべきであって、
対策の方法は正反対のものに切り替わらなければならない。

それが当たり前ですね。

例えば消費税というものがあります。
消費税はあった方がいいのでしょうか。
それともない方がいいのでしょうか。

この問いにも、絶対の答えはありません。

日本型の消費税は消費にブレーキをかける役割を果たします。
では消費のブレーキって、良いこと? 悪いこと?
それにも絶対の答えはありません。

消費が冷え込んでいれば悪いことだし、暴走する状況ならいいことです。
それだけの話ですね。
今の日本では消費税は「悪いこと」です。
でも、この後もずっと悪いことなのか?といえば、
それはそうとは限らないです。

厳密にいえば、良いことか、悪いことかは、誰にもわかりません。
仮説は立てられるでしょう。
あるいはロードマップは作れると思います。

しかし、良い悪いを今の段階で決めつけることは、
誰にもできないはずなんですね。

ただひとつ言えることは、消費税をなくすにしても、
上げるにしても、それはときと場合による、ということです。
だから、どんなときに消費税を下げるべきで、
どんなときには上げるべきか、という共通の認識を持つことが大事です。

今の日本の消費税議論は、「今は」という論点を持たず、
「これからもずっとそのままの仕組みである」という前提になっています。

それがまちがっているんですね。
重要なのは、時と場合によってフレキシブルに変更できるという
システムを構築することです。
今の法体系ではそれが難しい、というなら、法体系を変えるべき、
ということになりますね。

何が問題なのか、ということをまちがえてはいけないのです。
そして「こうだから仕方がない」と考えることもちがいます。
変えられるところと、変えられないところをちゃんと見極めるべきだし、
変えられないと思い込んでいることがあれば、
その思い込みを変えるところから取り組まなければいけないのです。

物事を断言する人、というのがいますが、
そういう人は、実はあまり深く考えていない場合が多いと
私は感じるようになってきました。

なぜなら、人は、考えれば考えるほど、
自分の考えが正しくなかった場合のことまで考えられるようになり、
自分の仮説や、考えはしっかりと持ちつつも、
それが必ずしも正しくないという事実を知るはずだからです。

科学の世界を見ても、
あの相対性理論のアインシュタインは、
量子論についてはずっと懐疑的でした。

アイシュタインが懐疑の目で見るからこそ、量子論は進化しました。

宇宙論も同じですね。最近、注目されている「超ひも理論」は、
ホーキング博士による懐疑的な提言から進化したものです。

そして最終的にホーキング博士は、
自分の指摘はまちがいであったと認めました。
この態度こそが人間を未来へと押し進める力になると私は思っています。

自分の意見をしっかりと持つこと。
だけれども、自分とはちがう意見があることを認めること。

その上で、しっかりと対話することで、
双方がより進化していく道筋を見つけること。

ちがうと思ったなら、すぐに認め、再検証すること。
そういう態度は、「なすべきことは時と場合によって変化する」という
フレキシブルな姿勢を理解していなければできないのです。

途中で考えを変える人のことを批判する人もいます。
裏切り者という人もいます。

しかし、「考えを変えないこと」は目的ではありません。
考えさえもが手段にすぎないわけですから、
ある考えを持っているということを目的化してはいけないのです。

政治的なイデオロギーだって、
私は保守だからこう言わなくちゃいけないとか、
私はリベラルだからこう考えなくちゃいけない、なんてないのです。

世の中が右に走り過ぎれば左に、左に暴走すれば右に、
バランスを取らなければいけないのです。
だからといって、みんなが中道でなければならない、
ということともちがう。
それでは多様性がなくなりますから、発想力が脆弱になってしまいます。

世の中が一色になることを避ける。
そのためにそれぞれの意見が必要であり、それは対立するのではなく、
バランスさせるという役割を担っているんですね。

この転換が必要だと思います。

近現代の経済学の大きな流れでは、市場原理主義と市場統制主義が
かわりばんこに本流になってきました。

行き過ぎた市場原理が1920年代の世界大恐慌を生み、
その火消しとしてケインズ主義が台頭し、
1970年代のオイルショックによるスタグフレーションで
今度は新自由主義が台頭。
その末路としての行き過ぎた格差社会によって、
再びケインズ主義が出ようとしたときにコロナショックが起き、
世界は再びスタグフレーションに陥っています。

これから、世の中はどうなるのかわかりませんが、
とにかく「これが絶対の方法だ!」という議論はやめるべきです。
「今はこれが最適なのでは?」という態度が重要です。

そして自分の正しさの証明ではなく、
世界がポジティブな方向に動くかどうかだけで成否の判断をすべきです。

コロナが始まったとき、アメリカの政治学者で、
世界的なシンクタンクのイアン・ブレマー氏が、
「私たちはどうすればいいのでしょうか?」という問いに対して、
「犬を飼いなさい」と答えました。

私はこの答えにはなかなかの含蓄があると思って聴きました。

なぜ「犬を飼う」のでしょうか。

ひとつには、ソーシャル・ディスタンシングのよって
人々は社会における自分の存在を肯定するという機会を失います。
そんなとき、犬は人間社会のいかなる事情や理由を超えて、
飼い主の存在を全肯定してくれる存在だからです。

もうひとつは、犬は常にポジティブだからです。
人間はネガティブな思考が大好きです。
嫌だ嫌だ、抜け出したい、と言いながら、
自らマイナスな思考から抜け出さず、
そこに留まろうとする性質があります。

けれども、犬はポジティブです。
大好きな飼い主にむかって走り寄り、
広い公園に放されれば全力で走り回る。
自分のポジティブな感情にまっすぐです。

いま、人間に必要なのは、そのポジティブさだと思います。
選択肢の中のどれかひとつに拘泥するのではなく、
様々な選択肢の中からもっともポジティブになる可能性があるものを選ぶ。
ちがっていたと思えば、フレキシブルに選びなおす。

そんな感覚が必要とされています。

目的はポジティブに、手段はフレキシブルに。
幸せになりたければ、
そんなことをいつも忘れないことだと思います。

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