見出し画像

シンガポール人に「関所」を語られ、日本人の僕は・・・。

<この記事の参考文献>
・河合 敦 著『関所で読みとく日本史』 他

先日、英語と日本語の言語交換イベントに気まぐれで参加してみたところ、シンガポール人と話をする機会がありました。
この日の参加者は僕と彼しかおらず、サシでの対談に。

言語交換といっても、英語がしゃべれない僕は日本語ばかり使ってしまい、相手の理解に頼る一方という情けない状況ではありましたが。

相手のシンガポール人は、日本で暮らしているだけあり基本的な日本語は聞き取れるので、何とか会話は成立しましたが、彼からしたら「俺が英語を教えてるだけじゃねーかよ」と心の中でツッコみたくなる状況だったことでしょう。

そのシンガポール人は、箱根が日本の観光地の中で一番好きと言ってました。
以前に箱根関所を観光し、感動したそうです。

「関所という仕組みを設けた徳川家康は、すごく頭が良いね」

と、カタコトの日本語で興奮気味に語ってました。

一方、関所に今まで興味を持ったことのなかった僕は、英語がしゃべれないとこに更に追い打ちをかけられた状況となり、
「そうなんですねー」
と日本語で相槌を打つだけの始末(「そうなんだ」は英語だと「I see」だったのでしょうか)。

「徳川家康は頭が良い⁇」
「関所って、徳川家康が作ったんだっけ⁇」
と一瞬、脳がフリーズ状態に。

関所って、言葉からしてお堅いイメージで歴史アレルギーになりそうですが、シンガポール人とのトークを通じて今まで歩み寄ることのなかった「関所」が突然目の前にたちはだかったため、今回は"関所破り"に挑戦です。

いっそのことこれを皮切りに色んなアングルから歴史を紐解いていき、人類史のどこを切り取っても歴史を語れるようになれると良いのですが。

関所とは

街道の要所や国境に設け、戦時における防衛あるいは通行人や物品の検査に当たった所。古代においては軍事的目的で設置され、中世には関銭が幕府・豪族・寺社の重要な財源となり、その徴収を目的として各所に設けられ、交通・商業の障害になった。近世には幕府・諸藩が治安維持のために設置したが、明治2年(1869)廃止。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

と、いきなり堅い解説から始まっちゃいましたが、和英辞典で引くとすばり
「a barrier」または「a checkpoint」
と出てきました。

「バリア」「チェックポイント」

英語にすると歴史の重みが一瞬で吹き飛びますが、むしろ爽快です。

ここからは『関所で読みとく日本史』(河合 敦 著)からの引用を主に、ネット情報なども配合し関所を概観してゆきます。

関所が設けられたのはいつの時代からか

曖昧らしいが、記録に残る最古の関所は5世紀前半ごろとのこと。
5世紀というと、年表上は古墳時代になってます。

古墳時代の背景

古墳時代(3世紀〜6世紀後半)はこんな感じの時代背景

・政治組織ができてゆく
小さなムラやクニの集まりだった日本が、次第に統一されていった。やがて近畿地方の大豪族や各地方の有力氏族などが結びつき、皇室の祖先と言われる大王(おおきみ:大和政権の首長の尊称)を中心とした政治組織「大和政権」が成立。

大和政権は、日本を統一した最初の政権といわれています。

「統一」ってもともとは対立や混乱を避け、安定を保つための動きなのでしょうが、族とか連合とか聞くと物騒で不自由なイメージばかり湧いてきて、ルソーとかロックとか、哲学の世界に耽りたくなります。

・外交面
大和政権は、支配していた九州を足場に朝鮮半島南部の「伽耶」(かや)地方に進出。朝鮮半島南西部を治めていた「百済」と連合して「高句麗」や「新羅」と戦うなど、東アジアにおける存在感を増していった。

また大和政権には多くの渡来人(4~7世紀にかけて日本に移住した朝鮮や中国の人々)も登用され、渡来人がもたらした先進の技術・学問が政治や文化の発展を支えた。

まだこの時代は関所が各地で存在感を増す状況ではなさそな感じです。

大化の改新と関所

法的に関所が整備されたのは、奈良時代の720年に成立した歴史書『日本書紀』によると、飛鳥時代・大化の改新の時(645年)だそう。

ちなみに日本書紀は、ご承知の通り古事記と並び現存する日本最古の歴史書と言われるものです。
国立公文書館のHPには、「わが国最初の勅撰国史(天皇の命で編集された国の歴史)」と書かれてました。

