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今日はバレンタインデー

【1】

水深1.35メートル、幅12.5メートル、長さ25メートル。
水量にしておよそ422立方メートルを貯水できる我が校の25メートルプールには、高純度の濃硫酸が張り巡らされていた。
濃硫酸から発せられるミストの影響か、辺りの空気は心なし歪み、赤紫色に変色したよう錯覚する。

中の液体のほか、一般的なプールと比較した際に生じる最も大きな差異は、プールの上面一帯が巨大なランニングマシンで埋められていることだった。
ランニングマシンは全部で8コースあり、それぞれのコースで速度が異なっている。早さに耐えきれず、立ち止まってしまったが最後、その者は必然、濃硫酸の海にダイブすることになる。

これらの大掛かりな装置はすべて、今日、この学校で年に一度行われる一大イベント、バレンタインデーのために用意されたものだった。

有毒ミストで滲みる目を擦りながら、僕たちは眼前に広がる地獄のような光景を見つめていた。

「なあ筒井くん。一体全体、これから何が始まるんだい」友達のタカちゃんが僕、筒井慎二に言う。

「ああ、タカちゃんは去年のバレンタインデーには参加していないのか。話すと長くなるんだけど、要するに、クラスの女の子たちが用意してくれたチョコレートを、僕たち男子で奪い合うんだよ。ほら、運動会にパン食い競争があるだろう?あれと同じ要領で、ランニングマシンの終点に女の子からのチョコレートが吊るしてある。それをマシンの端から端まで駆け抜けてゲットしなきゃならない」

「落ちたらどうなるの?」

「溶けて死ぬよ」

「なるほど」

「自信が無ければ辞退もできるし、コースによってマシンの設定速度も違うから、速度の遅いコースを走るのもアリだよ」

するとタカちゃんは、何かに気づいた様に僕に言う。

「どうしてコースによって設定速度が違うんだい」

「簡単な話さ。ずばり、男子から人気の高い女の子のチョコが吊るしてあるコースほど、到達が困難になっているんだ。たとえば、僕らのクラスのマドンナ、白鳥さんのチョコが吊るしてあるランニングマシンの推定設定速度は時速500キロだ。ほら、あの一番端っこのコース。ひとつだけ速すぎて意味わかんなくなっちゃってるコースがあるだろ。あそこを走るのは自殺行為だから、避けたほうがいい」

「ライフル弾の発射速度が、たしか秒速900メートルくらいだったね」

僕たちがそんな話をしている頃、バレンタインデー会場は既に、性欲の権化と化した男子でごった返していた。蒸発による濃硫酸ミストに加え、思春期男子特有の生ゴミのような匂いが混在し、会場の空気は地獄というよりほかなかった。プールサイドに特設されたステージの壇上に、校長先生が粛々と登壇していく。

『えー皆さん、こんにちは。生徒同士の親交を深めるべく、また、当学園から男子生徒を一掃するべく、長きに渡って開催されてきた本行事も早5年。本日は天候にも恵まれ、非常に良いバレンタイン日和になったといえましょう。昨年も、実に多くの生徒が犠牲になりました。今年は一体、どれだけの生徒の命が散り散りになってゆくのでしょうか。先生楽しみで仕方ありません。楽しみすぎて、昨日はパンツを新調しました。いつも先生の奥さんは、私に合うからと言って、機械油みたいな色のパンツしか履かせてくれないのですが、なんと昨日は、ビカビカの蛍光色、太陽のように輝くオレンジ色のパンツを履かせてくださいました。そこで指を咥えて開催を待ちわびている君たちの目にも、さぞかし神々しく光り輝いて見えることでしょう。え?ズボン履いてるからパンツが見えないって?そうか、私としたことが、これはいけない。ズボンの上からでは、皆さんにパンツが見えないのですね。ちょっと待ってください。ズボンを下ろします』

ひとりでなにかブツブツ言い終えた校長先生は、誰も何も言っていないのに黙々とズボンを下ろし始めた。

歳のせいだろうか。壇上という限られたスペースでズボンを脱いでしまったため、足元がぐらつき、校長先生はそのまま階段から転げ落ちた。

異様な転がり方を全生徒に見せつけた校長先生の身体は、そのまま濃硫酸の中へ落ちていった。校長先生の絶叫が場内にこだまし、それが図らずも、本年度バレンタインの開催を告げる合図となったのだった。

