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父親になった時

忘れもしない、私が父親になった時の記録です。


妻が繋いでくれた命

妻が倒れたその日に我が子は帝王切開で産まれました。
体重は3,000gを超える、男の子でした。
妊娠の経過は順調で予定日も近かったため、体重は平均よりも少し大きいくらいでした。

一方で、妻が倒れた際に呼吸が停止していたため、子どもにも酸素が十分に脳に行き渡っておらず、いわゆる仮死状態で生まれました。
子どもは生まれてすぐにNICU(小児集中治療室)に搬送され、低体温療法という、脳を保護するための治療が行われました。

妻には倒れて意識を失いながらも、愛すべき我が子の命を繋いでくれたことに本当に感謝しています。
子どもが生まれた時、私は妻がいるICU(集中治療室)にいましたが、生まれ来てくれたことに安堵したのを覚えています。
しかし、この時は妻が倒れた衝撃の方が大きく、正直なところ、あまり父親になった実感はありませんでした。

子どもとの初対面

妻の処置が一段落した後、病院から子どもとの面会許可がおり、早速会いに行きました。
子どもと初めて対面した時、言葉にならない感動と共に、自然と涙が溢れました

それは、小さい保育器の中で懸命に治療を受けている、猿のような子どもの姿を見た時に、「愛しい」という感情や、「生まれきてくれてありがとう」という想いが心から湧いてきたことから、身体が反応したのではないかと思います。
この何とも言えない感情を、うまく言葉には出来ないのですが、この時初めて、「ああ、父親になったんだ」という実感を持ちました。

子どもは治療中のため、目も閉じていて、反応も全くありません。
そして、点滴やモニターなど様々なチューブに繋がれており、傍から見ると生きているのかも怪しいと思ってしまうような状態でした。
しかし、私には確かに子どもの生命を感じることができ、「これから父親として頑張っていこう」と心に誓いました。

我が子からのサプライズ

さて、先ほどさらっと我が子が「男の子」であったということに触れましたが、これは予期していない、我が子からのサプライズでした。
実は事前の検診結果では「女の子」の予定であり、男の子であると聞かされた時は大変驚きました。
私と妻の認識ではすっかり女の子のつもりでいたため、妻と考えていた名前や家族計画、用意していたベビーグッズも全て女の子の想定でした。

このサプライズで何より大変だったのは、名前をゼロから考えなければいけないことでした。
役所へは生後14日以内に出生届を提出する必要があったため、暫くの間は妻のお見舞いを終えては夜な夜な家で子どもの名前を考えるという生活の繰り返しになりました。(そして、今までは妻と一緒に和気あいあいと名前を考えていたのが、今は一人で考えなければならないという現実が押し寄せてきます。)
悩みに悩んだ末、私としてはとてもしっくりきて良いと思う名前をつけることができました。

当時の心境

この日を境に、私の生活、そして人生は大きく変わり、怒涛の日々を過ごしてきました。

生まれてきた子どもは第一子であり、私にとって初めての父親経験ということになります。
(後から診断され知ったことですが、)ましてや重症心身障害児&医療的ケア児のシングルファザーです。
更に当時の私は妻を喪ったというショックの真っただ中にいる状態でした。
特に最初の頃は自分の精神状態を保つので精一杯(今振り返れば保つことができていたのかも怪しい)な中で、子どもの容態は今後どうなっていくのか、そもそも障害を持つ子どもの育児とはどうするのか、といった不安がたくさんありました。

重症心身障害児や医療的ケア児のことは、周りに相談できる人もいなければ、調べても情報がとても少ないということで、孤独になりがちです。
しかも、私と同世代の人たちはほとんどが丁度結婚したり、子どもができたりする人が多いタイミングだったので、余計に自分の話がしにくい状況でした。
また、街中で楽しそうに過ごしている家族や走り回る元気な子どもを見ると、寂しくなったり、もやもやすることもありました。

しかし、我が子のことを思うと、父親になったという自覚愛する妻が繋いでくれた命、そして何より愛しい我が子のために出来ることは何でもやろう、という強い気持ちが私を掻き立て、その日から頑張ってきました。
ある意味では、我が子が私の生きる希望にもなっていました。
私が大変な状況にありながらも、今日まで頑張って来れている最大の理由は我が子の存在にあると思っています。

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