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中世ヨーロッパ 新しい覇権国家の誕生


今回は、ゲルマン国家の中でも大国となりしばらく繁栄したフランク王国を

中心に紹介していきます。

なかなかドラマチックなイベントもありますし、これまでもよくある欲に溺

れた末裔達の争いによって国が分裂することになったりとフランク王国の

内容は面白いと思います。

また改めて宗教の重要性を認識させられたので、そのうちキリスト教メイン

でまとめてみるのもありだと思いました。


フランク王国(481年~870年に完全分裂)

大移動した民族の中でも一際力を持ったのがフランク人が建国したフランク

王国でした。名前からも予想できる通り、現在のフランスに位置する西ヨー

ロッパ随一の穀倉地域に国を建てたことが大きいです。その豊かさを武器に

ヨーロッパ諸国で最も安定した国となりました。

ちなみに分裂することでフランス・ドイツ・イタリアの起源となる国ですが

それについては後ほど紹介します。


メロヴィング朝(481年~751年)
フランク王国最初の王朝でクローヴィスがフランク諸部族を統一して

創始しました。

クローヴィスのナイスな改宗で一気に強強に


当時、ゲルマン人の多くは異端であるアリウス派でしたが、フランク人は古

くからの多神教信仰のままでした。

しかし、王であるクローヴィスが496年にアタナシウス派の洗礼を受け、

正統派であるアタナシウス派への改宗によって今までローマ帝国の貴族や

市民だった人々も支配を受け入れるようになり、フランク王国が西ヨーロッ

パの中心勢力となる基盤を固めていきました。

王が信仰する対象ってクッッッソデカい基準なんです。

そしてこれにより、フランク王国とローマ教会に結びつきが生まれ、

ローマ教会は西ヨーロッパに確固とした足場を持つローマ=カトリック教会

へと進化していくことが可能になりました。



影響力ある王が死ぬとカオスに陥るよくある流れ


511年にクローヴィスが死去すると、早くも分裂し争いが始まります。

というのもメロヴィング家の相続方法は、子供に人数分の領地を分け与える

という分割相続の方式を採っていたため、王の領地は次第に小さく衰えてい

き力が分散してしまい、天下取れるんじゃね?って考える奴らがバチバチに

やり合い始めるという事態に陥りました。



「鉄槌」カール=マルテルの登場


そんな内乱の中、力のない王家の代わりに宮宰(フランス語ではマヨル=ドム

)という最高の行政職が権力を握ることになります。

元は王家の執事のようなものでしたが、徐々に国家の摂政のような役割を担

っていき、王家の衰退と内乱を機に強大な権力となりました。

その中でも最も有名なカール=マルテルは、メロヴィング朝の実権を握り、

732年にはイベリア半島からフランク王国に侵入したイスラーム勢力

(ウマイヤ朝)をトゥール・ポワティエ間の戦いでブチ倒します。鉄槌でボコ

ボコにしたからついたあだ名ではないらしいですがとりあえず強かったらし

いです。


ピピンとかいう可愛い名前して国乗っ取った奴~カロリング朝創始~


カール=マルテルの子ピピンの時代には、ローマ教皇にメロヴィング朝から

権力を奪い、カロリング朝を開きます。王位を奪ったという汚名だけが残る

ことを防ぐためにピピンは宗教勢力を活用します。

「本当に強ぇ奴が国のトップに立つべきだよなぁ!?」とローマに対して東

卍のキャラみたいな質問を投げかけ、ローマ教皇ザカリアスが

「俺もマジにそう思うぜ」といった返答をすると、751年にメロヴィング朝

の王を追い出して、ピピン自らが王位につきました。

これによってカロリング朝が始まることになります。

キリスト教の長であるローマ教皇に土地を寄進をすることによって後ろ盾に

なってもらい、キリスト教世界公認のフランク王国継承を果たしました。


ピピンの寄進


ローマ教皇公認の下、フランク王国の王となったピピンは、幅を利かせてい

たランゴバルド王国をわからせるためにイタリア入りし、ランゴバルド王国

への攻撃を始めます。そして2度にわたる攻撃により、ランゴバルド王をわからせてラヴェンナ地方を手に入れました。
そのラヴェンナ地方と周辺地域をローマ教皇にプレゼントしたのが

ピピンの寄進と言われています。

この寄進により、ローマ教皇領が成立し、教会国家としての権力を高めるこ

ととなります。


カール大帝(在位768~814年)


