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【創作】空蝉

 ジリジリと音を立てて燃えていくコンクリートが痛い。体にまとわりついて離れない空気は許容範囲をこえた水分を含んでいて、つかんだら物質として得られそうなほど分厚い。その中を私は泳ぐように歩いている。去年の夏も暑かったように思うけれど、今年の夏は特別暑い。肌にべったりと張りついたシャツが忌々しい。四つの季節の中で、特別好きな季節というものはないが、夏が特別嫌いだということは間違いない。
 八月も終わりに近づき、蝉の骸がぼろぼろと散らばり落ちている。死んでいるからか、剥いた腹は何よりも白い。夏という季節は不健全だと思う。多くの虫が活動し、多くの人間がはしゃいでいるにも関わらず、そのどれもが死と隣り合っていて、残酷な匂いが立ちこめている。
「小野」
すぐ後ろから声がした。振り向いた瞬間、心臓がぴくりと動く。
「丹下……」
「久しぶり」
「……そうだね、半年ぶりぐらい」
「そんなにか。同じ学校なのに変だな。まぁ、クラスも遠くなったからね」
 丹下とは、一年の時に同じクラスだった。インターハイ常連のサッカー部に所属しているという点だけでも話題性抜群なのに、その容姿や言動も相まって、すぐに有名になった。そんなことだから、周りに寄ってくる女の子は山ほどいた。でも、丹下には沢山の嘘や秘密や疑惑や噂があって、そのどれもが丹下の実態を明らかにはしなかった。
 同じクラスだった時分、そんな丹下と一番良い関係を築けていたのは恐らく私だった。私たちが互いに干渉せず、かつ退屈しない絶妙の距離感を捉えることができたのはまったくの偶然だ。ひがまれることもあり、それに対して優越感を覚えることも、まあ、なかったとは言えない。しかし、絶妙な距離感というのは、継続してとり続けるのが難しい。
 まわりくどい言い方をやめれば、私は丹下を好きになってしまった。そして、私が友人として以上の好意を持つようになったのは完全に誤算だった。丹下が私のそうした感情を微塵も望んでいないのは明らかだったし、私自身こんな感情を覚えるとは夢にも思っていなかったのだ。
 でも、自動販売機で買った紙パックのいちごミルクをふざけて取り合っていたら偶然手が触れたとき、冗談みたいに心臓がうるさくなってしまって、恐らく厳重にふたをしていたであろう自分の心の声を認識してしまった。一年の終わり頃のことだ。だから、クラスが変わって丹下と疎遠になったことはむしろ、私にとっては幸運だった。

 そうしたことを全て振り切るように思いきり首を左右に揺らして、私は歩き出した。丹下はそろそろと私のあとをついてくる。手が届くか届かないかの、微妙な距離感。しかし、この妙な距離感にきりきりと胃が痛くなる私は、半年を経てもまだ自分の感情に折り合いをつけることができていないのだと痛感する。
「夏休みなのに、学校来るなんて小野らしくないね。まさか補講?」
「まさか。部活だよ」
「へぇ。小野、何部だっけ」
「美術部。文化祭で出展しなきゃいけないから、そろそろ描き始めないと」
「そうなんだ」
 ぷつりと声が途絶える。極力会話はしたくなかったので、『丹下は何の用事なの』と、こちらからは尋ねなかった。それで、しばらく会話もなく歩いた。丹下は時々、「暑い」だの「だるい」だの、ありがちな呟きを漏らしたが、私はそれにも応えなかった。
「ねぇ、小野」
「……何?」
「ずーっと下向いて歩いてるね」
「うん」
「機嫌悪いの?」
「……そんなことない。蝉を踏まないようにしてるの」
「蝉?」
「大っ嫌いなの」
 その一言に丹下がくつくつと笑った。何、と振り向こうとすると、私の左肩に、茶色い物体がのっているのが見えた。恐らく丹下がのせたのだろう。それが何かは簡単にわかった。
 ――蝉の抜け殻だ。
 私は小さく悲鳴を上げる。蝉の抜け殻は、蝉の死骸よりも嫌いだった。命があったとわかるのに、命の終わりが見えないのが怖いのだ。ぱっくりと背に穴の空いた茶色い入れ物の中には何もない。何もないのが怖いのだ。
「お前、ちっとも気がつかないから」
 よほど面白いと見えて、丹下は珍しく大笑いしている。
「は、はやくとって、丹下、バカ」
「そんな口の利き方する奴のいうことは聞けないな」
「今すぐとってくださいお願いします丹下様」
 私の知る限り最高級の懇願をし終わる前に、丹下の長い指が私の肩の物体をつぶした。抜け殻は簡単に壊れ、バラバラに砕けた。あっけにとられていると、空蝉の欠片と、丹下の小指とが同時に頬に触れた。
 もう一度悲鳴をあげて、しまった。

 恥ずかしくなって、私はずかずか歩き始めた。
「ねぇ、小野」
 後ろから追いかけてくる声が、憎くてしょうがない。
「今度は何」 歩く速度を変えずに応える。
「『うつせみ』って、この世に生きてる人間のことを指す言葉でもあるんだって」
「……は? 何言って」
「ねぇ、さっきの悲鳴は、ど っ ち に 反応したの? 」

 蝉の抜け殻? それとも、俺の指に触れたこと?

 はっとして、思わず振り向いた。口元を歪めた丹下の目は、しかし、全く笑っていなかった。太陽に負けないぐらいぎらぎらと私を睨んでいて、今度こそ、自分の愚かさを知る。
 たまらなくなって下を向くと、私の肌にくっついた皺だらけのシャツが目に飛び込んできた。それは、皮肉にも蝉の腹のように見えた。
 もしかして、丹下はこうやって毎度、沢山の彼女や彼女候補の可能性を丁寧にひねり潰しているのかしら。私に会わない半年の間も、どこかで私のことを見ていて、私がまだ自分のことを心の片隅に思い描いていることに、丹下は気づいていたのかしら。そう考えて、お腹を抱えて笑い転げたいような、額を地につけて泣き叫びたいような気になった。

 私は精一杯口角を持ち上げる。眉毛に力を入れて、「さぁ」、と言った。強く言い放つつもりだったけれど、声は震えていた。最後にもう一度丹下の顔が見たかったけれど、見てしまったらここから動けなくなるだろう。
 私は大きく息を吸い、身を翻す。素早くローファを履き直し、学校に向かって全速力で走り出した。

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