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天気予報

 みなさんは天気予報を見るだろうか。私は見る。普通に見る。しかしどうして天気予報を見てしまうのかは分からない。

 天気に左右される職業なのであれば天気予報を見るのは分かる。けれど私はそうではない。天気予報を見るのが趣味なのであれば欠かさず見るのも当然だろう。だが私にはそんな趣味はない。大して興味もないのにこんなにも気にして見るものは天気予報の他にあるだろうか。

 今日は暑くなるみたいですね、みたいな話の切っ掛けとして知っておいた方が良いというのはある。
 その日の服装や持ち物、履物を決めるにも天気を知っておいた方が良い面は確かにある。
 とはいえ天気以外の共通話題は何かあるだろうし、外出途中で雨に振られたからと言ってそんなに困ることもない。
 だったら極論を言えば天気予報など気にしなくても良いはずだ。スマホから今すぐ天気予報アプリを削除してしまっても良いはずだ。それが何故か出来無い。食事をするのをやめるとかトイレに行くのをやめるくらいに天気予報を見るのをやめるのは無理だ。

 自然のカラクリを突き止めるのが科学だとして、人類は科学によってこれまでに多くのことを成し遂げてきた。自然の仕組みや謎の多くは科学的に説明が付くようになってきた。
 しかしこれは庶民的な感覚論の話か、人類が偉大であると思い込みたい私たちの思い込みに過ぎなかったりする。
 ものすごく単純化したモデルにおいては、科学はかなりの精度で機能するようにはなったが、実際の自然と対峙すると、その無力さを思い知ることになる。

 自然に対して無力な科学のうちで、天気予報は比較的機能している部類である事には違いない。特に未来を予知するという分野で言えば他に類を見ないだろう。
 もし天気予報が全く当てにならないものだったら誰も天気予報など見るはずもない。だから、天気予報はそこそこ当たるとみんなが思っているということになる。
 しかし敢えて言えば、天気予報が当たるというのは私たちの錯覚なのだ。例えて言えば天気予報は占いに近い。占いが当たるのは、当て嵌まる可能性が高いことを占い師が言うからであって、知らないはずのあなたの行動が見えたり未来が見えたりする訳では無い。要するに確率の問題なのだ。

 いつの頃からか、降水確率という言葉が天気予報で使われるようになった。降水確率●パーセントというのは、今日と同じ条件が100回あったとしたら●回はポツンと来るということ。ポツンと来ると言ったのは、降水確率で対象にしているのは時間あたり1mmの降水だから、濡れるような雨ではない。

 確率というのはかなり紛らわしい概念で、本来は未来の予測に使うものではない。例えばサイコロを振って六の目が出る確率は六分の一、つまり16パーセントですと言われるが、六回振ったら一回は六の目が必ず出るということではない。
 だから、次にあなたが振った時に出る目を予測することは出来無い。確率的に分かるだけだ。

 日本の天気の場合、西から東に向かって空気が動いているから、今日九州地方で雨なら明日までの間に中国四国地方で雨が降る確率は高くなる。昔の人が夕焼けなら次の日は晴れだと言ったのはこれと同じ原理だ。
 
 占いが当たるのは確率論に過ぎないが、よく当たると言われる占い師の言う事はきっと気になるだろう。天気予報をうっかり見てしまうのは、それと同じことなの知れない。
 ところで、今日も蒸し暑くなるのだろうか、天気予報を見てみるとするか。

おわり

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