【2】

『先ほど死んでしまった校長先生に代わり、本日の司会進行を務めさせて頂きます。教頭の寺島です。よろしくお願いいたします』

校長先生は体内中の水分と濃硫酸との反応熱により『脱水』してしまった。黒焦げになった校長先生の遺体は、そのまま濃硫酸の中に取り残された。

濃硫酸の鮮度を保つため、何体かの人間が落下する毎に、中の液体をある程度入れ替える。その際にまとめて遺体を回収する手筈のようだった。

『それでは、第一走者を希望する勇気ある生徒はおりますか?』

「ハイハイ!僕!僕が走ります」

真っ先に名乗りを上げたのは、クラスで最も優れた顔面を持つ男、浅木君だった。女子からの人気は高そうに見えるが、話すときに一貫しておっぱいしか見てないこととか、いつも早口で何言ってるのか全然わかんないこととか、それに伴って信じられないくらい唾を飛ばすこととか、しかもその唾が死ぬほど臭いこととかが相まって、実は全然好かれていなかった。

『ほう。浅木君は、確か去年もトップバッターを務め生還しているね。今年も素晴らしい走りを期待しています。ところで、浅木君はお目当ての女の子はいるのですか?』

「もちろん、僕のクラスのマドンナ、白鳥さんのチョコを狙いに行きますよ。あの子のチョコは、僕にこそふさわしい」

『白鳥さんのコースは時速500キロですが、自信のほどは?』

「自信しかありませんね。この日のために、足を鍛えてきました」

そう言うと浅木君は、異常に発達したふくらはぎを全校生徒に見せつけた。筋肉の筋がモリモリと浮き上がり、今にもはち切れそうな血管は、遠目から見てもビクビクと脈を打っているのがわかった。体格と比較して明らかにアンバランスなそのふくらはぎは、見ていて気持ちが悪かった。

『すばらしい。それでは、スタート位置へ上がってください』

「白鳥さん。ちゃんと見ててね。僕は絶対に君のチョコをゲットして、溶かして墨汁と混ぜて書道をするよ。笑っちゃうくらいの達筆で、昨日夢の中に出てきた君と僕の子供の名前を書くんだ。名前は」

浅木くんはマリトッツォという特大のDQNネームを大声で叫ぶと、時速500キロで回転するレーンの上へ飛び乗った。片足が着地した刹那、彼のアンバランスな体躯は前のめりに倒れ、顔面をレーンに擦り付けた。そのまま回転の流れに沿うように、彼の身体は濃硫酸の中へ落ちていった。

『浅木君!死亡!』

教頭先生が浅木君の死亡をアナウンスする。校舎の窓を見やると、ちょうど白鳥さんがマリトッツォを食べているところだった。

【3】

『それでは、第二走者に名乗りをあげる勇気ある生徒はおりませんか』

浅木君の死にショックを隠しきれない男子生徒の輪の中からひとつ、高々とした挙手があった。学年一のガリ勉、丸尾君だ。

「僕が行きましょう。浅木君との格の違いを見せつけてやりますよ」

丸尾君はガリ勉という性ゆえ、勝負事に挑む前の徹底的な下準備を欠かさない。この間の中間試験では、前日の夜に職員室の窓を全部割り、試験の答えを根こそぎ盗み出した挙句、その罪を丸ごと近所のヤンキーに被せてみせた実績がある。実際のところ盗み出した試験の答えは全て過去のもので、丸尾君の中間試験の結果は漏れなく5点だったのだけど、彼のそのバイタリティには目を見張るものがあった。
ただしその陰湿な性格ゆえ、女子からは絶望的に人気がなかった。
そんな丸尾君が、此度どんな天才的な戦略でこの行事を突破してのけるのか、全男子生徒はその成り行きを見守った。

『ほう。丸尾君は、確か去年は不参加でしたね。今年はどんな天才的な突破口を見せつけてくれるのでしょうか』

「簡単なことです。みんなはバレンタインデーというイベントに浮き足立って、一時的に脳味噌が発情期の猿のように成り下がっているせいで気がつかないのかもしれませんが、美人のレーンが爆速である以上、ブスのチョコが吊るしてあるレーンは遅いのです。ブスのチョコを一点狙いすることによって、この勝負は、生まれたての子鹿でも勝つことができるのですよ」

