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フェミニズムが終わる時 〜 ヴァージニア・ウルフの励まし。


1882年生まれ、イギリスの作家・書評家であるヴァージニア・ウルフの作品を読んだ。狼ではなくてWoolfさん。私にとって初めてのウルフ書である。

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この本は、「女性の文学の歴史と未来への期待を見事に紡ぎ出したフェミニズム批評の古典」と紹介されている。

塩味と言うかスパイシーというか、彼女のキレ味と風味のある言葉で語られる内容からは、「女性解放」がいかに世界各地で、多方向の分野から、そして長い年月をかけて積み上げられてきたという事実がバシバシ伝わってくる。特に第一次世界大戦の終盤の時代における、大きくも小さくも勇敢にそして賢く発せられた女性たちの主張に私は感動した。

ウルフは15世紀の女性の地位の記録にまで遡って解説し、そこからシェークスピアが生きた16世紀のヨーロッパについて、「女性であることの本質」は「男性に扶養され、男性を助けることである」と公言してはばからない時代だったと語っている。

面白い例が紹介されている。しかも架空の例であるところがウルフらしいといったところか。
例えば、シェークスピアの時代に、シェークスピアがやったのと同じように、ある女性が役者になりたいと劇場の裏口のドアを叩いたとする。するとそのドアを開けた男性が、
「女の演技なんてものはプードルのダンスと同じだよ」
と言って彼女を笑いものにする。例えその女性にシェークスピアと同じ才能があったとしても、それは目に止められることも育てられることも、そして花が咲くことなど決してなかった時代だったという。

そうかー、と思う。他にもウルフは聞き入る者の心を打つ指南を随所に入れてくる。

「傑作というのは、それのみで、孤独の中で誕生するものではありません」

シェークスピアの先駆けにマーローがいて、その先に…がいて…全ての女性が心のうちを語る権力を獲得できたのはアフラ・ベーンダラスの奮闘があってこそ…と傑作が生まれるまでの歴史を辿ってみせる。ウルフが誰かの小説を読むときには、それがその作家の一作目だったとしても、その本を同分野の先陣の作家たちの続きとして読むらしい。まことに専門家らしい実力だと思った。

そして、私がもっとも好きだったのはこの一節。

「シェークスピアもジェーン・オースティンも、その作品の中では、彼らを取り巻いていたはずの全ての障害物を焼き尽くしている」

ああ、私にもそんな文章がかけたら良いのにと思わずにはいられない。

ちょっと話がそれるが、フェミニズムやジェンダーについて考えた時、ふとこんなことを想像した。もしこの世に、この世界のどんな小さな場所にも、一つも犯罪や性犯罪がないとしたらどうだろう。
女性はいつでもどこかで犯罪の標的になったり、自分一人の力では抵抗しきれない筋力に降伏してしまう恐怖感をわずかながら持っているのではないかと思う。それが、ゼロだったならどうなんだろう。これは男性側にも言えるのかもしれない。女性からの言葉の暴力、他の男性からの暴力が全くのゼロだったなら。

私はどんなにリラックスして外を歩くことが出来るだろう。どんなにか一日中心を開けっ放しにしていられるだろう。この考えはもしかしたら私が男親によるアルコールと家庭内暴力と共に育った経験だとか、生まれたときから顔がどうのとか見た目をからかわれすぎたこととか、そこから自分を守るために降伏または潜伏しなければならなかった昔の習慣のせいなのかもしれない。

仮にそうだったとしても、私はこれまでに、父親以外の男性に出会い、彼らから本来の男性性の素晴らしさもいくらか見てきたと言うことができる。純粋で成熟した男性性と女性性が合わさったときのあの特別な安心感を味わった幸福については、誰も否定できないだろう。二人の間で男性が自分の男性性を喜び、女性も自分の女性性を喜ぶ。そしてその魂の交わりが進むにつれ、相手の異性性が自分の性と統合されていくような感覚さえ得られる。

この現象は、基本的にお互いが危険な人物ではないという完全な信頼感が基盤になっており、というよりもその基盤の信頼感こそが、その満たされた安心感を生み出していたのではないかと思う。
もしそうだとしたら、この世の全ての犯罪がなくなり、その安心感が世に溢れたのなら…私の周りの人は誰も完全に私を攻撃せず、私も完全に誰かを攻撃する必要が無いのだとしたら…。
そんなことを思い巡らしながらウルフの本を読んでいたら、過去の文学者たちの精神的な性別について触れたこんな一節が紹介されていた。

〈偉大な精神は両性具有である〉

その作風から、シェークスピアは両性具有だったとウルフは指摘する。なるほど。
ウルフは人間の性について、精神的な性と身体的な性を分けて考えている。少しジェンダーの話をすると、私は基本的に、個人の身体的な性的指向を他人が語るべきではないと思っている。英国のキリスト教会では、同性婚の取り扱いについて盛んに議論されているが、これは近年、英国国教会が大粉砕しかねないほどの爆薬となっている。

恥を忍んで、一つ私の経験を上げておこう。何年か前に、私の家族のうちの一人が、私に同性愛の性的傾向があると疑ったことがあった。たしかに私は小学生の頃は知らない人から100%「ボク」と呼びかけられたし、中学生の頃は女友達と猫が寄り添うように仲が良かった。一人二人の同性からやんわり好かれたこともあったし、可愛い子を見て惚れ惚れしたこともあった。しかし私は同性に性的な誘惑を感じたことはこれまでに一度もなかったのである。

あなたは身近な人から自分の性的傾向を誤解されたことがあるだろうか。そしてその時の気持ちを味わったことがあるだろうか。これは明らかに、身体の芯から「傷つく」経験であったと言っておこう。身体の奥底のアイデンティティを否定された感覚である。これは同性愛者が他性愛者と誤解される場合にも同じことが言えるのかもしれない。だから私は他人のそこには外から踏み込まないことにしている。私にとってそこはまるで神の領域なのだ。

さて、ジェンダーやフェミニズムという課題をウルフから学ぶにあたって、シェークスピアのソネットやキーツの作品を少しでもかじっていて良かった。「高慢と偏見」、「ジェイン・エア」を読み終えた後でよかった。「嵐が丘」を知っていたらならもっと良かった。

この本を読み終えて、私はフェミニズム、フェミニストという言葉が過去のものになることを望んだ。フェミニストという盾をかまえることなく、仕事をし、子どもを育て、自由な表現が保証され、後ろを振り返ることなく夜の街を歩くことができる世界が訪れることを願う。

最後に、日本とイギリスの女性解放について、単純に「女性参政権」が成立した年で比較してみると、イギリスは1918年で、日本は1945年である。この27年の差がどれ程なのかはさっぱり分からないが、少なくとも、今私はイギリスの社会で少しばかり羽を伸ばしていることを伝えておこう。

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