見出し画像

洗脳(その1)日本人を日本人以外の何者かにしようという企て

まえがき

 洗脳(マインド・コントロール)というものが広く社会に知られるようになったのは、1990年代、オウム真理教の活動が報道されるようになってからだと思われる。この教団の熱心な信者は全財産を教団に寄進し、出家と称してサティアンと呼ばれる合宿所のような住まいで集団生活を営み、瞑想・ヨガ等に励んでいた。その異様な姿がテレビを通じてお茶の間に飛び込むようになり、それを見た信者の家族・友人が心配して家に帰るよう説得を試みるが、信徒はとりあわない。彼らはマインド・コントロールされているからだ、という認識が一般化した。
 やがて教団の幹部信者が地下鉄でサリン(猛毒化学物質)を散布するという凶行に及び、多数の被害者を出した。この事件を契機として、オウム真理教がサティアンで密かにサリンを製造していること、大量のライフル銃を所持していること、軍用ヘリコプターまで所有していること、過去、いくつかの殺人事件に関与していることなどが明らかになった。また、実行犯の多くが高学歴エリートであることが判明した。
 オウム真理教による一連の凶悪犯罪の実態が明らかにされていくに従い、社会的結論として、凶行に及ばなかった一般信者も、そして殺人鬼と化したエリート幹部信徒も、そのいずれもが、教祖・麻原彰晃によってマインド・コントロールされていたのだ、という理解に至った。
 その一方、オウム真理教が登場する前の1980年代、統一教会(その関連団体である原理研究会、勝共連合等)という韓国を本貫とする教団が霊感商法、合同結婚式、多額の献金と、これまた衝撃的な社会問題を引き起こしていた。そのとき社会はマインド・コントロールという言葉を知らなかった。統一教会による反社会的活動は1980年代、1990年代、そして今日に至るまで、引き続き日本社会に広く浸透していたにもかかわらず、オウム真理教の陰に隠れ、その実態が永らく表面化することがなかった。
 2022年7月、安部元首相暗殺事件である。この事件により、統一教会の高額献金被害問題、二世信者問題、安部元首相を筆頭とする自民党有力国会議員等との関係がメディアに取り上げられ、社会問題化した。
 しかしながら、教団と信者の関係、すなわち、教団によるマインド・コントロールのあり方を深く問う問題意識は十分とはいえない。元信者の口から、統一教会が生活者に接し、生活者を信者にし、生活者の生活を奪う過程は語られてはいるものの、外部の人間がそのことを真に理解できているとは言いがたい。生活者が信仰に至り、教団の誘導のまま自身の生活を破壊し、たとえば教団に高額献金をする気持ちの変化が理解しにくい。マスメディア、SNSには、元信者が自らの体験を語る映像等がしばしば流れているのにもかかわらず、それを見聞きする側の理解は深まることがない。「なんで、あんなわけのわからない宗教にはまるんだ」「やめればいいじゃないか」「先祖解怨なんてばかじゃないの」「集団結婚式で韓国の男性と結婚するなんて信じられない」「献金?自発的にやっているんだから、取り締れないよ」という無理解がはばかるのである。
 信者と非信者(社会一般)を阻む厚く高い壁ーー筆者は統一教会、オウム真理教等のカルト宗教との闘いは、洗脳について考えることなくしてはなしえないという確信に至った。そして、洗脳というのが狭くほの暗い部屋に閉じこもった宣教者と信者による秘儀的行為に限定しえないこと、また、筆者を含めた多数者が〈こちら側〉だと信憑している世界が実は、洗脳によって描き出された〈あちら側〉の世界なのかもしれないという懐疑を前提としなければならないと考えるに至った。かかる立論を導く作業は、江藤淳(1932-1999) の『閉ざされた言語空間』およびナオミ・クライン(1970-) の『ショック・ドクトリン』の2書を読み解くところから開始される。

