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ペットを飼う人の終活


こんにちは、都知事です。

2022年11月27日、16年前に我が家へ来てくれた保護猫のタケル君(タケちゃん)が旅立ちました。

11月27日は私の妹の誕生日であり、タケちゃんの命日でもある、そんな特別な日です。

あれから1年、悲しみにはこんなにも底の底があるのか、と驚愕する程に悲しみに呑まれた私ですが、時が経ち、他の猫達も寄り添ってくれて、ようやく平穏を取り戻し、タケちゃんの死を受け入れられたのではないかと思っています。

当時、私は心の拠り所がなく、「ペットロス」「グリーフケア」などで調べ、「具体的にどうすれば胸を引き裂くような悲しみから逃れられるか」を模索しました。

しかし、答えはありませんでした。
考えてみれば当たり前かもしれません。
ペットとの暮らしはそれぞれ違いますし、どれ程の存在であったか、どんな境遇だったかは当人達にしかわかりません。

たとえ同じペットロスの境遇だったとして、他人の口出しが安易にできるような時間ではないのです。

しかし、それでも書くことに決めました。

最近見たのはこちらの動画。
https://youtu.be/7kBFhlSfOFg?si=d-VuwjX7JR0WpAzy

この動画をきっかけに、ペットロスからの立ち直り方を書いていきたいと思い、筆を取りました。

それでは、お話して参ります。

また、よろしければこちらも併せてご覧頂けますとより理解が深まると思います。

実家の猫が死にました

https://note.com/tochiji/n/n3bd2ad0dbf83




①訃報~通夜
ペットとの別れは突然訪れます。
家族からの連絡、自分で発見するかの違いはあるでしょうが、突然の死に感情が麻痺してしまい、その時は何ともないような感覚かもしれません。

この時、無理に悲しもうとしなくていいと思います。私は実際、タケちゃんが死んだ、もう会えない、あんなにふわふわで温かかった身体がなんて冷たい、というショックはありましたが、微細なもので、それよりも我が家に来てくれたこと、幼かった私と共に15年も過ごしてくれたこと、世話をしてくれた父や母、タケちゃんの死を大泣きしながら悲しんでくれている妹への感謝が大きく占めていました。

私は日頃からよく猫の写真や動画を撮影していたので、この時も永眠したタケちゃんの穏やかな姿を写真に納めました。

【ポイント】
家族との別れは人それぞれ。ご遺体を撮影するのは死者に対して失礼だとか、他の人の目や常識を持ち出す必要はありません。

思うまま、思うように接してあげることで悔いのないお別れが出来、後の後悔を軽減してくれます。

その後、私は2時間ほど冷たくなったタケちゃんを撫で、声をかけ、いつものように名前を呼び、手を握りながら家族と思い出話をしました。

②本葬

私は翌日仕事だった為、たまたま有休を取っていた妹にタケちゃんの火葬を頼む事にしました。

これには絶縁した元姉も付き添ってくれる事になり、心のどこかで安堵しました。

元姉も、同じく血を分けた姉弟であり、家を出るまではタケちゃんと共に過ごした家族の一員でした。

人間の都合で元姉から引き離され、タケちゃんを初めとする猫達は、もしかしたら悲しい思いをしていたかもしれません。

そう考えると、少し胸が締め付けられるような気もしますが、元姉がタケちゃんの最期に立ち会えた事は不幸中の幸いではないかと感じます。

私はと言うと、仕事と言いつつ、突然襲ってくる悲しみに完全に心を打ち砕かれ、現場を離れ、封鎖されたバス停のベンチに座って泣いていました。

悲しい、寂しい、悲しい悲しい悲しい。

筆舌に尽くし難いとはこの事か、もう立っていられない程に心が苦しい。胸が痛い。
泣きたくないのに、涙が溢れて自分の意思では止められない。

昨日はこんなことなかったのに、朝起きて、昨日の事が夢じゃないと理解して泣いて、本当は最後まで見送りたかったのにそれが出来ない自分が情けなくて、また泣きました。

「家族の死より仕事を優先した」と言えば聞こえは良いでしょうが、これほど愚かな選択はありません。

私はひたすら過去の写真を眺め、元気だった頃のタケちゃんの姿を見ては涙を流していました。

【ポイント】
死後の悲しみは生前の頃の記憶と記録でしか慰める事は出来ません。
悲しみは濁流のように激しく、止めることは出来ずに飲まれ続け、とにかく悲しみの底へ辿り着くまで止まることはありません。

