佐々木くんと玄武、そして飯田くん


朱莉の働いている花屋には気さくなゴールデンレトリバーがいる。彼の名前は「玄武」なのだが、愛想が良くて柔和なゴールデンレトリバーの名前としてはあまりにも渋過ぎるので常連の奥様たちからは「ゲンちゃん」だとか「ゲン」だとか少しぼやかして呼ばれている。かくいう朱莉も「玄武」と呼ぶのはちょっと気恥ずかしくて叱る時以外は「ゲン」だとか「ゲンタロウ」だとか呼んでいる。しかし飼い主である店主だけはいたって真面目に彼を「玄武」と呼ぶのだ。朱莉は店主が彼の名前を呼ぶ時、その真摯さにささやかな感動を覚えてしまう。店主から「玄武」と呼ばれるとひときわ嬉しそうに尻尾を振る彼を見ると、玄武はゲンちゃんでもゲンでもゲンタロウでもなくやっぱり「玄武」なのだと妙に納得してしまうのだ。

佐々木くんは玄武に少しだけ似ている。すっと通った鼻筋や、黒目がちでまんまるな目、そして天性の人懐っこさ。玄武は名前の荘厳さとは裏腹にときおり季節やイベントに応じた変な帽子(完全に店主の趣味だ)をかぶらされているのだが、あの帽子はきっと佐々木くんにも似合うはずだ。


合成皮革で覆われたソファに深く沈み込み、佐々木くんが玄武の妙ちくりんな帽子(なぜかハロウィンの時にかぶっていた、異様に耳の大きなサルの帽子)をかぶっているところを想像して笑っていると、マグカップをふたつ持った飯田くんがキッチンから現れてどうしたの、と尋ねてきた。
朱莉がなんでもないと誤魔化すと飯田くんは隣に座り、朱莉にマグカップを渡した。

「ダージリン、ミルクは少なめで、お砂糖をたくさん」
「完璧だね」

受け取ってお礼を言うと一時停止にしていた映画を再生した。画面の中でケイリーグラントと異常なまでに立体的な顔付きをした女優(名前は忘れてしまった)が喧々諤々とやりあっている。映画を集中して見ているフリをしつつ、ちらりと飯田くんの横顔を盗み見る。色白だけどどことなく角張ったシルエットで、いかにも理系の大学院生といった感じだ。飯田くんはすぐに朱莉の視線に気づいて、自分の顎を手で覆うように触る。

「どうしたの?」
「メガネ変えた?」
「ああ、結構前に」

飯田くんはヒゲが濃いことをとても気にしている。彼は色白なので夕方ごろになると顔の下半分が青くなってしまうのだ。朱莉は大して気にならないと思うのだが、飯田くんにとってはとても重大なコンプレックスであるらしく、ヒゲの脱毛を考えているらしい。朱莉は飯田くんから相談を受けるまで「ヒゲの脱毛」に商売として成り立つほどのニーズがあることも知らなかったが、考えてみると男の人はほぼ毎日ヒゲの手入れをする必要があるのだから、いっそ脱毛してしまいたい人だってそりゃたくさんいるのだろうと妙に深く納得した覚えがある。


「メガネ、似合わないかな」

朱莉がヒゲ脱毛について思いを馳せて押し黙ってしまったのを何か勘違いしたのだろう。飯田くんは不安そうな目でこちらを見ている。

「似合うと思ったから訊いたんだよ」
「前のメガネは似合ってなかった?」
「前のやつも似合ってたけど、こっちのほうが似合う」

そう答えると満足したのか15インチのパソコン画面に向き直った。飯田くんは神経質な上に勘が良く、納得するまでしつこく質問責めにされるのも珍しくないため、朱莉はほっとして再びソファに沈んだ。飯田くんに勘付かれないように細心の注意を払いながら再び横顔を盗み見ると、なにやら幸せそうな顔をしている。


飯田くんが胸のうちを打ち明けてきたのは、3か月ほど前のことだ。その日、どうしてもすき焼きが食べたくなってしまった朱莉は飯田くんを誘って家の近くのスーパーで買い物をしていた。一刻も早くすき焼きが食べたかったので飯田くんはお肉の担当、朱莉は野菜の担当、と分担を決めて買い出しをしていた。朱莉は手早く野菜をカゴに入れて、うだうだとグラム単価とにらめっこしているであろう飯田くんのいる精肉コーナーに向かった。牛肉の前で顎に手を当てたまま考え込んでいる飯田くんに声を掛けると、飯田くんはこう言ったのだ。