大化の改新は現代で言う政治改革。そう聞くと何だか急にスケール感が小さくなってしまいます。

645年、蘇我蝦夷・入鹿父子が中大兄皇子や中臣鎌足によって滅ぼされ、新天皇に擁立された孝徳天皇が改新の詔を発令。

「改新の詔」は、大化の改新の中で天皇を頂点とする中央集権国家を築くために掲げらた方針で、次の4カ条からなります。

4カ条
①公地公民制
私有地・私有民を廃止して公地公民制へ移行すること
→土地も人も、自分のものから天皇のものになるということ

②国郡制
国・郡・里といった行政区画や交通制度を定めて地方官を任命すること。

③班田収授法
戸籍や計帳といった帳簿を作り、それに基づき口分田(人民に一律に与えられた土地)を支給し、税を課税するしくみ。
→これは、当時の唐(中国)の均田制をパクッたものだそうです。

④税制
これまでの労役による税制を廃止し、田の面積に応じて租税を課すという、統一的な税制度にする。

既に律令国家体制を築いていた中国にならい作られた制度です。

中国、古代、と聞いて僕がパッと思い浮かぶのは映画「キングダム」ですが、調べたらもっと昔の時代(紀元前3世紀、500年の争乱が続く春秋戦国時代末期)でした。また三国志は後漢末から三国時代(220~280年)を描いた歴史書とのことですので、これも350年以上前の話。

現代ネタとつなげようとしたけど、つながらず。

その改新の詔の条文の中で「関塞(せきそこ)」という言葉が出てくるそうで、それが関所のことだと考えられています。
このあたりから、交通整備にともない関所が設置されていったことが薄々うかがえます。

ちなみに改新の詔を骨子に後の701年、日本初となる法律「大宝律令」が制定され、日本は律令国家となりました。

法律と聞くと、現代では国会とか政治家とか裁判所が思い浮かびますが、今でも法律が制定される際は、天皇の公布をもって施行されてるとこに悠久の歴史が感じられます。

現代にも残る、古代の交通制度

ここで関所に関連深い交通制度の話に触れます。

大宝律令(701年)では、日本全国を「畿内七道」という八つの地域に区画し、さらに全国を60の国に分けました。この「国」は現代の都道府県にほぼあたるそうです。

「畿内」とは、都の周辺地域を指す言葉で、大和(奈良)・山背(京都)・河内(大阪)・摂津(大阪)の四国で構成される。また後に河内から分立した和泉も含め「五畿」とも呼ばれる。

七道は、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道。このうち東海、北陸、山陰、山陽は現在では「~地方」の呼び名で残ってますね。

この「七道」は、行政区画の名称であるとともに道路の呼び名でもあるというちょっとややこしい名称。道路の方の「七道」はすべて畿内から広がるように作られました。

何のために関所が設けられたのか

古代の場合

古代は時代区分でいうとざっくり、飛鳥時代(推古天皇が即位した592年)から奈良時代(平城京へ遷都された710年~)、平安時代(794年~1180年)あたりまでを言うそうです。
一言で言えば「天皇家が強かった時代」。
上述の大化の改新などがこの時代に入ります。この時代に関所が設置された理由は以下のような感じです。

1.国防のため
天智天皇(中大兄皇子)率いる日本軍が、朝鮮南西部の白村江で中国の唐・新羅の連合軍に大敗した白村江の戦い(663年)をきっかけに、国内防衛策の一環として関所も含めた交通整備が進められた。
道を塞いで敵の侵入を防ぐことが関所の役割のひとつであった。

白村江での対外戦争については、「日本軍」といってもまだ中央集権国家体制も成立してない状況の中での戦いで、戦略もクソもなかったようです。

2.農民が本籍地から離れるのを防ぐため
もうひとつの狙いは農民の本籍地からの逃亡を防ぐため。
<背景>
班田収授法のもと口分田の耕作を行う農民たちには当時とても重い税がかけられていたのだそう。
班田収授法は、土地を国有とし、田を人民に班け(わけ)与える制度。