丸尾君の口から次々発せられるナチュラルなクズ発言は、男子生徒をドン引きさせると同時に全ての女子生徒をも敵に回した。

「みてろよ阿婆擦れども!去年は僕の下駄箱を、よくも脱脂粉乳でパンパンにしてくれやがったな!おかげで僕の瞬足が、脱脂粉乳まみれになっちまったじゃねえかよ!許さねえ!絶対にこのレースを生還して、今晩お前ら全員でシコってやるからな!」

高らかな宣戦布告を掲げた丸尾君は、最も速度の遅いレーンに飛び乗った。最も遅いレーンの速度は時速3キロで、ゴールにはこの前性転換を終えたばかりの元レスリング部主将、近藤昭雄ちゃんのチョコが吊るされていた。

余談だが、近藤ちゃんは掃除を手伝わないで帰ろうとした男子を引き止めるべく、廊下のど真ん中を通せんぼし「ここから一歩も通さない」などと口走って以降、男子から月の爆撃機と呼ばれていた。

『はッ早いぞ丸尾君!ゴールまで一直線に駆け抜けていく!』

「ギャハハ!楽勝だぜエ〜!」

「ちょっと丸尾君!近藤ちゃんが泣いてるじゃない!」校舎の窓からは、近藤ちゃんに寄り添った女子たちが丸尾君に罵声を浴びせている。近藤ちゃんはというと別に全然泣いてなくて、それどころか黒スーツにサングラスという出で立ちで棺桶を抱え、ダンシング・ポールベアラーズの真似事をしていた。棺桶には、当然のように丸尾君の顔写真が貼られている。

「うるせえカスども!隠キャのメンタルは」

強いんじゃ〜いと丸尾君が吠えた瞬間だった。長年の酷使に耐えかねた丸尾君の瞬足は、最悪のタイミングで限界を迎えた。
両靴のマジックテープが引き千切れ、丸尾君はそのままレーンに倒れこんだ。ゆるゆると後方へ運ばれていく丸尾君は、まるでベルトコンベアで運搬される精肉かなにかに見えた。

「ッとあぶねえ!時速500キロのレーンだったら、死んでいたぜ!」

丸尾君はすぐさま体勢を立て直し、再度ゴールへ向け前進する。

「ちょっとなによ!そのまま死ねばよかったのに」

「はっ、そんなありきたりの罵倒じゃ、僕の心は揺るがないね。悪口のボキャブラリーが少ない人間ってのは、結局のところ他人に興味がないんだろうな。他人の良いところも悪いところも、自分の尺度でしか測れない、かわいそうな人間というわけさ。本当の悪口っていうのは、もっと簡潔でいて鋭く、最短距離で人の心を抉らなくちゃいけないんだ」

「クソメガネ!」

「無駄無駄」

「下劣人間!」

「ピュ〜(渾身の口笛)」

「ガリ勉のくせにバカ!」

「ウワアアア!」

一番突いて欲しくないところを突かれた丸尾君は、そのままレーンとレーンの微妙な隙間に落ちていった。以前修学旅行でお風呂に入ったとき、ミルワームのように情けないオチンチンを晒しながら射精のメカニズムについて語ってくれた丸尾君を、昨日のことのように思い出した。

『丸尾君!死亡!』

教頭先生が丸尾君の死をアナウンスする。窓を見ると、数人の女子が棺桶を抱えダンスを踊っているところだった。

【4】

チレオイド・レボチロキシンナトリウム・リオチロニンナトリウムといった甲状腺ホルモン群は、ひとりの女子生徒が吊るしたチョコレートの中から検出された。
3人目の走者として見事チョコをゲットし生還を果たした秋山君という男子生徒が、その場で食し身体に不調をきたしたことが発覚の原因だった。
元々意中であった秋山君の身体を引き締めるため、『痩せさせる』ためにと図った工作だったらしいのだけど、甲状腺ホルモンの過剰摂取が原因で、秋山君はしきりに手足の震え、動悸、発汗、怠さを訴え、救急車で運ばれていった。

『ええ、実に由々しき事態が起こってしまいました。当行事で負い得る身体的ダメージは、一貫して身体が消し炭になることのみです。それ以外のダメージは、当行事に対する冒涜と取る他ないでしょう。念のため再度確認いたしますが、女子生徒の中で、他にチョコに異物を混ぜた方はおりませんか?』

