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ノンアルのある日

 ポリープを摘み出したので暫く禁酒ですと言われた大腸検査後、毎晩のビール(に似た飲み物)を諦めざるをえなくなった。
 駄目と言われると逆に飲みたくなるのが人情なのだが、流石にまずいだろうと思って言いつけを守ることにした。こうなると飲みたい気持ちとの戦いだ。
 飲むことが習慣化していなければ別に何ということも無いのだろうが、毎日陽が沈む頃になると冷蔵庫に向かうのが日課になっていた私には苦痛でしかない。我慢することはどうしてこうも辛いのか、その遺伝子をつくった神様だか祖先だかを恨む気にもなる。
 それでも我慢し切れずにコンビニに向かい、冷蔵ケースの前に立った私は、ビールに向かおうとする右手を左手で遮って何とかノンアルコールビールを手にしたのだった。

 食べたいけれど食べられない。飲みたいけれど飲めない。遊びたいけど遊べない。勉強したいけど出来ない(最後のは違うか)。
 ただ単にやりたいけど出来ないのと我慢とは少し違う気がする。物理的には出来ないことではないけれど、他人の言いつけや自分の決めによって出来ないことになっている事。ちょっとした怪我などで物理的に出来ない事。病気などを理由に禁じられている事。我慢が強いられるのは強いられざるをえない何かの要因がある場合だ。
 その要因の拘束力が弱いほど我慢強度は強くなる。骨折していてサッカーが出来ないことよりも、勉強をしなければならない時間だからサッカーが出来ないという方が我慢感が強い。

     *

 生きていると我慢の連続ということが多いが、人はだんだん慣らされていく。小学生の頃、朝から机の前に座ってじっと人の話を聞かされたりするのは、我慢の練習に他ならない。
 スーパーのお菓子売り場に玩具付きのお菓子が並べられているのも、店頭に可愛いお洋服が陳列されているのも、冷蔵ケースの中にこれ見よがしに美味しそうなケーキが並べられているのも、みんな我慢の練習だ。
 友達が持っている良さげな玩具も、周囲の人が持ち合わせる身体的な才能も知能も、みんな我慢の練習だ。
 
 大人になればさらに、モラルや常識といった社会規範が我慢を強いてくるから、幼いうちに十分に慣れておく必要があるというわけだ。我慢せずに自由にしていてなお社会で生きられるとしたら、余りある特殊な才能があるか、世間知らずかのどちらかだろう。どちらにせよ社会からはみ出すことになる。運良くはみ出すことが出来た人は自由を謳歌できるというわけだ。
 我慢することでストレスが貯まるのだとしたら、はみ出したとしてもその方がいい場合があるし、本来的には画一的な型にはまる人なんていない。でもそうはいかないのが実情だろう。

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 人に迷惑を掛けないというポイントは外さないようにしつつ、過度な我慢をせずに伸び伸びと生きられる社会に生きた方が各自の能力を発揮できるに違いない。もっともこの複雑な世では、何をしてもどこかで人の世話にはならざるをえないのだから、謙虚に自由を満喫出来る心持ちに憧れるのである。
 というわけで、今日もノンアルの缶をあおって酔った振りをする。少しこの飲み物にも慣れてきた。なんて、そんなわけない。

おわり


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