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教皇「僕が一番偉いの!」



カトリックの成長


前回の記事で解説した通り、カトリック教会はビザンツ帝国の保護下にあるギリシア正教と違って西ローマ帝国が滅んでしまったせいでスポンサーを無くし、焦りまくっていました。

そんな状況の中、フランク王国のクローヴィスがカトリックに改宗するというビッグチャンスが到来します。
カトリック教会はフランク王国に接近し、仲良くし始めます。
(ピピンに教皇領もらったり冠授けたりなど詳細はフランク王国の記事で説明してます)

狙いはもちろん、新しいスポンサーとして保護を受けたいがためですが、最終的にフランク王国も分裂という末路を辿ることになるので新しい後ろ盾をまた失ってしまうことになります。

しかし、他の国に強い国がこれといっていなかったこともあり、カトリック教会が西ヨーロッパにおける最高権威者になりました。保護受けるために奔走していたら気づけば一番偉くなってたなんて嬉しいですね。


いつの時代も人間ってやつは…


最高権威者となったカトリック教会ですが、次第に金と権力に溺れるようになります。司教や大司教といった高位に就けば、そこらへんのザコ王様より断然良い暮らしができたため、賄賂を使って聖職者になろうとする奴らが蛆のように沸き始め、それにより教会自体も腐敗が進んでいきます。


皇帝VS教皇


腐敗と堕落をなんとかしようと教皇のグレゴリウス7世は聖職売買を禁止としました。聖職者が妻を持つことも禁止し、任命できるのは教会のみという取り決めもしましたが、当時の神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世にとってはかなり嬉しくない決定だったので焦りまくりました。

というのも当時は国内が不安定だったので、皇帝が聖職者を任命して恩を売り、代わりに国内の安定を得るといった構図でなんとか成り立っていたので、その権限を取り上げられてしまっては国が大変なことになる〜!といったところです。

こうして皇帝と教皇による叙任権闘争という争いに発展していきます。


カノッサの屈辱〜謝罪には定評あり〜


聖職叙任権を巡る両者の対立はヒートアップし、ハインリヒ4世は皇帝が聖職者を任命する体制を維持しようと反対し、グレゴリウス7世の教皇の廃位を迫りました。それに対してブチギレたグレゴリウス7世は、教会会議を開催してハインリヒ4世を破門としたことで皇帝はまたもや窮地に立たされることになります。

なんとかせんとということで、1077年にハインリヒ4世はめちゃくちゃ寒いアルプスを越えてグレゴリウス7世のいるカノッサ城へ謝罪プラス破門解除を懇願しに行きました。

3日間もの間、雪の中にも関わらず修道衣のみの裸足で門の前に立ちつくすという誠意を見せたことでようやく面会に応じてもらい、皇帝の聖職叙任権の否定を認めさせた上で破門を解くという帰結となりました。


復讐とはッ!自分の運命への決着をつけるためにあるッ!!


ということで破門を解いてもらったハインリヒ4世は、なんとかしてあいつ(グレゴリウス7世)をぶっ潰してぇという気持ちから虎視眈々と反撃のチャンスを窺います。

ドイツ諸侯はハインリヒ4世の破門が許されたことに対して不満を持っており、義弟のシュヴァーベン公ルドルフを国王に擁立したことで、ドイツ国内も分裂して両派の戦いとなりました。

この戦いをいい感じに進めたハインリヒ4世は、自派の諸侯や都市、司教を固める作戦に出ます。1080年にブチギレたグレゴリウス7世が再び破門を宣言しましたが、逆にグレゴリウス7世の教皇廃位を決議し、代わりに別の人を教皇として擁立、さらに軍隊を要してローマに遠征させグレゴリウス7世をサレルノに追放することに成功しました。

ローマに戻りたかったグレゴリウス7世ですが、願い叶わず1085年にサレルノで人生を終えました。


聖職叙任権闘争後のヨーロッパ


カノッサの屈辱により教皇権が確立したように見えましたが、その後のハインリヒ4世による反撃もあり協会は分裂することになります。
その後、教皇ウルバヌス2世がハインリヒ4世にとりあえず一旦落ち着こうと呼びかけ妥協的収束に至ります。

1095年には、クレルモン宗教会議を開き、俗人による聖職叙任を禁止とする決議を下し、十字軍運動の提唱をしたことで教皇の権威を回復しようとします。

復讐を果たしたハインリヒ4世ですが、ドイツ諸侯の反乱に悩まされたり、皇帝を巡って起きた紛争の中で息子によって帝位を追われるという結末を迎えました。

ヴォルムス協約(1122年)


神聖ローマ皇帝とローマ教皇による叙任権闘争に終止符を打った宗教会議で、行き詰まっていた聖職叙任権問題の打開を図るためにハインリヒ5世(ハインリヒ4世の子)がローマ教皇カリクストゥス2世との間で締結されました。

ざっくりとした内容としては、皇帝側が帝国教会政策(聖職叙任権などを皇帝が持つ政策)を放棄して、ドイツ以外での司教任命権を放棄することを認めたというもので、これにより教皇権がついに確立することとなりました。

ここから12世紀の十字軍時代に教皇の権威が皇帝を上回るようになっていき、13世紀にローマ教皇権は最盛期を迎えることになります。
つまりようやく本記事のタイトル回収となります。






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