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勢いでカメラを買ったは良いが、何を撮ったらよいか分からない人へ

こんにちは、常丸です。

「写真を始めたくて、カメラを買ったけれど、何を撮ってよいのかさっぱり分からない!」

そう思ったことのある方は結構いると思います。

お父さんであれば子供を記録するぞとか、一人旅に行くのであればメモ代わりに使うぞとか、写真学生であれば学校卒業するぞとか何かしら理由があると思うのですが。

問題は、写真ってなんか面白そう。カメラってなんとなく楽しそう。と思って用途を決めずにカメラを手に取った人です。

でもこれ実は、写真をプロとしてやっている人、または写真作家としての道を進んでいる人にも必ずつきまとう問題であると考えます。

荒木経惟さんやマリオ・テスティーノさんのように「才能が有り余り過ぎていて、死ぬまでに使い切れないのが問題だ」という天才はそういるわけではありませんから。

それは俗に、スランプとも呼べるかもしれません。

テーマを持って制作していても、シリーズを重ねて行くと、自分が何をやりたいのかさっぱり分からないという経験をした方もいると思います。僕も何度もそのような経験をしながら、写真の迷宮を今もぶらぶらしています。

今日はそのような問題について考えてみます。

「俺はこれが撮りたいんだ!ああ、才能が有り余りすぎて、フィルムも時間も足りやしねぇ!」という天才は、ここで本を閉じてもらって大丈夫です。

立ち位置で既に写真は決まっている

僕の提案は、「別に頑張って被写体を探さなくても良い」ということです。

ハードコアな写真の世界は確かに存在するけれど、ゆるく写真をやったっていい。

写真をはじめたばかりの人にありがちで、写真の学校等に行くと「テーマを決めよう」「被写体を探そう」と言われるかもしれませんが、まずその固定観念をなくしてしまうべきです。

大部分において、写真はカメラが撮るのであり、押せば何かしら写るのです。

そう考えると少し楽になりませんか。

カメラに撮らせておいて、写ったものを見て考える。

何かを見て感じてシャッターを押すのはひとつの手段ではあるかもしれませんが、無理して被写体となるものを探すのは疲れますし、もう少しゆったり構えて目の前にあるものを観察する。(これは写真論的に言えば、モダニズムよりもニューカラーということになります。スタイル的には。)

スタイルとして制限はされますが、本来それほどに写真は自由なものであるということ。まずはそれに気づくこと。忘れていた人は思い出すこと。こうなればあとはもう撮るだけ。

ビギナー卒業、スランプ脱出です。

数日前につぶやきました。
身体を「移動」させるだけ。

Cathy ©Tokimaru2014

インドネシアのコテージに滞在中、朝食の席の視点より。

アニーのエピソードから

米国を代表する写真家、アニー・リーボヴィッツは、学生時代カリフォルニアで写真の授業を受けた時、こう思ったそうです。

写真の授業で、古典的な35ミリフォトグラフィーの巨頭である、カルティエ・ブレッソンとロバート・フランクの写真を見た時でした。

「どんなにつまらないひとり旅行でも、カメラがあればそれだけで楽しめる。そして写真家になるということは、好き勝手に旅行しながら写真を撮れるということなんだ」

そのような写真家の”特権”をブレッソンとフランクの写真から感じとったそうです。

彼女はその当時自分が写真家になるとは思ってもいませんでした。

それ以来は(その写真も)多く知られているように、移動するがままに、ジョンとヨーコを撮り、ローリング・ストーンズのツアーに同行し、ヴァニティ・フェアからハーパースバザーを渡り歩き、気がつけば米国を代表する写真家になっていました。

彼女も撮って、移動して、視点を変え続けた結果今があります。

もちろんそのバイタリティも見習うべきところなのですが、今回はもっと写真の本質的なところへ。

あくまでその一手法として。

移動しよう。
動けないのなら、しゃがんでみたり、背伸びしたりしよう。
視点は変わり、新しい写真はすぐそこにある。

プロ向けの連載は下記マガジンより〜

チェックしてみてくださいね。


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