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東西教会の争い〜キリスト教〜


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今までも触れてきましたが、キリスト教はその解釈の違いによってさまざまな宗派が生まれ、それによって国が繁栄したり滅亡に至ったりと多大な影響を与えています。

ローマ帝国時代の末期では、弾圧から保護に方針を変え、帝国内では五本山と言われた5ヶ所の教会がキリスト教の中心として成長します。

中でもコンスタンティノープル教会ローマ教会は主導権をめぐって競い合う関係となっていました。
(ちなみに五本山のうち、アレクサンドリアとアンティオキア、イェルサレムは7世紀以降にイスラームの支配下に入ったことで衰えます)


時が経ち、ローマ帝国自体が東西に分裂したことでローマ教会は西ローマ帝国コンスタンティノープル教会は東ローマ帝国の保護下につくことになります。

保護下につく意味としては、教会自体が精神世界の権威者であるため、布教には現実世界の権威者にスポンサーとなってもらわなければ大きくなっていけないというわけからです。


しかし、ローマ教会を保護していた西ローマ帝国はゲルマン人の大移動の影響もあって滅亡してしまったので、ローマ教会は大ピンチとなります。 


生き延びるための禁じ手


後ろ盾を無くし、信者の恒久的な獲得に焦ったローマ教会は、キリスト教において禁じ手とされていた聖像を使った布教を開始しました。
ちなみに禁じ手とされていた理由としては、聖像の見た目が信仰心を左右しかねないからだそうです。


聖像をぶち壊せ!


ライバルが禁じ手を使って信者を集めていることを知ったコンスタンティノープル教会は、逆にチャンスと考え、一斉にローマ教会への批判をはじめます。そしてビザンツ皇帝のレオン3世が726年に聖像禁止令を出して聖像布教に待ったをかけると各地で聖像破壊運動(イコノクラスム)が起こりました。

この聖像禁止令を出したことの狙いは、教会や修道院の所有地を没収することで、その背景としてビザンツ帝国はこの時期にイスラーム軍の侵攻を度々受けていたことから財政が苦しく、兵士がたくさん欲しかったのです。

そして聖像禁止令に従わなければ土地、領民を取っちゃうよ!と条件を出して免税特権を持つ教会・修道院を抑えることに繋がるというわけです。

両者の対立は頂点に達し、分裂が決定的となりました。
いつしかローマ教会はカトリック(普遍=みんなのキリスト教)
コンスタンティノープル協会はギリシア正教(正しいキリスト教)と名乗るようになり、完全に別々の宗派として存在していくようになります。


すぐ仲良くなれたわけではなかった教皇とフランク王国


カールの戴冠という僕史上かなりドラマチックな史実については以前紹介しましたが、そんなローマ教皇とフランク王国はすぐに仲良しになれたわけではありませんでした。

というのも最初はスポンサー求む!なローマ教皇がランゴバルド王国に圧力をかけられたことからフランク王国に助けを求めたのですが、当時、フランク王国はイスラームをぶっ潰すためにランゴバルド王国から支援を受けており、教皇と良さげな関係を持つことは体裁的にまずいということで救援要請を断っていたのです。

しかし、ピピンの時代にようやく実り、ドラマチックな戴冠に至ります。


聖像ぶっ壊しキャンペーンの行方


レオン3世の次のコンスタンティノス5世(うんこ漏らしたので糞というあだ名を持つ人です)は超厳しい聖像禁止を実施したことで、違反者は弾圧されまくりました。


しかし、イコンという絵を崇敬するという人々がたくさんいて、その人たちを根絶やしにするまではできず、徐々に収束に向かいました。


そして787年にニケーアで開かれた第7回の公会議によって逆に聖像破壊運動が異端とされることでイコンの崇敬が公式に認められることになります。

しかし、813年には聖像ぶっ壊しキャンペーンが再燃し、公会議での決議も無効となってしまい、反対した人たちは袋に入れられて水に沈められるといった中々エグい迫害をされました。

認められたり認められなかったりと極端な動きが起こっていましたが、イコンの復活を求める声も多く、完全に取り締まることができませんでした。

そして、843年にようやくイコン崇敬が復活することになり、ギリシア正教では現在までイコンの制作・崇敬が使われています。


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