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食事は最良のコミュニケーションだ:辺境メシ やばそうだから食べてみた

我々はなぜ料理という面倒なことをするのでしょうか?
もちろん、お肉などを生で食べられるほど私達の消化器官は強い酵素を持っていないからとか、できる限り美味しいものを食べたいから、という答えが出てくるのが当然だと思うのですが、
ただそれらだけではこの問いの答えに辿り着く事はできないと思うのです。
だって、今では料理らしい料理なんてしなくても、カップ麺だったり、手料理と変わらないくらい(なんなら下手な手料理より)美味しい冷凍食品が売られているじゃないですか。
テクノロジーというのはいつでも我々の手間を省くように成長してきましたが、こと料理に関しては、もちろん便利な調理器具なんかは生まれたけど、多少の手間をかけずにいられない。

食料を獲ることすら厭う程にめんどくさがりな人間が、なぜ料理という面倒な事をするのでしょうか?

私が思うに、料理という行為は古代の人々が行った焚火の延長なのです。
人間がまだまだ猿に近かったころ、人は火の扱いを奇跡的に習得し、コミュニケーションを媒介する社会を編成するようになりました。
人は共同で狩りや採取をするうえで言語能力を身に着けたと考えられがちですが、
実は人間のこの特性を生み出したのは狩猟行為よりむしろ火にあったのではないかという議論もあるようでして。

人間は火が扱えるようになったことで、食事を簡易に摂れるようになりました。
焼いた肉と生肉では、同じ量を食べるにしても咀嚼する回数や消化のためにに必要とする時間が異なってきます。
実際、人間が火を使うようになるまでは、食事は睡眠の次に時間をかけて行っていた行為であったらしいです。
対して火を使えるようになった人間は食事に時間を割かなくなったために余暇の時間ができるようになりました。
また固い食べ物を食す必要がなくなったために、顎が小さくなり、同時に脳を大きくするだけの余剰が頭部に生まれたそうです。

こうして人は料理をするようになって、夜の余った時間を会話に割く事が可能になった、というのがこの説の大まかな内容です。

我々はもはや焚火をする必要がなくなりました。
各家庭には電気の明かりが灯り、木や石をこすらなくても赤い肉の色を変えるのに十分な火力を持つことができるようになりました。
火を熾す時間を削減できるようになった変わりに、今度は料理という行為に時間を使うようになりました。
それはただ料理をしないと食べられないからというような結論では済まされない変化だと思います。

古代の人々が火を囲んで会話をしたように、私達は今料理を囲んでコミュニケーションという営みを行っている。
便利になりすぎた世の中で、火を熾すのと同等の時間と労力を必要とする行為が会話という単純な行いに必要なのだと、
我々文明人は自分たちの不器用さを心の奥底で気づいているのだと、私は思うのです。

辺境メシ やばそうだから食べてみた

高野秀行というノンフィクション作家がいます。
彼は海外の辺境地を主戦場とし、様々な土地で現地人と生活した記録を多くの書籍に残してきました。
時には東南アジアの森の奥でアヘンの密造を取材し、時にはアフリカの未承認国家に潜入し、敢えて危険な轍を踏むスタイルはまさに人間の求道者と呼ぶべきでしょうか。

そんな彼の書籍からはいつも現地文化へのリスペクトが感じられます。
現地の人間がしている事に対して、彼は絶対にNOと言わないのです。
現地人と同じように歩き、同じように眠り、同じように食べる。
言語も常に現地の言葉を予習してから向かう。
徹底的にグループに同化する彼だからこそ、彼ら彼女らはインタビュアーではなく、タカノという一人の仲間に対して本音を語るのでしょう。

そんな彼の、時には異常とも思われる、旅先での食事について描いたのが
「辺境メシ やばそうだから食べてみた」です。

この書籍には兎に角数々のゲテモノ料理が現れます。
テレビ番組でやっているような昆虫食なんてカワイイもの。
ゴリラの肉やら、ヤギの吐瀉物スープやら、人の唾液で発酵させた酒やら。
もちろん中には挑戦できそうなものもあるのですが(よくよく考えると日本人は猛毒を持つフグや、ヨーロッパではあまり食べられないタコや、腐った豆を食べる寄食人種なので)、
それでも一部読みながら酸っぱいものがこみあげてくるシーンもありました。

それでもこれらの記述を面白可笑しくも一つの教養書として読めたのは、この高野が最大級のリスペクトを以って彼の口に食事を迎えるからなのでしょう。
彼はどのようなゲテモノ料理であっても、汚い、気持ちが悪い、食べられたものではない、というようなネガティブなワードをほとんど使わない。
それよりも「これを何故食べるのか?」「どんな味がするのか?」「これを食べるのはどのような人たちなのか?」というようなポジティブな疑問をクリアにしていくことが常に先行しているのです。
現地の食に対してポジティブな彼の元には数々の食が訪れ、この出会いが彼と人々を結びつける。
旨そうに食べる彼に、人々は次々とメシやら酒やらを持ってくる。

これから仲良くしたいなと思った人にご飯を作る事になったという状況をイメージしてください。
相手は同性かも異性かも知れませんし、もしかすると日本に来て日が浅い外国人かも知れません。
あなたはきっと最高に美味しいものを作ろうと思うでしょう。
美味しいだけではなくって、相手の好みについて考えたり、自分の事を知ってもらえるような料理にしようと思ったり、はたまた日本文化を体感してもらえるような料理を用意したり。
だからこそ、「美味しい」という一言が出た瞬間に、あなたは安堵して関を切ったように話し出す。

高野が居るのは基本的にその延長線上です。
食べる物や場所こそ違えど、彼は常に食べる事が相手との距離を狭める最良の方法であると知っている。
「美味しい」から始まるコミュニケーション。
食が当たり前になった現代だからこそ、改めて考えなおしたいテーマだと思います。

それではまた今度・・・。

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