『閉された言語空間 (江藤淳著)』を読む

 同書は、「米国は日本での検閲をいかに準備していたか」「米国は日本での検閲をいかに実行したか」の二部によって構成されている。

(一)GHQの占領政策 〝検閲・調査・教育”の3点セット

 アジア太平洋戦争に勝利した米国が日本帝国を占領統治したとき、米国政府諜報機関(Intellogence service)は日本人の洗脳に着手した。その手法を大雑把に示せば、①日本の報道機関等への検閲、②日本国民の意識調査(情報収集=私信の開封、電話盗聴)、③教育・情報宣伝ーーの3点セットだった。その目的は占領軍の安全確保である。日本帝国政府が無条件降伏したとはいえ、それまで血みどろの殺し合いをしていた相手国に入国するのである。占領軍に対する徹底抗戦の可能性が完全に排除されたわけではない。ゲリラ戦、テロ、交通妨害、サボタージュ、ストライキなどの抵抗が予想された。
 ①はそれらを煽動するような日本の報道および言論人の言説を事前検閲で封じようとした。また、占領軍の動向は、徹底抗戦を策する日本の地下組織(当時そのような組織が実在してたかどうかは別である)に知られてはならない軍事秘密である。そしてなによりも重要だったのは、占領軍兵士の犯罪(日本人に対するレイプ、暴力、強奪等)、および、戦時下、連合軍による戦争犯罪(沖縄地上戦における民間人殺害、広島・長崎における非戦闘員=市民にたいする核攻撃、都市無差別空爆、民間船舶無差別攻撃等)が国内外に広く報道されることを未然防止することだった。
 ②の目的は、占領下の日本人が占領軍兵士、連合軍にどのような感情を抱いているかを調べ上げることだった。連合軍が予定していた「戦犯裁判」において日本帝国軍の戦争犯罪者を裁くとなると、当然、処刑される者が出てくる。そのことについて、日本人はどのように感じ、どのような行動を引き起こすのか、占領軍は神経をとがらせた。
 ③は連合軍が日本国民に対して行った非人道的戦争犯罪(広島・長崎核攻撃・都市無差別空爆等)は、日本帝国軍の指導者がもたらせたものだという認識を日本人がもつような情報操作を企図した。日本人の侵略思想およびその背景となっていた天皇制ファシズム思想を日本人の心から排除すると同時に、日本人が敗戦による窮乏と戦争の傷が反米愛国運動に結びつかないよう、情報操作しようと企てた。
 江藤淳はかかる連合軍=米国=占領軍による日本人に対する洗脳3点セットについて、「日本を日本ではない国、日本人を日本人以外の何者かにしようという企て」と評した。〔後述〕
 以下、筆者は江藤がいう、米国による日本人洗脳という立論を読み解くと同時に、江藤の立論の検証も試みる。

(二)米国は日本での検閲をいかに準備していたか

 米国における戦時情報統制(検閲、調査および情宣)システムが本格的に構築されたのは、第一次大戦を契機とする。この大戦が〈総力戦〉と呼ばれる所以は、国民総体が戦争勝利のためにあらゆる場面で国家に協力することを余儀なくされるようになったからだ。戦時体制下、軍事的協力はもとより、経済活動、文化活動(宗教、思想、表現等)、情報活動(言論、報道)といった、米国憲法が保証する基本的人権の尊重、なかんずく、表現の自由が制約を受けるようになった。戦時下、敵国に有利となる情報の発信を制限することは、言論の自由を侵犯することにならない、という一見、自明の政府側の論理が「民主主義国家」に一般化するようになった。この時期、マスメディアの驚異的発展が戦時下の国家の脅威となったことがそのことをいっそう促した。

検閲は占領統治における最重要政策

 第二次大戦(米国からみた欧州における対独・伊戦、アジア・太平洋における対日戦)において、米国の戦時情報統制はより洗練化されていく。そしてなによりも注目すべきは、戦時下の国内にとどまらず、対戦国に勝利したのちの占領統治における最重要政策として、それが位置づけらるようになったことだ。
 米国は日本帝国との戦争に勝つという前提の下、対日占領下の情報統制策の準備を周到に進めていた。江藤淳はその過程を米国の戦時資料に基づき明らかにしていく。米国の立案(基本計画から組織・体制づくり・予算策定・人材登用等)から実施に至る綿密さと推進力は想像をはるかに超えている。また、米国が目指した占領下の情報統制は容赦なく拘束的である。本書を読むだけで、日本帝国が仕掛けた対米戦争がいかに無謀であったかを思い知らされる。

ポツダム宣言受諾 戦後日本の始まり

 対日戦争に勝利した米国が目指した占領下日本における情報統制において、最初に障壁となったのは皮肉にも、連合国が日本に発出した「ポツダム宣言」だった〔後述〕。同宣言は極めて重要な規約であるから、全文 (Wikipedia編集者訳)及び同宣言受諾の大雑把な経緯を掲載する。

【日本の降伏のための定義および規約】 
1945年7月26日、ポツダムにおける宣言
1.我々合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
2.3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。
3.世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツとドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
4.日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
5.我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。
7.第6条の新秩序が確立され、戦争能力が目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。
8.カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。
9.日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。
10.我々の意志は日本人を民族として奴隷化し、また日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。
11.日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。
12.日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。
13.我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。

