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2度目の民族大移動と1000年帝国


2度目の民族大移動


第2弾の大移動 主役はノルマン人


1つ目のヨーロッパに「多様性」をもたらした民族大移動に続き、2度目はノルマン人による北ヨーロッパから始まる大移動が起こります。
ノルマン人は、スカンディナヴィア半島や現在のデンマークがあるユトランド半島で狩猟や漁猟をして暮らし、造船や航海術も得意な人たちでした。


ヴァイキング


フランク王国分裂時、ノルマン人は混乱に乗じて海をヒャッハーしまくっていたので大変恐れられていました。
ヴァイキングとして活発に動いていたのは9〜12世紀頃で、イングランドやアイルランド、グリーンランドまで到達し定住地を作っていました。
この辺はアサシンクリードヴァルハラをプレイすれば彼らの生態を大体知ることができるのでおすすめです。

建国建国ぅ!


定住地を求めて色々な場所へ航海しまくった結果、北欧諸国やフランス北西部(ノルマンディー公国)、南イタリア(両シチリア王国)、イギリス(ノルマン朝)、ロシア(ノヴゴロド国)などに次々と建国していきます。

ノルマン=コンクェスト
中でも、1066年にフランスのノルマンディ公ウィリアム1世(征服王)がイングランドを征服し、ノルマンディーとイングランドを併せたイギリスはノルマン朝は以降、現在のイギリス王に至るまで全員がウィリアム1世の血族です。

第3弾はスラヴ人


東ヨーロッパで起こった民族大移動の主役はスラヴ人が中心となりました。
ゲルマン人の移動が落ち着き、フン族の帝国が崩壊すると、その空白地帯に広がるようにスラヴ人が移動を始め、各地に国を建設します。

東スラヴ人といわれた人々は、いわゆるロシア人となり、先に来ていたノルマン系のノヴゴロド国の人々と同化していきました。
ロシアはギリシア正教を受容し、ロシア正教と言われるようになります。


1000年続いたローマ帝国の正式な継承国家


現在のヨーロッパにある国家のルーツの最後は、ヨーロッパの東南の隅にある、現在のギリシアのルールとなったビザンツ帝国です。

476年の西ローマ帝国滅亡によって東ローマ帝国は、正統的なローマ帝国を継承することになります。ちなみにいつをビザンツ帝国の始まりとするかは、諸説あるので大体7世紀頃から呼ばれるようになったという認識でオッケーです。

そしてビザンツという名称はどこからきているかというと、ビザンティウム(コンスタンティノープル)を都にしたためにつけられたニックネームです。

全盛期 ユスティニアヌス帝


西ローマ帝国は、100年も経たずに滅亡しましたが、ビザンツ帝国の方は、1000年以上も繁栄することになります。

1000年の繁栄の礎を築いたのが527年に即位したユスティニアヌス帝です。
彼は失われた領土の回復を目指し、戦いまくるために国民に対し重税を課しまくる政策にでたことで一時期は反乱が起きるほどの危機に立たされましたが、なんとか切り抜けてからは約40年にわたって安定的な統治を行いました。といっても現状維持ではなく、領土の拡張に奮闘しており、533年にはヴァンダル王国を征服、続く535年には東ゴート王国とゴート戦争を開始、20年かかりましたが最終的に滅ぼしイタリア半島を異民族から奪い返すことに成功します。

これで終わりではなく、次は西ゴート王国を殴りに行きイベリア半島南部をゲットし、かつて分裂前のローマ帝国が支配していた地中海域を取り戻しました。

東方ではササン朝ペルシアのホスロー1世とバチバチにやり合い、領土こそ広げるに至りませんでしたが、侵入は食い止めておりました。


他にやったこと


ユスティニアヌス帝は戦いまくってるだけでなく、国内産業の保護にも尽力しており、養蚕を奨励したり、帝国の支配していくための法典編纂を指示し、「ローマ法大全」を完成させたりもしました。

また、東ローマ帝国の繁栄を象徴する意味合いを持つハギア=ソフィア聖堂を537年に建ててます。

その後は、ササン朝との争いで国力が衰退していき、最後はオスマン帝国によって滅亡を迎えます。 


1000年の栄華とその実態

王朝変遷
ヘラクレイオス朝(610~711)

マケドニア朝(867~1056)

コムネノス朝(1081~1185)

アンゲロス朝(1185~1204)

一時十字軍に征服されラテン帝国の支配を受ける(1204~1261)

パライオロゴス朝(1261~1453)