可能であるなら、後々に思い出せるようにその気持ちを日記に付けておくと良いでしょう。

ペットの死は悲しいものですが、後で読み返す事で気持ちの整理が付き、その子が命をもって教えてくれたことはなんだったのか、気付きやすくなります。

③帰宅
仕事終わりに実家へ戻ると、仏壇に大きな骨壷が置いてありました。

母は「妹ちゃんが大きな骨壷持って帰って来て、それを仏壇にどーんと置いたんよ。で、元々置いてあった爺ちゃんとめぐ(亡くなった長女)を畳に置いてるもんやから、もうびっくりしてなぁ(笑)」と、妹ちゃんの可愛らしいエピソードを語ってくれました。

私はiPhoneのデータからタケちゃんの写真をプリントし、遺影として母に渡しました。
父にも、元気だった頃のタケちゃんを思い出せるように写真を渡しました。

父は「あいつ、最後は歩くのもしんどかったやろうに、お父さんが呼んだら一生懸命来てくれてなぁ…もう、おらんのやな」と、悲しそうに俯いていました。

【ポイント】
この後はひたすらに激しい喪失感と悲しみが襲って来ます。
可能であるなら仕事を休んで、家族と一緒に過ごしたり、仕事以外に打ち込めることに集中したり、あるいはひたすら悲しみに暮れる事で自分と向き合いましょう。

向き合わなければ、この悲しみは終わりません。

④1週間~2週間
とにかくこの期間は何につけてもタケちゃんを連想し、溢れる涙が制御出来ない期間でした。

葬儀屋さんの看板を見ただけで泣く、銀髪のケモ耳キャラを見ただけで泣く、野良猫を見ただけでタケちゃんと姿が重なり泣く、など、本当に枯れることなく涙が出てきます。

そして、心が少しは落ち着いたのか、確認しようがない悲しみと後悔がひたすらに襲ってきます。

「こんな事なら、もっと頻繁に実家に帰ってやればよかった」
「病気だったのなら病院に自分が連れて行ってやるべきだった」
「母がやってくれる、父がやってくれるという無責任な放任主義が、タケちゃんを死なせてしまった」
「自分はクズだ、家族の為に何もせず、仕事を言い訳に現実から逃げ続けたツケがこれだ」
「タケちゃんを死なせたのは自分だ」

という、強い自責の念。
そして

「タケちゃんはうちに来て良かったんだろうか」
「幸せに暮らせたんだろうか」
「そういえば、タケちゃんに気付かず椅子を浮かせて、踏んでしまった事があったっけ」
「必死に謝ってたら自分から寄ってきてくれて、手を舐めてくれたっけ」
「誰よりもわんぱくで元気で喧嘩も強いけど、誰よりも優しくて人思いな猫だった」

「こんなに悲しい、つらい、苦しい思いをするくらいなら、出会わなければ良かった」

…でも、一緒に暮らせてよかった。
生まれ変わっても、また会いたい。
その時はあの時と変わらない姿で現れて欲しい。

「タケちゃん…」

「会いたいな…」

「寂しいよ…」

⑤1ヶ月後
タケちゃんの死から1ヶ月。
気持ちの整理が少しずつ付き、ちょっとだけ前を向けるようになった頃でした。

私は年末年始も働く予定でしたが、会社に無理を言って休ませてもらい、実家で過ごす事にしました。

「他の子達が旅立つ時に同じ後悔をしたくない」
「少しでも多く時間を過ごしたい」と、ひたすら残された子達と遊び、ご飯をあげ、暖かい布団で一緒に過ごしました。

⑥立ち直り期
それから1ヶ月、2ヶ月と経ち、ようやく日々の平穏が戻ってきました。

心も落ち着き、タケちゃんの死という辛すぎる悲しみを乗り越え、「この悲しみに慣れてしまうのが怖い」という気持ちがありながらも、「きっと罰が済んだから神様が悲しみを持って行ってくれたんだな」と考えるようにしました。

【ポイント】
自責の念は引きずり過ぎてしまうと自分の心を必要以上に傷めてしまいます。
自分を責める事で、どこか心が救われる事もありますが、長引くようならそこから抜け出せるような思考の転換が必要です。

残された人達は今日を生きなくてはなりません。

⑦前を向く
悲しみが癒えたら、これからの生き方にどう組み込んでいくかを考えます。

私は考えました。

「人は後悔せずに生きる事は、恐らく出来ない」
「これからも大切なものを得ては失って、悲しみを抱えながら生きていくのだろう」

「しかし、悲しみを背負っているのは自分だけじゃない」

「多くの人がそれぞれ大切な人や誰かの為に生きている、自分はその人達に何が出来るだろう」

「自分は有難いことに、皆さんに動いて頂く仕事をしている、職場の環境改善によって、少しでも仕事で疲弊するのを防げば、より多くの時間を家族や友人と過ごしてもらう事が出来るんじゃないか」

