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岐路に立つ介護支援専門員 業務範囲の明確化で「愛されぬ専門職」になる懸念も=高野龍昭・・・という記事の紹介です。

先月、厚生労働省に「ケアマネジメントに係る諸課題に関する検討会」が新設されました。この検討会は「ケアマネジメントの質の向上や人材確保に向けた制度的・実務的な論点について包括的に検討を行う」ことを目的としており、「ケアマネジャーの業務の在り方」なども議論されることになっています

ここでの議論は、おそらく次の介護保険制度改正(2027年度施行)に直接的な影響を及ぼすはずです。1997年に成立した介護保険法によって資格制度化された介護支援専門員の位置付け・業務内容が、30年目にして大きな変貌を遂げる可能性があると言ってよいでしょう。

しかし、私は、この検討会での議論、あるいは実践現場の介護支援専門員の意向・意見の内容次第では、介護支援専門員が「愛されぬ専門職」となってしまうのではないかという危惧を抱いています。

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ケアマネのシャドーワークなど業務の範囲を整理する検討会が定期的に行われる事になっていて、そこでの議論の結果によって今後のケアマネの業務範囲について明確な区分けがされそうな感じなんですけど、僕自身が不勉強だったので『愛されぬ専門職』という言葉は初耳でした。

この記事を読んで、そもそもなんだけど、ケアマネジャーってソーシャルワーカーの位置づけでいいんだっけ?介護保険の手続きの代行屋さんだっけ?・・・と、シャドウワークがどうのこうのという議論が巻き起こっている時点でちょっとよくわからなくなってきてしまいました。

過去には、ケアマネさんから自分は介護職じゃなくて事務職です、とまで言われた経験があるので、ケアマネの専門性という物については、この検討会議でしっかりと議論されて、ケアマネの専門性とはこうだ、だからケアマネの業務範囲はこうだ、と明確に打ち出してもらいたいなぁと思いました。

「愛されぬ専門職」という言葉はソーシャルワークの歴史を勉強する時に誰もが必ず学ぶもので、社会福祉士・精神保健福祉士であれば知らない人はいないでしょう。

1960年代から70年代の米国で、ソーシャルワークに対する批判が繰り広げられ、その中で指摘されたキーワードのひとつです。

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いやぁ、僕は初耳だったので勉強になりました。
ただ、ソーシャルワークの歴史を学ぶ際には必ず学ぶという事であれば、ケアマネの研修でも出てくるキーワードなんだろうか・・・と思いましたが実際はどうなんでしょうか。

いまから60年ほど前に指摘されたキーワードのようです。

アメリカと日本を比較した際に、アメリカで起こった事が50年遅れで日本でも起こる、というような話を昔聞いたことがあるので、そういうタイミングとも合致しますね。

その時期の米国の多くのソーシャルワーカーは、心理療法的な相談面接に傾倒し、神経症やうつ状態などの治療的な技術を専門性の拠り所とし、報酬・対価を得ていました。

それによってソーシャルワーカーの社会的評価は向上した一方、その専門分野以外の業務、例えばクライエントが失職して生活困窮にあえぎながら暮らしている生活環境に目を向けること、スラム街に住まざるを得ない環境を軽減するための社会福祉施策・住宅政策、篤志家による慈善事業や市民の自発的な支援活動に結びつけることなど、ソーシャルワーク本来の業務を怠るようになっていました。

その結果、クライエントの抱える生活困窮の問題や劣悪な生活環境は一向に改善しない、といったケースが散見されるようになっていたのです。

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本人を取り巻く環境なども含めて個別に検討・対応するのが基本で、根本的な改善やQOLの向上を考えた時に、それは必然だとは思うのですが、対処療法的な感じの対応がもてはやされて本質的な評価がされてなかった状態で、結局専門性が発揮されていないという状況だったようですね。

ソーシャルワーク本来の業務を怠るようになっていました。

こういう状態がアメリカでは60年前に起こっていて、おそらく今の日本がそのような状況と似たような状況にあるという事なんだろうと思います。

実際、在宅での生活について、家族やケアマネが限界を感じたら、結構あっという間に施設に入所してしまうケースはよく見てきました。本人の同意や納得が得られてのケースは希少と思います。

制度的な限界もあるでしょうし、社会資源の限界もあるでしょうが、そういう足りない部分がある事を表に出して行政と一緒になんとかしていく、地域と一緒になんとかできないか検討したり工夫したりするのがソーシャルワークだと思うのですが・・・実際は、そんな取り組みは難しいですよね。

