【SS】君がいいねと言ったから

「ぶっちゃけ、身体に悪いものが好きなんですよね」

 目の前の渡辺暁美がそんなことを言った。言った、というよりは唇からこぼれたというのが正しいかもしれない。誰にも聞かせるつもりでなさそうなその声は、居酒屋の乱暴な喧騒にかき消されそうになりながらも、しっかりと耳に届いた。

「何それ」
「身体に悪いんだろうな、って思いながら食べるのが幸せなんです」
 答えになっているような、いないような。
 優希が首を傾げていると、ほら、分からないでしょう、という様に口元が楽しげに歪められた。

 巴優希は、暁美とは会社の先輩と後輩という関係だった。
 同じ部署だが、特に親密というわけでもなく、必要なことを必要なだけやりとりするような交わす言葉が少ない、世間話も2ラリーぐらいで終わる、そんな関係だった。
 それは、優希にだけ、というわけではなく、誰にでもその様な態度だったので、少しだけ浮いていたが、仕事はそこそこにできていたので「あの子ちょっと変わってるねー」ぐらいのものだった。
 時折見る昼食は用意された小さなサラダ。健康に気を遣っているか、ダイエットなのだろう。叩けば折れてしまいそうなぐらいなのに、する必要はあるのか、いや余計なお世話だ、そんなことより最近増えた自分の体重をどうにかしなければならない。見習って、しばらくサラダ生活でもしようかな、と一人結論づけた。
 彼女は、いつも着ているカーディガンにすっぽり収まるぐらいの身体が小さい。まるで小動物のようだ。

 そんな関係が変わったのはある日のことだった。
 ある日の、昼食。部署の全員が二人以外全員出払っていた。
 暁美はいつも通りサラダの昼食を食べていて、優希は午前中にしでかした自分のミスの尻拭いをしていて、ようやくそれが終わったタイミングだった。

「今日、飲みに行きましょう」
「え、」
「だから、定時で仕事終わってください」

 これは、誘われているのだろう、と分かるのにしばし時間を要した。だって、目線が合わなくて、彼女はサラダばかりを見つめていたから。
 他の誰かに言っているのかとも思ったけれど、ここには二人しかいないから、間違いなく優希に向けて言っている。
 それにしても、なぜ断る余地がないのだろう、と思わず笑ってしまった。

「定時で終わるようにするね」
「はい」

 そこで、ようやく彼女の流した視線と目が合った。
 ふ、と笑いかけると、さっと逸らされた。

「何か食べたいものある?」
 予約しておくけど、という。きっと野菜とかワインが美味しいイタリアンバルなんかが彼女の好みだろう。けれど、いうほどお店の引き出しがない。まあ、食べ⚫︎グで調べればなんとかなるか、とぼんやり考えていたら「気になっている店があるんです」とのことだった。
 思い切り気の抜けた格好をしてきたけれど、大丈夫だろうか、と、部署のうちの一人が帰ってきたのをきっかけに自然に会話は途切れた。
 昼食を食べそびれながら、午後の残りの仕事を定時までに片付けた。

***

 行きましょう、とさらりと言われて、伴ってフロアを出たが、特に注目されることもなかった。
 気になっている店ってどんなところ? と聞くタイミングを完全に逃して、後ろについていく。とてもじゃないけれど、どういう意図で彼女が自分を誘ったのか分からなかった。
 誘われた時は、ミスをしたところを見られていたから珍しく励ましてくれるのかと思ったけれどそうでもないんじゃないか、でも、だったらじゃあ何を考えているのかといえば分からないままだった。

「ここです」
 そう言われて入ったところは、おしゃれで有機野菜やワインが美味しそうなイタリアンバルなんかじゃなく、街のどこにでもある大衆居酒屋だった。
 ようやく、あぁ、なるほど、と納得が行った。きっと彼女は誰でも良かったからこういう場所に伴ってくれる人が欲しかったのだろう。
 店員に案内されて、着席すると同時に彼女はメニューを見て「ビールでいいですか?」と聞いてから、ビールといくつかのメニューを注文した。
 フライドポテトBBQソースチーズ乗せ、串もり、カマンベールチーズ揚げ、唐揚げ、その他諸々。その中には、野菜のやの字もなかった。