教頭先生の呼び掛けに対し、数人の女子が名乗りを上げ、恥ずかしそうに自身のチョコを回収し立ち去っていった。

『ああ、そこの君。時に、チョコになにを混ぜたんで?』

「昨日抜けた乳歯です」

『なるほど。そちらの君は?』

「パンパ産の牛糞です」

女子生徒から次々発せられる告白に、男子生徒は戦慄した。告白された異物の中には過度な愛情表現と取れるものもあれば、テロとしか思えないものまで様々だった。この先はどうやら、女子が可愛いとか、レーンが速いとか遅いとか、そういうこと意外にも気を配らなければならないようだった。未回収の爆弾(異物入りチョコレート)は、まだ絶対に残っている筈だ。

『それでは、4人目の走者はどなたですか?』

そろそろ頃合いかもしれない。僕は、筒井慎二は校舎2階の窓から覗く、名倉さんの顔を見ながら思った。
名倉さんも僕を見つめた。ような気がした。

「僕が行きます」

そう教頭先生に告げると、僕は禍々しいレーンの前へ立った。

【5】

名倉さんと初めて会ったのは、丁度去年の今頃だったと思う。

元々クラスが別で滅多に顔を合わすことはなかったのだけど、生徒会の新規メンバー徴集の際、偶然居合わせた彼女と知り合った。立派な志なんかを抱いていたわけでもなく、ただ流されるように生徒会に入った僕のことを、彼女は強いと言った。自らの意思で拓いたのではない境遇で生き抜くことは、自ら拓いた境遇を生きるより遥かに困難だと言った。彼女は、人の良いところを見出す能力に長けていた。さらに言うなら、当の本人さえも気付いていないような、盲点的な長所を言葉にすることが得意だった。
自分を客観視するという習慣が皆無だった僕にとって、そういった彼女の感性は何もかもが新鮮で、衝撃的だった。他者を見て、感動し、伝えることのできる人間になりたいと思った。そんな憧れとも、尊敬とも、畏怖とも取れる彼女への眼差しは、次第に純粋な好意へと変わっていった。

「名倉さんと話していると、物凄く落ち着くんだ。言葉に迷いがないっていうか、絶対的な存在が、半歩先から導いてくれるように錯覚する。君みたいに上手くは言えないけれど、その、いつもありがとう。僕なんかと一緒にいてくれて」

「筒井君は優しいね」

名倉さんは少し困ったように、僕に言った。僕が次に言う言葉を待つように、ほんの少しの間を開けた後、彼女はまた話し始めた。

「ありがとうはね、筒井君。私の方なんだよ。君は、私に欠けているものを数えきれないくらい持っている。言葉に関してもそう。君の話す言葉は、いつだって、相手を気遣っているよね。嫌な言い方をすれば、歯切れが悪いともいえるんだけど、君のそういう手探りみたいな話し方は、いつだって私を安心させてくれる。云い澱まない、強い言葉っていうのは、説得力とか、信憑性とかを孕むと同時に、相手を深く傷付ける危険性も秘めている。君のそんな歯切れの悪さに、私はいつも救われてきたよ。大事に、されているんだなって思った」

「いや、そんな」

僕も、彼女も、黙ってしまった。日が暮れ始めた。
夕陽に照らされた名倉さんの横顔は、いろんな表情に見えた。照れているようにも、泣いているようにも、苦しんでいるようにも。
これまで、真剣に恋愛と向き合った経験はなかったけれど、人を好きになった今だからこそ、この人の何もかもを、理解したいと思った。
好きだから嫌いだとか、共感はできないけど理解はできるとか、大切だからこそ壊してしまいたいだとか、悲しいからこそ嬉しいだとか、そういった二律背反的な感情を、このとき僕は初めて知った。

「結局、無いものねだりなんだよね」

そう言うと、名倉さんは僕に背を向け立ち去った。この人とずっと一緒に居られたら、どれほど幸せだろうと思った。名倉さんの思い描く未来に、果たして、僕は居るのだろうか。

