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裸足で歩く世田谷通り


 黒田くんは三軒茶屋に住んでいる。三軒茶屋とは言っても、三軒茶屋駅からは20分くらい歩かないといけないし、最寄り駅は東急世田谷線の若林だ。それでも黒田くんは「どこに住んでるの?」と訊かれると必ず「三軒茶屋」と答えるので、美織も黒田くんの家は三軒茶屋にあると思うようにしている。

 千駄ヶ谷にある美織の家から黒田くんの家に向かうには、少なくとも2回は電車を乗り換えなければいけない。だから、黒田くんの家に着く頃には美織はいつもぐったりしている。

 ソファに沈んで「ぐったり」を体現していると、黒田くんが冷蔵庫から冷えたビールを取り出して、美織に手渡してくれた。かんかん照りの中、三軒茶屋の駅から20分歩いて来たせいでひどく喉が乾いていたので、お礼を言って缶のままごくごくと勢いよく飲んだ。黒田くんは立ったまま美織をじっと見て、少しばつが悪そうに「いつも来て貰っちゃって、悪いなと思って」と言った。別にいいよ、うち実家だし、仕方ないじゃん。そう答えて、部屋を見渡す。レンタル落ちのDVD、自己啓発本、エマニエル夫人のポスター、北欧風のテキスタイルデザインがプリントされたマグカップ、キャラクターのぬいぐるみ、エスニック風の小物入れ。雑多なものたちが無秩序に配置されているこの部屋には溢れ出んばかりの生活感があって、合理的かつ整然とした美織の実家よりも好ましく感じる。

 黒田くんはこの狭い1Kのアパートで、彼女と同棲をしている。美織はいわゆる「二番手」なのだ。美織が呼ばれたということは、今日は彼女が実家に行っているとか出張に行っているとか何かしらの理由があるのだろうが、詳しいことはあえて訊かずに黙ってビールを飲む。

 黒田くんと出会ったのは、小さな撮影スタジオだった。ティーン向け雑誌の読者モデルをしている弟の付き添いでそのスタジオにやってきた美織は撮影が始まるとすぐに退屈してしまって、カメラマンに指示されてちょこまかとした雑用をこなしたり、照明器具を調整している黒田くんのことをじっと観察していた。黒田くんは美織の視線に気づくわけもなくただただ一生懸命働いていた。

 黒田くんとの関係を説明するのは難しい。体だけの関係なのかと問われると、それは違うような気がする。黒田くんがどう思っているのかは知ったところではないが、美織は黒田くんのことを好ましく思っている。ただ、あくまでも「好ましい」の域は出ないし、黒田くんを彼女から奪い取ってやりたいと思ったことはない。むしろ、とてもじゃないけど彼女なんて重役は美織にはこなせないと思う。ただ、黒田くんとこの狭苦しい部屋で過ごす時間はとても好きだし、黒田くんと彼女のように一緒に住んで、毎晩毎晩シングルベッドに並んで眠るような関係には少し憧れている。

 だから、黒田くんの彼女が美織の青いサンダル(アルバイト代を貯めてミュウミュウで買ったお気に入りだ)を持って部屋に入って来た時には、焦りよりも「これが黒田くんの彼女か!」と嬉しさが先行してしまった。その時には黒田くんも美織もシングルベッドの上で、控えめに言っても半裸といった状況だったので、彼女の表情は怒りと絶望に満ち溢れていた。黒田くんの彼女は美織の想像よりも大人っぽくて、頭のてっぺんからつま先まで一点の隙もなかった。半裸で、しかも薄い水色のマニキュアが所々剥がれてしまっている美織とは大違いだ。こんなに美人な彼女がいながら、美織みたいなしょうもない女に手を出すなんて。

「どういうこと?」

 黒田くんの彼女がうっすらと笑って言う。余計なことを言わないほうがいい気がしていて黒田くんのほうをチラリと見ると、黒田くんは服を着た方がいいのか動かないほうがいいのか決めかねているようで、Tシャツの袖に腕を通しただけの中途半端な体勢で彼女のほうをじっと見つめていた。

「ごめん」
「『ごめん』って何? ちゃんと説明して欲しいんだけど」
「いや、その、説明って言われても」

 彼女と黒田くんの間で対話が始まったので、美織は脱げかけている服を身につけ始めた。美織がブラウスのボタンを閉め終わった時だった。

「馬鹿にしてんのっ?!」

黒田くんの彼女は手に持っていた美織のサンダルを床に叩きつけた。幸い目に見えるような損傷はなさそうだが、間違いなくなにかしらの傷はついただろう。頼みの綱である黒田くんを見ると、静かに涙を流していた。

「本当に、ごめん」
「いや、だからごめんじゃなくて」
「俺、カナ以外の女の子なんてどうでもいいと思ってたのに、誘惑に勝てなくて」

彼女は黒田くんが泣いているのに気づいて、黒田くんをじっと見つめていた。誘惑したつもりなんてなかったので甚だしく遺憾だが、脱出するなら今しかないかもしれない。そう思った美織は、音を立てないようにゆっくりとデニムのジッパーを上げ、立ち上がって、部屋から出た。すれ違う瞬間、黒田くんの彼女をちらりと見ると、黒田くんと同じように涙を流していた。よかった。他人事みたいにそう思った。きっと、彼女は美織に手を出した愚かな黒田くんのことを許してしまうだろう。

 玄関までやってきて、サンダルがまだ部屋の中にあることに気がついた。美織はあの部屋の中に戻ってサンダルを回収できるほど肝が据わっていない。贖罪も兼ねて、あのお気に入りの青いサンダルは諦めることにした。

 道路に敷かれたアスファルトはじんわりと熱を持っていて、小学校にあった屋外プールを思い出す。さすがに裸足で家まで帰るわけにはいかないので、途中で何か履くものを買わなければいけない。美織の記憶が正しければ、この道をまっすぐ行くと三軒茶屋に着く。

たしか、三軒茶屋にはダイソーがあったはずだ。


#2000字のドラマ

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