このことを告発した書籍「ソーシャルワーク~愛されぬ専門職(W.リシャン・A.メンデルスゾーン著)」が1973年に発刊され、この「愛されぬ専門職」というキーワードが、70年代後半以降の米国のソーシャルワーク機能とその専門性の見直しにつながったという歴史があります(註1)。

また、その少し前の時期に、米国のH.パールマンは、貧困にあえいでいる母子世帯に関わったソーシャルワーカーが「(その母親は)心理的にも身体的にも問題はなく、支援の必要性はない」と扱ったケースがあることを嘆き、「ケースワークは死んだ」という論文(註2)を発表しています(1967年)。

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ケースワークは死んだ、というパールマンの事については、以前研修の準備で書いた記事にも出てきました。

1967年:

ケースワークは死んだ(パールマン)

1967年にパールマンが「ケースワークは死んだ」という論文で、ケースワークのあり方を批判しました。当時のケースワークが社会改善を忘れて、個人の心理や感情にばかり注目しており、もっと社会的な視点や責任を持って、人々の生活や環境をよくすることに貢献するべきだと主張しています。

パパゲーノ

なるほど、当時のケースワークが社会改善を忘れいていた部分について批判した内容でした。
ケースワーカーは、もっと社会的な視点や責任をもって人々の生活や環境をよくすることに貢献すべき、という主張で、こういう主張によってケースワークの在り方や専門性が見直されたようです。

歴史的には、社会的な視点をもって生活や環境をよくしていく事に貢献する事こそがケースワーカーの専門性であると言えそうです。

いずれも、米国のこの時期のソーシャルワークが、心理的な領域のみに専門分野を狭め、地域内での生活状況や社会関係などに注目することを専門外の取り組みとする傾向を強めたため、そうした姿勢や業務内容が「愛されぬ」「死んだ」と批判されたことを示しています。

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ソーシャルワーカーが、自らの専門性の領域を狭めた事についての批判のように思いますし、その現象は正に今、日本のケアマネのシャドウワークや業務範囲の議論が行われている状況の中で発生しているのだと思いました。

しかし、既に60年前のアメリカで解決して答えが出ている事について、日本で遅れて議論している状況というのを見ると、歴史から学ぶという事をまったく考えてないのだなぁと思い残念です。
こういうケースワークの流れは知った上でやってると思うと、なんで?と思ってしまいます。

ケアマネジメントの原型であるケースマネージメントが出現したのは1970年代の米国だとされています。偶然にも、ソーシャルワークへの批判が沸き起こった時期・地域と一致していることに、私は関心をもっています。

米国のケースマネージメントは、精神障害者の地域生活・自立的な生活を拡大するため、公立の精神科病院の病床の半分を閉鎖する施策が60年代後半に始まったことに端を発し、発展していきます。

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ケアマネジメントの原型というのがあったのも初耳ですが、上記の引用が本当であれば、いよいよ今の日本で何の議論が起こっているのかわからなくなります。既に解決積みの課題なんじゃないの?・・・と単純に思ってしまいます。

長く入院を続けている精神障害者は家を失っているケースが大半です。家を借りようとしても、地域の住民から疎外されます。そこで、ソーシャルワーカーや地区看護師(日本の保健師と同様の役割をもつ看護職)、作業療法士などがケースマネージャーとなり、自分たちの専門分野外である住宅確保の支援や地域住民との対話を始めます。

そして、住まいが確保できた精神障害者が退院する際には、その地域の中にケースマネージャーの拠点を設置し、そのクライエントの全てのニーズに対応した包括的な支援策をプランニングします(註3)。実際には、医療や社会福祉サービスのプランニングのみならず、クライエントの状況によって、たとえば障害年金や各種補助金の受け取りに向けた金融機関の口座開設も支援します。

また、様々な行政手続きの方法、スーパーの店員とのコミュニケーションの取り方、掃除や洗濯の仕方など、日常生活をうまく送るための具体的生活行為の助言を、専門分野であるかどうか、業務内か業務外かといったことを問わない形で行います。

こうした居住の支援と包括的・学際的な支援を複合的に行うことがクライエントのQOLを高め、社会参加を促し、医療機関への再入院や施設への入所を避けることにつながると分かり、ケースマネージメントがクライエントの世代や属性を問わない有効な支援策と評価されていきます。なによりも、ノーマライゼーションの実現や自立生活の支援にも効果がある唯一無二の支援システムであることが認知されていきます。

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ノーマライゼーションの実現や自立生活の支援にも効果がある唯一無二の支援システムであることが認知されていきます。

これ、資格取得の段階でみんな知っている状態だとしたら、何で自分たちで逆行するような議論をし始めているのかよく分からないですね。

実際には、医療や社会福祉サービスのプランニングのみならず、クライエントの状況によって、たとえば障害年金や各種補助金の受け取りに向けた金融機関の口座開設も支援します。