税と言ってもまだ貨幣取引のない時代。稲の収穫の3%程度を納める「租」をはじめ、絹や綿、布などの産物を収めさせる「調」、労役10日間の代わりに布を徴収する「庸」。

「租庸調」って言葉だけは小学校か何かで覚えた記憶がある方も多いはず。

この租庸調に加え、兵役や利子貸付などといった税も課せられていたそうです。
さらに税の品は都まで自力で運ばねばならず、帰途にのたれ死ぬ人もいたそうで、こういった背景から本籍地を離れ、地方豪族などを求めて逃亡しようとする農民が後を絶たなかったそう。

このような背景から、班田収授法という納税の仕組みはやがて機能しなくなり、この問題の解決策として後の743年に聖武天皇が墾田永年私財法を発布。
土地が公地(天皇の土地)から私有地(自分の土地)に戻ることなります。

新しく耕した土地を自分のものにできる墾田永年私財法。
この法律のもとで広大な土地を手にしたのは、大貴族や寺院でした。
口分田を捨てて逃げた農民たちは、大貴族や寺院の下で小作人として匿われることに。
この墾田永年私財法により、「荘園」なるものが登場します。

大貴族や寺院がこぞって土地所有を競う中で、各開墾地には現地オフィスが置かれるようになります。このオフィスが「荘」、荘が管理する田畑が「園」、合わせて荘園だそうです。

そしてもう一つの墾田永年私財法の副産物が、武士だそうです。

日当たりなど条件の良い肥沃な土地をめぐり、貴族や豪族の奪い合いが生じてくる中で、腕力に自信のある農民たちが貴族らと契約を結び、荘園警備の仕事につくことに。これが武士のはじまりだそうです。

だいぶ関所の話題から脱線してしまいました・・。

この『関所で読みとく日本史』には、関所をあの手この手で潜り抜けようとする人々の詳細も描かれてます。
当時の人々にとったら命がけですが、この本を読んでたら、これは落語の題材になってそうだなと思いネットで調べたらやはりありました。

『禁酒番屋』という落語。別名『禁酒関所』と呼ばれており、酒を持って関所を通過しようとする小僧と門番とのやりとりを描いた演目。
YouTubeで六代目・笑福亭松喬が演じるのを見ましたが、下らなくって結構笑えました。

中世の場合

どこからどこまでが中世時代かは諸説あるようですが、いくつかネットで調べた情報としてひとまず平安時代末期(11世紀後半)~戦国時代末期(16世紀後半)の約500年間としておきます。

天皇家の力が弱まり、貴族、そして武士なども権力を持つようになった時代。権力が並立されていた時代といった特徴があります。

中世の関所の特徴は、経済的機能を持たせたことです。
室町時代には、各地の領主が通行税を取るために領内各地に関所を設けるようになり、大量の関所ができてゆくことに。
また時の権力者である後醍醐天皇や足利尊氏らも、はじめは商売や年貢の輸送、諸人の往来などに支障が出るので新たな関所の設置を認めない立場だったが、やがて幕府自体が資金調達を目的に設置してゆきます。

関所の通行税が高速道路など現代の有料道路の前身なのでしょうか。

近世の場合

マレーシア人が語っていた徳川家康と関所の話題にようやくたどり着きました。
近世の区分については、これも諸説あるようではっきりとわからないので、自分なりの解釈です。
・武将により全国が統一されていった時代。
 近世は、織田信長の天下統一以降とか、豊臣秀吉の天下統一以降、徳川幕
 府成立以降など、諸説あるようなので、勝手にそう解釈しました。

・戦争だけでなく、宗教・芸術といった文化が普及していった時代
 宗教や芸術といった文化の話題が入ってくると確かに現代に近づいてくる
 感じはします。

1.第一の目的は、江戸の防衛
江戸時代の関所設置の第一目的は、やはり江戸を防衛するためです。
江戸時代に入る前には、織田信長が天下統一を進める中で、自身の領地内の関所を廃止する動きがありました(1568年)。

各関所を通過する度に徴収される税=関銭を撤廃することで、人や物が今までより経済的負担の少ない状態で諸国を行き来できるようにするためです。
これにより諸国は活気づきました。