「僕、朱莉ちゃんのこと、好きだよ」

趣味の悪い冗談だと思って朱莉が笑い飛ばすと、飯田くんは惜しげもない愛の言葉を次々と打ち明けた。朱莉ちゃんの支えになりたい、とか心の準備ができるまでいくらでも待つから、とか。朱莉は居た堪れなくて適当なアメリカ産の牛肉パックをカゴに入れ、告白マシーンと化した飯田くんの手をとってレジに向かった。

結局、朱莉は飯田くんの告白に応えることも拒絶することもできないまま、今日までずるずると曖昧な関係を続けている。飯田くんは大学院で微生物の研究をしているらしいし、とても真面目だし、真面目だから浮気もしなさそうだし、背だって朱莉より20センチも高い。それに、朱莉が好きなグラニュー糖たっぷりのミルクティだって完璧な配分で作ってくれる。だからこそ朱莉は飯田くんの好意を無碍に断ることができずにいるのだ。それに、告白されたのは3カ月も前のことなのだから、飯田くんだってそろそろ心変わりをしているかもしれない。今更になって告白への返答を伝えたところで笑われてしまうかもしれない。


映画が終わると、疲れていたのか飯田くんはおそろしいほどすんなりと眠った。朱莉はまだもう少し起きていたかったので、飯田くんの隣に寝そべって彼の長いまつ毛を見つめていた。佐々木くんだったら、緊張しているそぶりなんて全然見せないまま挨拶みたいなキスを始めて、そのままベッドにもつれ込むだろう。でも今朱莉の隣にいるのは飯田くんだし、佐々木くんは今頃、寝返りを打つだけでギシギシとうるさくて腰のあたりがべっこりとへこんでいるあの安物のベッドで彼女と抱き合って眠っていることだろう。佐々木くんだったらーーーそう思いながら飯田くんの隣に寝そべるのはちょっとずるいのかもしれない。いや、「ちょっと」どころではない。こんなの信じられないくらい不誠実だ。それは朱莉にだってわかっている。それでも、こう思わずにはいられないのだ。佐々木くんだったら、佐々木くんだったら。

佐々木くんが彼女と付き合う前に彼と出会っていたら、朱莉は今よりも素直に佐々木くんへの好意を表明できたのだろうか。少なくとも今みたいに「佐々木くんといると落ち着く」だとか「こんな話できるのは君だけだよ」だとか言いながらへらへらと笑って細切れに好意を仄めかす必要はなかっただろう。佐々木くんに彼女さえいなければ、きっと今よりも正々堂々と思いを告げることはできたはずだ。でも、そうやって素直に告白したところで佐々木くんが朱莉を彼女にすることはないのだろう。朱莉にとって飯田くんにはなくて佐々木くんにあるものが存在するように、佐々木くんにもまた朱莉にはなくて彼女にはあるものがたしかに存在しているのだ。


どうして恋ってうまくいかないのかしら。朱莉はぼんやりと飯田くんの寝顔を見つめる。すうすうと子どもみたいな寝息を立てて眠っている飯田くんを見ていると、ガアガアとけたたましく鳴り響く佐々木くんのいびきを思い出してしまった。朱莉がこんなにも嫌な女であることに、飯田くんはまだ気付いていないのだろう。勘はいいくせにそんなことも見抜けない飯田くんがちょっぴり可愛くて、可哀想で、朱莉は隣で眠るサラサラの髪をふんわりと撫でてから、そっと立ち上がって洗面所に向かった。


洗面所の棚を開き、上から2番目の段にあるクレンジングを手に取る。3月に終電を逃して泊めてもらった時、飯田くんがコンビニで買ってきてくれたものだ。手のひらサイズのチューブボトルを軽く押すとすかっとした感触と共にほんの少しだけクレンジング剤が出てきた。そんなに頻繁に使っているわけではないのに、この手のものはあっという間になくなってしまう。一瞬だけ飯田くんには朱莉以外にも女がいるんじゃないかと疑ったけど、すぐに飯田くんに限ってそんなことがあるわけもないと思い直した。ああ、今度来る時忘れないように買ってこなきゃ。そんなことを考えながら、僅かなクレンジング剤を丁寧に手のひらに広げて、頬のあたりに馴染ませた。

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