また、様々な行政手続きの方法、スーパーの店員とのコミュニケーションの取り方、掃除や洗濯の仕方など、日常生活をうまく送るための具体的生活行為の助言を、専門分野であるかどうか、業務内か業務外かといったことを問わない形で行います。

上記引用がノーマライゼーションの実現や自立生活の支援に効果がある事例だとすると、ケアマネがシャドーワークだと事例を挙げている内容が結構含まれているんですよね。

制度的に介護保険という枠でくくってしまっているが話をややこしくしているのかなぁ。

このケースマネージメントが80年代後半に英国へと伝播し、実践と政策的研究が深まります。そして、ケアマネージメントと名称を変え、90年代はじめには全ての基礎自治体で保健・福祉全般の相談支援がこの方法で実施されることになります。これがわが国の介護保険制度に影響を及ぼし、居宅介護支援事業所・介護支援専門員(ケアマネジャー)の業務に取り入れられて今日に至っています。

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こういう流れの中で、日本にもケアマネジャーという制度として入って来たという事を考えると、専門分野であるかどうかとか業務内か業務外とかをいちいち考えている時点で流れから逆行しているし、専門性を退化させているような気がします。

日本のケアマネは、海外のケアマネージメントとは違うんだ、と言われればそれまでですけど、どうも日本人というのは人権意識が低くて平気で人間魚雷や特攻とか考えてやってしまう民族なので、こういう基本的人権に大きく関わるような内容については、海外の歴史や事例から学んでちゃんと取り入れた方がよいと思います。

日本で独自に作り出すと、個人の尊厳より組織とか国とかに忖度して個人の尊厳を軽視するような制度にしかならないような気もしますし、実際、現状の介護や医療の状況を見ても、国の方針が社会保障費用の削減を大きな柱にして掲げていますので、国民の生活や健康よりも、経済や財源が大事なわけで、それって本当はおかしな話なんですけど、日本の国民性でこうなっていると思うんです。だからその辺りの常識が変わらない限りはどうしようもないと思うので、このケアマネの専門性や業務範囲の議論についても、ある意味どうしようもない事なのかもしれません。

私は、前述のようなことに興味をもち、20年ほど前に米国のケースマネージャーの拠点を訪問してインタビュー調査をしたことがあります。

その時に最も印象的だったのは、精神障害者を支援している男性のケースマネージャー(大学院修士課程修了のソーシャルワーカー)が「今、クライエントの家を訪問して、ゴキブリを一緒に退治してきたところだ」と言ったことです。

私が「大変ですね」「でも、なぜそんな支援を?」と尋ねたところ、「クライエントがゴキブリを退治できないと、そのネガティブな出来事が悪い刺激となって、精神症状を悪化させるはずだ」「症状の悪化から入院に至ることを避けるために、一緒にゴキブリを退治したんだ」と胸を張って説明してくれました。

それを聞いた私が「それは事業所のルールなのか?」と尋ねたところ、「ルールではないが、少なくともこの地域のケースマネージャーの全員が当然の仕事だと思っているはず」「そういうことを支援しないと、行政当局や医療機関の、なによりもクライエントの信頼を失ってしまう」と答えてくれました。

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あぁ、これが専門家だなぁと思いました。
ゴキブリを退治できる事がすごいのではなくて、ルールではないがゴキブリを退治できない事のより悪影響をしっかり考えた上で本人の精神症状を悪化させない対策としてゴキブリ退治をした、という説明が出来る事が素晴らしいと思いました。
この対応により、ゴキブリを退治せずに放置して症状が悪化してしまい入院してしまった場合の医療費の削減にも貢献しています。

そして、こういう対応をするのが当たり前だ、と胸を張れる事も素晴らしいですね。

日本だとどうだろう・・・こういう対応したとして、おそらくですけど地域ケア会議とか職場の会議とかで怒られたり否定されたりするんだろうなぁ・・・なんて思いますし、そもそもこういう対応をした事を表に出せないような雰囲気があるようにも感じています。

別の女性のケースマネージャーは、クライエントが友人と外出する際、着ていく洋服に迷っていると相談があり、それに応じたと言います。その理由は「迷っている間に友人が迎えに来るようなことになると、その失敗経験が精神症状を間違いなく悪化させるから」と答えていました。