「仕事なんて頑張らなくてもいい、必死にやって傷つく必要なんてない、それよりも大切な事がある事に、タケちゃんが気付かせてくれた」

私はこのように考え、現在の仕事のスタイルを確立するに至りました。

家族や友人との別れは、「いつか必ず」訪れます。それも突然に。

神様は良い人ばかりを先に呼ぶという事は昔から言われてますから、次に誰が呼ばれるかは分かりません。

だから、私は現場を回す者として、働いて下さる方々の精神が救われ、毎日明るく楽しく、家に帰れば家族に前向きな気持ちで仕事の話を出来るような環境作りを心がけています。

そして、現場では「どうして都知事さんはここまで私達のことを考えてくれるんですか」とか、「他の人が見たら怒るようなことを、なぜ都知事さんは咎めないのですか」とよく聞かれます。

そんな時、私は「実は去年、実家の猫が死にましてね」という話をするのです。

ご高覧いただきありがとうございました。
本編はここまでです。

以下には、書き殴りながら寝かせておいた文章を供養したいと思います。

【下書きのまま残していたもの】

昨年11月末はまだ比較的暖かく、本格的に寒くなる前に旅に出るなんて、やっぱりタケルは賢い子だ、他の兄弟を残して逝ってしまうのは残念だけど、あの子なりの考えもあるのだろう。

言葉を話さないタケルの事を考えて、極楽への旅路が穏やかになるよう祈った一晩。

しかし、分かってはいても寂しい。悲しい。胸が張り裂けそうになる。15年も一緒に居たのです。

「大切な存在は思ってもいないタイミングで突然いなくなってしまう」、私の今の働き方に大きな影響を与えてくれたのが、タケルでした。

私はそれまで、仕事にばかり打ち込み、結果を出したら次の結果へ、より自分が上へ、上へ、と考えていました。思えば、盲目的と言うか、自分に酔っていたのかもしれません。

しかし、タケルの死によって本当に大切な事に気付きました。
気づいた時にはもう失った後。

人とは、こうも後悔なしには生きられないものなのか。時間が巻戻れば…もっとしてやれた事があったんじゃないか…、考えても仕方ない事が浮かんでは消え、浮かんでは自らの心をガリガリと傷め付けます。

「こんなに悲しい、苦しい思いをするくらいなら、出会わなければ良かった」

…でも、一緒に暮らせてよかった。
生まれ変わっても、また会いたい。
その時はあの時と変わらない姿で現れて欲しい。

出会えて良かった。大切な事に命をもって気付かせてくれた。これはタケちゃんの置き土産だ。この考えこそ自分が広めて行くべき人生の道標だ。

それから私は仕事をする際、仕事仲間に今までとはまるで違う方針を打ち出しました。

【焦らない、怒らない、頑張らない】
【余力を残して家に帰ろう】

私は仲間の話をよく聞くようになりました。
家族は元気か、働きたい人の為に働けているか、何より自分を傷付けて無理矢理に働いてはいないか、気の許せる友達との交流は出来ているか。

嫌な仕事を我慢してやっていないか、あるなら自分が代わりにやるから、どうか心を傷つけないようにして下さいと。

そして、上に立つ人への教育では次の事をよくよく言い聞かせています。

隊長は下で支えて動いてくれる人達のおかげで初めて成り立つ役職であるので、驕ってはならない、他者の人格を否定し、傷付け、貶めてはならない。

隊員さんは断れるにも関わらず、自分の現場を選んでくれたのだから、その事に最大限感謝をし、働く環境がより良くなるよう努め、足を使い、気を遣い、誰より多く汗をかきなさい。

また、誰よりも頭を使い、頭痛がするくらい毎日考えて、考えて、考えて指示を出し、動きなさい。また、日々の経験や失敗は記録し、反復し、同じ過ちを犯さないよう研究と努力と改善を繰り返しなさい。

1人に対して連続して90分以上働かせる事はせず、それまでに一度自由な休憩時間を与え、それが叶わぬなら自分が貧乏くじを引くか、現場の自由度を自らの権限と責任の元に引き上げ、隊員達の判断を尊重しなさい。

そんな事を教育として話していますと、「隊長なのにそんな泥臭い事をするんですか」「他の人は下の者に働かせて楽をしているのに」という声が聞こえた時に、私はまた話すのです。

「実は去年、実家の猫が死にましてね」と。

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