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金曜日の由花さん


 レジカウンターの裏に隠れてペットボトルの水を飲んでいると、フロアから戻ってきた由花さんに見つかった。水を飲むことを禁止されているわけではないのが、見つかってしまうとなんとなくばつが悪い。由花さんはすこし意地悪な感じに口の端をゆがめてニヤリと笑った。

「可菜子ちゃん、よくそんなに水飲めるよね」

 由花さんは可菜子が持っている二リットルのペットボトルを指して言う。そういえば、可菜子は由花さんが水を飲んでいるところを見たことがないような気がする。実際には見たことがあるのかもしれないが、由花さんというイメージと水というイメージが頭の中でうまく結び着かない。

 由花さんはいつも化粧っ気がなく、全体的にばさっとしたひとだ。けっこうぶっきらぼうな口の利き方をするが意外と人懐っこくて、六十八点ぐらいのコミュニケーション能力は持ち合わせている。職場の飲み会があると真っ先に顔を真っ赤にしてくだらない話に大声で笑い、すぐに酔い潰れる。

 いそいそと水をしまってカウンターでポップを書いていると、由花さんから暇なので早めに休憩に行くようにと指示された。雨の日にわざわざ本を買いに来るお客はそうそういない。

 可菜子が働いている書店はファッションビルにあるテナントの一つで、休憩に行く際にはバッグヤードにあるフロア全体の休憩室に向かう。可菜子はこの休憩室が苦手だ。そこにいる誰もがなんとなく所在無さげで、気が滅入るのだ。空いている席を探してあたりを見回していると、イヤホンで音楽を聴きながらコンビニのサラダを食べているアパレル店員と目があってしまい、すぐに下を向いた。少し気まずくなってアパレル店員とは反対側の通路に進むと、パートの中江さんが手を振っている。中江さんは午後からのシフトなので、出勤前にここで時間をつぶしているのだろう。手招きされて向かいの席に座ると、中江さんは可菜子が席に着くやいなや急ピッチでおしゃべりを始めた。

「ちょうどよかったわ。可菜子ちゃんに話そうと思ってたことがあって」

中江さんは、一見すると儚げなちょっといいとこの奥さん、といった風情なのだが、恐ろしいほどによく喋るひとで、放っておくと相槌を打つのも憚られるペースで延々と話し続けている。

「由花ちゃん、彼氏できたらしいのよ。しかも年下の」

 由花さんのことは特段好きでも嫌いでもないが、大学一年生の頃から七年間勤めているこの書店においていちばん付き合いが長いのでそれなりに親しい。出会って以来、由花さんの浮いた話は全く聞いたことがなかったので、すこし驚いたが、そういうこともあるだろうと思って聞き流していると、中江さんのおしゃべりは延々と続いていく。

「最近綺麗になったし、これは絶対男だろうなと思ってたのよ。そしたら、案の定」

「さすがですね。鋭い」

「あの変化に気付いてないのなんて、可菜子ちゃんぐらいよ。明らかに綺麗になってるもん」

先ほど可菜子の描いたポップを絶賛していた由花さんを思い出すが、特にいつもと違った様子はなかったように思う。出勤時刻になりバタバタと荷物をまとめて休憩室を出て行く中江さんに手を振りつつ、心の中で中江さんの観察眼を密かに讃えた。


 昨日の深夜から降り続いた雨も昼過ぎにはすんなりと上がり、午後はバタバタと過ぎていった。中江さんが言うように由花さんが変化しているのかどうか確かめようとしたものの、由花さんはなかなかフロアに姿を見せず、確認できないままに閉店時間が近くなってしまった。

 あと五分で閉店、という時にぎこちなくスーツに身を包んだ若いサラリーマンが新書とるるぶ金沢を持ってレジに現れた。初々しさに好感を持ちつつ会計をしていると、バックヤードから現れた由花さんがブックカバーをつけるのを手伝ってくれた。サラリーマンにお釣りと本を渡し、由花さんと二人でありがとうございました、と頭を下げる。

「じゃあ、またあとで」

驚いてサラリーマンを見ると、その言葉は可菜子ではなく隣にいた由花さんに向けられたものだったらしく、サラリーマンはすこし照れたように会釈してそそくさと去って行ってしまった。由花さんの方を見ると、そっと目をそらされた。

「聞きましたよ。年下なんですね、彼」

可菜子が核心に切り込むと、由花さんは隣のレジでドロアーの中の小銭を数えながら、ほんのすこしめんどくさそうに(とはいえ嬉しさを隠しきれていない様子で)答える。

「あー、もう。バラしたの、中江さんでしょ」

「そうです」

 閉店時間まであと二分残っているのでレジ締めもできず、手持ち無沙汰なので由花さんのほうを見ると、照れているのか耳のふちがすこし赤くなっている。中江さんに言うとすぐに広まっちゃうんだから、と誰に言うでもなくつぶやいた唇は、ぬらりとしたピンクベージュの口紅で彩られていた。

彼と金沢に行くのか訊こうかとも思ったが、なんとなくやめておいた。


おしまい


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