領土としては前述した通り、ユスティニアヌス帝によって最大まで回復したのですが、その後は、ランゴバルド王国、ノルマン、ササン朝ペルシア、スラヴ人らによって領土はゴリゴリ奪われていき、7世紀以降になるとイスラーム勢力の登場によって、シリア、エジプトも奪われてしまいます。

635年にはダマスクスを征服され、638年には聖地イェルサレムまでもがイスラーム勢力下に落ちてしまったことは甚大なダメージとなりました。
また、皇帝も90人以上が継いでいきましたが、そのうち約30人が毒殺、刺殺、斬首によってぶち殺されており、内情も穏やかではなかったことが伺えます。


宿敵ササン朝ペルシア


3世紀からビザンツ帝国の東方で繁栄していたササン朝ペルシアとは領土を巡って何度もやり合っていました。

前述の通りユスティニアヌス帝も戦っており、一旦は講和していましたが、7世紀に入るとササン朝のホスロー2世がイェルサレムを襲撃したことで再び抗争が始まり、結果的に交易ルートとして繁栄していたシルクロードが衰退したことで、代わりにアラビア半島南岸の交易ルートが開かれ、イスラーム教の興盛に繋がります。


イスラーム勢力による漁夫の利


ビザンツ帝国とササン朝ペルシアがバチバチにやり合って互いに国力を消耗している間に登場したイスラーム勢力は、634年にはもうビザンツ領に侵入を始めており、当時のビザンツ皇帝ヘラクレイオス1世がこれに軍を率いて対抗しましたが、ボッコボコにされ、シリアとエジプトを奪われる結果となります。


ブルガリア王国とも一悶着


681年に北のバルカン半島で建国されたトルコ系ブルガール人によるブルガリア王国は、ビザンツ帝国、フランク王国に並ぶ大国にまで成長しており、キリスト教絡みで抗争に発展します。
というのも、当時のブルガリア国王はキリスト教入りてえ〜と思っており、ローマ教会とギリシア正教としては大国ゲットのチャンスとしてブルガリア管轄権を主張し合う展開となります。

マケドニア朝時代、当時の皇帝バシレイオス2世は、「ブルガリア手に入れるぞ」と攻撃を始め、1014年にはブルガリア人殺しと言われる大虐殺を行ないました。

1018年にはブルガリア王国を併合することに成功し、しばらく支配が続きましたが、ビザンツ帝国のクソみたいな収奪に反発意識が強まったことで1187年にはブルガリア帝国の復興が果たされました。
そんなブルガリア王国ですが、1396年にオスマン帝国によって滅亡します。


衰退期と滅亡まで


11世紀になると中央アジアから移動してきたトルコ系イスラーム国家であるセルジューク朝がゴリゴリ圧迫してくるようになり、1071年のマンジケルトの戦いで敗れたことで小アジアでの領土を大幅に奪われてしまいました。

セルジューク朝の猛威はキリスト教の聖地イェルサレムにまで及び、占領されてしまったことで当時のビザンツ皇帝アレクシオス1世は、ずっと対立していたカトリック教会のローマ教皇に助けてと救援を要請します。それを受けてローマ教皇のウルバヌス2世は1095年にクレルモン宗教会議を開催して十字軍の派遣を決定します。


助けてもらうつもりが滅亡の危機にまで追い込まれる


十字軍が颯爽とビザンツ帝国を助けるといった展開はなく、彼らは聖地回復より経済的要求が強く、第4回十字軍ではコンスタンティノープルを襲撃し、その地を占領してラテン帝国を建てるというビザンツ側からしたら何してくれてんの状態となります。

ラテン帝国自体は第2次ブルガリア帝国とのバトルに負けて領土拡大に失敗したり、1261年にニケーア帝国によってコンスタンティノープルを奪還されて呆気なく滅亡してしまいます。ほんまに何しにきたんやって感じです。


滅亡に至る


非常に長く続いたビザンツ帝国ですが、1453年にオスマン帝国のメフメト2世によってコンスタンティノープルを落とされ、ついに滅亡を迎えます。
この事実は、当時のヨーロッパ世界に2つの大きな影響を及ぼします。
1つは、オスマン帝国がかなり広大な範囲(東地中海とバルカン半島、西アジア)に及ぶ大帝国を完成させたことでアジアへの交易ルートが断絶されてしまったことにあります。こうなるとヨーロッパの商人達は地中海から大西洋に移り、新航路の開発に向かわざるを得ないのでビザンツ帝国の領土だった地域から去っていきます。

もう1つは、ビザンツ帝国が滅亡したことで、多くの学者や芸術家がイタリアのフィレンツェなどに亡命してギリシア・ローマの古典文化を伝えるきっかけになりました。
その当時、すでに始まっていたルネサンスにとって大きな刺激をもらえることになりました。


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