また商品に物流経費がかからなくなることで、商品価格が安くなり、購入客が増えたことで経済が活性化し、都市も発展していきました。

信長はこの政策により民衆から大きな支持を得るようになったそうです。
また関銭は公家や寺院など他の権力者や、地方勢力の収入源にもなっていたため、関所を撤廃することで他の権力者の経済的基盤や収入源を失わせ、政治力や軍事力を低下させる効果ももたらしたそうです。

ただし一方で防衛力まで低下させてしまったことが信長の命取りになったともいわれています。

そんな背景の中、家康は関所の再配置に取り掛かり、諸大名が反乱を起こし大軍で江戸に攻め入ろうとするのを迎え撃つ機能や、江戸に武器を運び入れて謀反を起こすことを防ぐ機能を関所に持たせました。

信長と家康それぞれの異なる性格の一面が、関所の取り扱いにも垣間見える気がします。

関所では特に鉄砲が江戸に持ち込まれないよう、厳しくチェックが行われたそうです。江戸に入る鉄砲は「入り鉄砲」と呼ばれていました。まんまですね。

一方で、全国の諸大名たちに忠誠を誓わせるなどの目的で、諸大名(各藩の藩主)に国もとと江戸を行き来させる参勤交代制度を定めたことで、交通整備も促進されてゆきます。

街道には2~3里(1里は3.927km)おきに宿駅(宿場)が置かれ、(このあたりから時代劇とかにてくる江戸の風景が何となく想像されるかと思います)、東海道(品川ー大津)には五十三個の宿場が設けられました。

東海道と聞くと、教科書に出たきた『東海道五十三次』や『東海道中膝栗毛』といった作品の名前が思い出されます。

『東海道中膝栗毛』は、十返舎一九という人が書いた滑稽本。主人公の弥次郎兵衛と喜多八、通称『弥次喜多』は、現代でもエンタメ作品などに登場します。

2.第二の目的は、女性の移動を防ぐため
江戸の関所機能の特徴としてもう一つ挙げられるのは、女手形といわれる女性のみ必要とされた通貨許可証。
なぜ女性だけ厳しいチェックを受けたのか。まずひとつは、江戸に人質として住まわせていた諸大名の妻子が国に逃れるのを阻止するためです。
江戸方面から西へ向かう女性は「出女(でおんな)」と呼ばれていました。

そしてもうひとつの理由として、各地域の人口を維持するために一般女性の移動を制限する目的もあったそうです。子供を産む女性が地元から離れてしまうと、その地域の人口が減ってしまい、農業生産力にも影響がおよんでしまうという考えからです。
地方から江戸方面へ向かう女性は「入女(いりおんな)」と呼ばれていました。

そして近代。関所の終焉へ

近代は、江戸幕府が終焉し、政権が天皇を中心とした明治政府に移る時期以降。
欧米列強へ対抗すべく、国際化に日本が舵をきってゆく時代です。
坂本龍馬、大政奉還、明治維新などといった馴染みのあるキーワードが出てくる時代です。

さて、大化の改新の時代からその時々の権力者によって利用されてきた関所は、明治二年(1869年)にその歴史的な役割を終えることになります。

関所廃止の7年前(1862年)は、坂本龍馬が脱藩を決行した日。
その9年前の1853年はペリーが黒船で浦賀に来航。
開国に踏み切る幕府に対し、薩摩藩、長州藩を筆頭に開国に反対する尊王攘夷派の倒幕に向けた動きが加速されてゆきます。

1866年には、坂本龍馬の仲介で薩長同盟が結ばれます。
その2年後の1868年、薩長を中心とし、西郷隆盛を総大将とした新政府軍が、最後の将軍・徳川慶喜擁する幕府軍と戦い(戊辰戦争)、ついに倒幕がなされます。

そして翌年、日本の歴史の一端を担ってきた関所は廃止されました。

疲れたのでこのあたりで終わりたいと思います。

関所を調べるうちに、日本の歴史そのものの方に興味が向いてしまいました。

さて、シンガポール人が評した
「徳川家康はとても頭が良いね」
に対する答えですが、関所の話題に限っていえば、

「徳川家康はとても敵を恐れた人だよ」
ということにしておきます。

He was a man who was very afraid of his enemies.

上述した書籍以外の主な引用・参考サイト


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?