『それでは、第4走者筒井君の挑戦です!レディ〜ッ!』

ファイッ!の掛け声とともに、教頭先生は足を縺れさせ濃硫酸の中へ落ちていった。僕の走りを実況する人は、もういなかった。

名倉さんのチョコが吊るしてあるレーンの推定速度は時速25キロだった。気を抜けば、すぐに落下する速度だ。一般的な短距離走と比較しても、25メートルというのは桁違いに短い。この距離を、どれだけ最速で走り抜けるかという勝負だ。モタモタしていたら体力が持たない。

「筒井君、頑張って!」

僕がレーンに足をかけた瞬間だった。向かい側のゴールに、名倉さんがいた。劇薬のミストで目を擦りながら、僕へ声援を送っている。

「名倉さん、ここは危ないから、校舎の中へ」

しかし、他人の身を案じている暇など、いまの僕には無いのだった。既に僕の身体はレーンの上へ放り出されており、止まれば死ぬ状態だ。言葉を話すことで消耗する酸素を考えたら、今はとにかく、1秒でも早くゴールへ辿り着かねばならない。

「うおおお」

実際に走ってみて分かったことがあった。レーンの上では、有毒ミストの影響で呼吸がほとんどできない。ゴールまで、ほぼ無呼吸で到達しなければならないのだ。速度が遅かったとはいえ、レーンの上であれだけ執拗に喋り続けた丸尾君のメンタルと肺活量は、実はかなり常軌を逸していたらしい。

ゴールまでの距離は残り10メートル程度。あとほんの僅かな距離で、この生き地獄から生還することができる。

「あと少し、あと少しだよ筒井君。頑張って」

今さらになって、僕は僕という人間を、心底罵ってやりたい気分だった。こんな阿鼻地獄のようなイベントを経なければ、僕は好きな女の子に、想いを伝えることすらできなかったのかと。ああして名倉さんを危険な場所へ引き出してまで、このイベントに参加した意味は、果たしてどれほどあったのだろう。ああそうか。他の男子生徒に、名倉さんのチョコを取られるのが嫌だったのだ。きっとそんなところだと思う。だから結局、僕のこの頑張りも、沸き立った周囲の熱気も、僕のエゴの産物でしかなかったのだろう。

我儘を通したついでというわけではないけれど、僕はこのレースを、絶対に生き残らなければならない。そのときはきっと、名倉さんに僕の想いを告げようと思う。今日散ったすべての命に代えても、絶対に負けられない。

僕はゴールへ向け手を伸ばす。名倉さんのチョコが触れる。

苦しさから逃れるように、僕はレーンから足を離した。安全地帯へ飛び移り、自身の生還を肌で感じた。右手には、名倉さんのチョコが掴まれている。幸いにも、チョコに劣化や破損は見られなかった。

その場へ横たわり安堵する僕に、名倉さんが駆け寄った。頰は涙で濡れている。「本当によかった……本当に」僕はミストで喉がやられたせいか、満足に話すことができなかった。彼女の涙が、僕の顔へ落ちた。その時だった。

校舎2階の窓から、丸尾君の顔写真が貼られたデカい棺桶が、プール目掛けて落ちてきた。近藤ちゃんが投げ飛ばしたであろうその棺桶は、見事濃硫酸の海へと着弾し、盛大な飛沫をつくった。

「名倉さん!危ない!」

僕は飛沫から名倉さんを守るように、彼女へ覆い被さった。無情にも濃硫酸の飛沫は僕へと被弾し、僕の右腕は焼け落ちて消えた。

【6】

あれから3年の月日が経った。

僕はというと、その後名倉さんからの熱烈なアプローチの末交際に至り、現在では半同棲生活を送っている。
後から知ったことなのだけど、名倉さんは、欠落のある人間しか愛すことができない気質らしかった。その証拠に、彼女から見て満ち足りていた頃の僕に対しては、好意を抱きこそすれ恋愛感情に発展することはなかったのだという。

だから右腕を欠損するというハンディキャップを背負った僕は、図らずも彼女から愛されるに足る資格を得たとのことだった。僕の欠けた右腕が、彼女の欠けていた心を塞いだのだ。彼女の心に惹かれた僕にとっては、それはこの上ない幸せだった。

彼女は今でも、時折僕の欠損部位を見つめては、愛おしそうに微笑んでいる。ゾッとしない話だが、今のこの現状を、僕はそれほど悲観していない。

彼女の未来に僕が居る。その事実だけで僕は満足だ。




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