こうした生活上の全てのニーズに応えようとする相談支援の方法は、今日の「伴走型支援」と言ってよいのだと思います。

JOINT

本人に失敗経験をさせない、という取り組みや支援は本当に素晴らしいと思います。
実際、そういう経験から精神状態が悪くなっていく方は多く、結局介護保険ではそれは出来ない、という対応が、そういう失敗の経験を生み出してしまって、結果として要介護状態を悪化させている状況を生んでいる可能性があるわけで、そういう事もちゃんと考えるべきだと思いますし、やはり現状の日本で行われているソーシャルワークというのは、60年前のアメリカで行われていた事と同じような状況になっているような気もします。

最近のわが国では、ケアマネジャーの業務の在り方をめぐって、各地の介護支援専門員や学識者の意見、要望として次のようなものがみられます。

◯ ケアマネジャーの報酬は給付管理業務とケアプラン作成によって発生するのだから、それに関連しない業務は全て業務外とすべき。

◯ 介護保険の関係法令や運営基準に記していない業務を、ケアマネジャーに頼まれる筋合いはない。

◯ 利用者の家族が若年の障害者である場合、ケアマネジャーはその障害者の支援についての知識もないし、対応はできない。

◯ 訴えの多い利用者について、月1回のモニタリングの訪問時以外に相談するのは「シャドウ・ワーク」だからやらなくて良いと思う。

いずれも筋の通った発言だと思います。こうした発言に影響を受けながら、検討会での議論が進むのかも知れません。

ただ、そうして「業務内」「業務外」、「専門分野の中の業務」「専門分野の外の業務」、あるいは「やるべき業務」「シャドウ・ワーク」といった形で、ケアマネジャーの業務がクリア・カットに仕分けられるのだとしたら、私の懸念は一層大きくなります。

前述した通り、米国の70年代前後のソーシャルワークは、ソーシャルワーカーが自分たちの専門分野を狭め、地域に出ることを止め、報酬の直接的対象であるとともに専門性の評価を高く受ける「相談室の中だけの相談」に終始した結果、クライエントに不利益を発生させ、社会的評価を下げ、「愛されぬ専門職」「死んだ」と批判されたのです。

JOINT

本当に60年前に起こっていた事を日本でも繰り返すような形になっていきそうですね。自らの専門性を制限してしまうというのは、ソーシャルワークの専門家としては致命的な気もします。
社会的評価が下がるという事は、資格そのものの価値を下げる事にも繋がるんですよね。

今般の新たな検討会での議論が、各地の介護支援専門員の意見に沿う形で進み、介護支援専門員の業務が無機質に「専門分野」「専門外の分野」と切り分けられることになるのであれば、米国の70年代のソーシャルワーカーと同じように、わが国の介護支援専門員は「愛されぬ専門職」となっていくのではないでしょうか。

そうしたケアマネジメントは、もはやケアマネジメントではなく、対人援助サービスでもなく、単なる「介護保険の利用手続き代行業」となるでしょう。

JOINT

これ、僕も同感なんですけど、実際にケアマネの中には手続き代行業だと思っていそうな人もいるような気がしてて(ほとんどのケアマネさんはそうじゃなくて、SNSでいろんな不平不満や文句を発信している一部の方の内容を見ているとそう感じます)、ケアマネの更新研修とかが作られた意味についても、単なる代行業じゃないんだよ、というメッセージが含まれているのであれば、既に社会的な評価が下がっていたので、ちゃんとソーシャルワークの専門家として一定基準以上の知識や専門性を身に着けてもらうために必要な位置づけであったとすると、その研修のボリュームやいろいろな課題は別の問題として、歴史を繰り返さない為の対策だったのかなぁと前向きな評価も出来そうだなぁと思いました。

そうではなく、米国のケースマネージャーのように、ゴキブリの退治をクライエントと一緒に行い、外出時の洋服を一緒に選ぶような「専門外の業務」「シャドウ・ワーク」を含めた業務が、ケアマネジャーの「専門的な業務」であると包括的に評価されるための検討が必要です。

そのうえで、私は、そこになんらかの社会保障制度の財源から適切な報酬が支払われるような仕組みが検討されることが必要なのだと考えています。

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これからシャドーワークについて色々議論されて明文化されるとは思いますけど、そこが明暗の分かれどころかな、と思います。

僕個人としては、上記引用のように柔軟に本人に必要な支援を必要なタイミングで対応できて、その根拠と効果が説明できる専門職がいいですね。
ソーシャルワークとは、やはりそういうもんだと思います。

あとは国や厚労省の姿勢の問題ですけど、その辺りは様々な意識改革や政治が絡んでくるので簡単には行かないでしょうが、こういう意見を発信していく事は重要と思います。

特に人手不足が確実ですので、業務過多で余裕がなければ対応にも余裕が持てませんので、そのあたりの改革は必須だと思います。

本来のソーシャルワークが出来る業務上の余裕を今のうちに作っておかないと、もうどうにもならないと思いました。



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