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命日が近づくと。

母の命日が近づいているからなのか
わかりやすく情緒不安定となっている。

大体は動悸と手の震えである。
毎年でていた蕁麻疹は今のところ出ていない。

母が亡くなって、荼毘に付した日から半年後が
私の誕生日だった。

ちょうど6ヶ月後だった。
だから私は
半年は生きると決めていた。
当時、私は12階に住んでいて
衝動をいつも抑えていた。
その衝動は、毎日、いつ来るかわからない。
でも、毎日、ほぼ眠れない私にはいつ起きてもおかしくないものだった。

飛び降りそうだった。
違う、飛び降りてしまいたかった。
よく飛び降りなかったと、3年が経つ今
あの時の自分を褒めてあげたい。
それは生存本能ではない。
自分で自分に課した決まりだった。

この日の半年後に母はこの世を去った。

「あなたにとって

幸せな一年であることを願っています」

と母が死ぬ前の最後の誕生日に、この言葉が送られていたからだ。
この言葉がなければ生きようなんて思わなかった。
だから半年後の誕生日までは、どんなに辛くても
消えたくなっても
母のところへ行きたくても
絶対に生きる、という決意だった。

あの半年は一心不乱だった。
日増しに増えていく睡眠薬。
それでも眠れず
薬は強くなっていくが
それでも眠れなかった。

体は疲れていたはずだが、眠れなかった。
ずっと脳?感情が覚醒し
「なんで?」「どうして?」「どうして?」を
繰り返し
泣いているか、本を読んでいるかだった。
私の携帯等には1万冊の本と漫画が入っているが
とにかく読み漁った。
そして毎日買い足していった。
なんでも読んだ。哲学書になら答えはあるのではないか
色んな本をなんでも読みあさった。

だが自己啓発本には手を出さなかった。
あれは前向きになりたい人間が読むもので
そこに私のほしい言葉ないと分かっていたからだ。

私は前向きになりたいわけではなかった。
自分のこの感情に当てはまる言葉を探していた

結局、見つからなかった。

そして、自分で考えても答えは分からないままだった。
ただ、分かったことは
私には、自分でも驚くくらい自分の意志が希薄で
意思を持って生きていたつもりだったが
そんなものはほとんどなく
ただ、ただ、ただ一つ。
母さえいてくれれば、他に何も要らなかった。

ということだった。
人が、誰を世界で一番愛するかは人それぞれだろう。
夫であったり、妻であったり、子供であったり。
それぞれで、その感情の大きさも重さも同じものはない。

私は、母だったのだ。
刺し違えるような喧嘩もした。
気の強い女が二人、それはもう激しかった。
父は生まれた時から海外勤務だったのもあり、私は母とべったり
そんな分かりやすい言葉でもないと思うが
端的に言えば共依存だったのかもしれない。

母と私は似ているようで、似ていない。
母は美しく、身勝手で、孤高で、強かった。
そして私は、我儘で、孤独で、弱かった。
私の人生を守ってくれたのも、歪ませたのも弱くしたのも
他人からの理不尽さ、孤独を唯一共感してくれたのは
母だった。

この母親は、殺されても死なないだろう
と母を知る人間は思うほどに
中々に強烈な人であったが
儚くとても儚く
命の灯火は消え失せた。

どうしても、この時期は灯火が消えてしまう
揺らいでいくあの日々を思い出してしまう。
あと21日。
私が一生背負う地獄の日々である。