「意外。野菜は?」
「巴さんが頼みたいなら何か食べます?」
「あぁ、いや。私、野菜あんまり好きじゃないんだよね」

 そう。見習ってサラダ生活をしようと思ったことはあるものの、昔、お腹を下したことが結構なトラウマになっていて基本的には生野菜を食べられないのだ。

「知ってます」
「言ったっけ」
「だいぶ前に」
「よく覚えてたね」

 仕事のことを途切れがちにぼんやり話していた。とりあえず、のものはないので、はじめの料理が出てくるまで少し時間が掛かったものの、出始めるとすぐに机の上は埋まった。
 揚げ物の良い匂いと一緒に、経験則からくる「身体に悪いんだろうなぁ」という背徳感が喉奥から食欲と共に迫り上がってくる。
 いただきます、と颯爽と暁美は串もりの串を手に取って、分けることなく齧り付いた。ぼんじりだった。
 呆気に取られながら、焼き鳥や焼き豚を分けるのは大変だから、いいんだけど、いや、全然いんだけど、と慄いた。

「はぁ、美味しい」
 じゃあ私も、とつくねを丸かぶりする。やっぱり串についているものはそのまま食べるのが一番だ、としみじみ思いながら、軟骨のコリコリとした歯触りを味わっていると、彼女は食べるが早いか、次々と箸をつけていった。
 細い体のどこにそれらが入っていくのか。見ていて気持ちがいいぐらいだった。

「身体に悪いのが好きだったら、なんでいつもサラダなの?」
「貯金です」
「貯金?」
 なんで急にお金の話、と思っていたら、カロリーの話だったらしい。いつもは少食で、ここぞという時にガッツリ食べるらしい。

「会社の人とかともいくの?」
「行きません。でも、巴さんはそういうの気にしなさそうなので」
 気にしなさそうって。他人が何を食べてようがあんまり気にしないけれど。どうだっていいし。
「励ましてくれてるのかと思った。ほら、今日、私ミスしてたから」
「それもあります」

 それもあるって、とその淡々とした言い方に思わず笑ってしまった。ついでかよ、と思わず突っ込むと、そうですね、と今度は小さく笑って答えられた。

「38回」
「なんの数字、それ」
 途切れたビールの代わりに何か頼むか、と言われて、もう一回生ビールを頼むことにした。揚げ物と言ったらビールだろう。身体に悪いけれど。でも、今日はとことん身体に悪い日でいいのだ。
 一緒にエビマヨネーズが頼まれる様も見届けて、で? と顎をしゃくる。

「ミスが発覚したあと、巴さんがついたため息の数です」
「数えてるとか暇か」
「いや、明らかに構ってほしそうにしてるからですよ」
「そう?」

 そんなことないでしょ、と酔いも手伝って、笑いが止まらなかった。何か会話が弾んでいるわけでもないのに、ずっと楽しい気持ちがふわふわと足の裏から全身に伝って上気していく様だった。

「そっか。それにしてもよく食べるねぇ」
「ヨーロッパの方って、主食の文化がないって知ってますか?」

 唐突な話題の転換に、目を瞬かせた。暁美も酔っているのかもしれない。知らない、と首を横に振る。

「小麦って稲より収穫倍率が驚くほど低いし、連作障害を起こしやすいんですよ。要するに、麦が主食になる程収穫できない」
「へえ。じゃあ米ってすごいんだ」
「そうですね。でも、欧州の乾燥した環境では稲作は適していない。だから、畜産の方に力を入れて、肉食文化が発達したんですよ」
 なるほどなぁ、と頷いてしばらくその話を聞いて、どこに着地するのか耳を傾けていたが、結局どこにも着地しなかった。不時着だ。

「え、で、結局。なんの話?」
「え、お肉って美味しいですねーっていう話ですよ」
「え、それだけ?」
「え、それだけですよ」

 酔っ払いの話に意味なんて求めないでください、と言いながら、お酒のメニューとおすすめメニューを起用に同時に見ていた。まだ食べるらしい。
 大学の時の専攻を聞いたら、全く結びつかない話だった。単純にそういう本を読んで面白かった、ということらしい。要するに、蘊蓄を傾けていたとのことだ。
 なんでこのタイミングで、私相手に、と優希はその唐突さに思わず吹き出した。

「意味わからなくて、面白いなぁ」
「じゃあ、また付き合ってください」
「そりゃあ、もちろん」
 優希は、はっと目を瞠った。お酒でふやけた笑顔がそこにはフニャりと浮かび上がった。
 それは初めてのことで、それだけで、今日来た甲斐があるものだし、また見たいと思わせるには十分過ぎるほどだった。



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