フランク王国全盛期を迎えた時期の王でピピンの子であるカール大帝です

が、名前がややこしいですね。

有名なのがシャルルマーニュという名でこちらも一般的に使われている名前

ですのでゲームとかで馴染みある人はシャルルマーニュで覚えた方がややこ

しくないかもです。


十二勇士とかいるくらい強かった


彼は「大帝」という名の通り、フランク王国を強大化させて東のヴァール人

や西のイスラーム勢力、南のランゴバルド王国、北のザクセン人との戦いで

連戦連勝し、現在のドイツ、フランス、北イタリアにあたる広大な領土を欲

しいままにします。ちなみに親父のピピンがわからせたランゴバルド王国は

774年に息子のカール大帝によって完全に滅ぼされました。

この広大な領土をいくつもの州に分割し、(伯爵という言葉のルーツ)を

任命して統治させました。


クリスマスを祝いに来てもらった流れで冠をサプライズプレゼント


800年、教皇レオ3世の要請でカール大帝は軍率いてローマのサン=ピエトロ

大聖堂にクリスマスを祝いに来ていました。

祭壇に跪いているカール大帝に対して突然レオ3世が皇帝の冠を彼の頭に乗

せました。めちゃくちゃ粋な演出により観衆は一斉にカールの戴冠を祝いま

した。(これアニメしてもらってよろしいか?)

そしてこの戴冠により、フランク王国を新しい西ローマ帝国と見立ててその

復活を宣言し、キリスト教勢力の拡大を図りました。


3分割されたフランク王国


カールが獲得した広大な領地は、カールの子の代までは維持できていました

が、孫の代になると、孫同士で領地の奪い合いが始まります。

孫たちは分割相続を主張し、843年のヴェルダン条約によって、中部フラン

ク(イタリアおよびロレーヌ)、東フランク(後のドイツ)、西フランク(後のフ

ランス)に3分割されることとなります。

さらに、870年のメルセン条約によって中部フランクの領土を東フランクと

西フランクで分割し、残った部分をイタリア王国とすることになります。

これで前述した現在のドイツ、フランス、イタリアの原型となります。



血が途絶え、選挙で決めていく


ザクセン朝(919~962年)
東フランク王国(ドイツの起源)では、分裂後から100年も経たずしてカール大

帝の血を引くカロリング家が断絶することとなり、諸侯の選挙で王が選ばれ

るようになります。ハインリヒ1世によって創始されたザクセン朝では、マク

デブルクなどの都市建設をいっぱいしたことで「都市建設王」というあんま

かっこよくない異名をつけられたりします。

また、ハインリヒ1世はザクセン人でしたので彼の即位によって東フランク王

国は終わりとなります。

ハインリヒ1世の子であるオットー1世は、955年にレヒフェルトの戦いでア

ジア系のマジャール人を破ったりスラヴ人と戦い勝利することでキリスト教

世界の守護者として名声を高めていきました。

するとローマ教皇が再び仲良くしようと接近してきました。カール大帝と同

じようにオットー1世にも西ローマ皇帝の位と冠が与えられ(オットーの戴

)、キリスト教会と東フランク王国は関係を深めました。そしてこれによ

り、オットー1世が初代神聖ローマ帝国の皇帝となりますが、神聖ローマ帝国

という国号になるのは12世紀からとなります。


教皇の中で最もクソ野郎と言われている男


オットー1世に冠を授けた教皇のヨハネス12世は、マジにやばい人間性だった

そうで、「無頼漢」とさえ言われています。

教皇って威厳のある人物が多い印象ですが、彼は18歳で教皇になってからも

女遊びばかりしていたそうです。そして皇帝を裏切るような陰謀をめぐらせ

ていることがオットー1世にバレて廃位され、27歳という若さで脳卒中か女

に殺害されたかでこの世を去りました。

ちなみに彼以外のこの時代の教皇も絞殺、撲殺されたなどで教皇という権威

が地に堕ちていた時代だったそうです。


ローマ持ってないのに神聖ローマ帝国なんて名乗るから…


後に、東フランク王国は神聖ローマ帝国と呼ばれることとなると言いました

が、ドイツにある国がローマを名乗っている以上、ローマを領土にしていな

いとおかしいと過剰に気にしたことからその後長い間ローマを狙って攻め込

んでは返り討ちに遭うという行動を繰り返します。


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