Wikipedia

 同宣言はベルリン時間の7月26日午後9時20分に発表され、東京時間7月27日午前5時、西海岸の短波送信機から英語の放送が始まり重要な部分は4時5分から日本語で放送された。日本語の全文は東京時間午前7時、サンフランシスコから放送された。その後、日本語の放送は西海岸の11の短波送信機、ホノルルの短波送信機、サイパンの中波送信機が繰り返した。すべての定時番組は中止され宣言の放送を繰り返した。西海岸からは20の言語で宣言が放送された。その後数日間に渡って一定間隔で宣言の放送が繰り返された。日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した。
 日本帝国が同宣言の受諾を決定したのは、1945年8月14日付の終戦の詔勅の発出であるから、実に宣言発出から20日間が経過したのちのことだった。その間に広島・長崎への核攻撃(8月6日・9日)、ソ連参戦(8月9日)があった。国民に宣言受諾、降伏決定を発表したのが8月15日正午の玉音放送である。なお、陸海軍に停戦命令が出されたのは8月16日、更に正式に終戦協定及び降伏が調印されたのは9月2日である。

米国の情報統制の障壁となったポツダム宣言

 米国国務省の見解では、〝「ポツダム宣言」は、受諾されれば、国際法の一般規範によって解釈されるべき国際協定となる”とされた。国際協定である以上それは当然、双務的拘束を有すると解釈される。

 そうであれば、日本において米占領軍当局が実施すべき民間検閲は、必然的にポツダム宣言第10項の保証する言論・表現の自由の原則と、真正面から対立し、矛盾撞着せざるを得ない。しかもなお米国政府は、JCS873/3〔注1〕で明示されている対日占領基本政策の一つとして、マッカーサーに民間検閲の励行を厳命している。この矛盾を解決しようとすれば、方法はただひとつ、統合参謀本部の命令通り民間検閲を実施し、しかも、検閲の存在自体を秘匿しつづける以外にはないはずである。
 占領期間中を通じて、民間検閲支隊(CCD)〔注2〕をはじめとする占領軍検閲機関の存在が秘匿されつづけ、検閲への言及が厳禁された根本原因は、このポツダム宣言第10項とJCS873/3とのあいだに存在する、矛盾の構造そのもののなかに潜んでいたのである。(P152)

閉された言語空間(以下同書)

 この言説が意味するところは、第二部において詳述される。

〔注1〕JCS873/3;1944)年11月12日付発出の 統合参謀本部命令書873号ノ3
①JCS(Joint Chiefs of Staff/統合参謀本部の略称)とは、アメリカ軍における最高機関であり、組織体系的には米国国防総省、およびそのトップである国防長官(文民)の下にある。軍事戦略の立案を行うとともに、合衆国大統領及び国防長官、国家安全保障会議、国土安全保障会議に対して軍事問題に関する助言を行うことを任務とする。
②その内容は、4種類の文書からなる命令書であり、同書第五章~第六章に(その発展形である日本における民間検閲基本計画を含め)詳述されている。概要を示せば--
第一項:同命令書検討の経緯
第二項:「解放地域」に関するもの
第三項:「占領下の敵国領土」における民間検閲の規定
第四項:検閲計画の策定と実施について戦域相互間の調整の必要性
各項のうち重要と思われるものとしては、▽占領地域の民間通信検閲は、現地最高司令官の専権事項であることの確認、連合国合同参謀本部の確認を得ていることの確認、民間通信検閲が軍事検閲とは異質であり、かつはるかに複雑である所以の明言など。なかで最も重要となる一項は、検閲の終了に係るもので、前出の通り、検閲は現地最高司令官の専権事項としながらも、「あらかじめ統合参謀本部の許可なしにこれを終了させることはできない」という規定。つまり、マッカーサーは占領下日本における民間検閲を終了する権限を持っていなかったのである。

〔注2〕民間検閲支隊(CCD / Civil Censorship Detachment);日本の被占領期に検閲を実行した機関で、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)配下の参謀第2部(G-2)所管下の機関。

同書

(三)米国は日本での検閲をいかに実行したか

 連合国が発したポツダム宣言は、占領下日本における言論の自由を保証した。だがGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)を通じて、米国政府はその解釈を逐次変更する。同書第二部においては、そのプロセスが明らかにされる。

2つの洗脳の狭間 敗戦直後の日本

 日本がポツダム宣言を受け入れ、米軍を中心とした連合軍が日本に駐留する。敗戦国民である日本人は占領軍をどのような心情で迎え入れたのか。江藤淳は、占領軍兵士のわがもの顔の振る舞いと軽薄そうに見える態度に対して、日本国民は不快感を抱いていたとしたうえで、以下のような市井の日本人の私信を掲載している。これら私信は米軍検閲官が無断で開封したものである〔後述〕。いずれも、敗戦直後、8月~9月に認められた。

 突然のことなので驚いております。(日本)政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上、犬死はしたくありません。〔後略〕(P161~162)
 昨日伊勢佐木町に行って、はじめて彼ら(米兵)を見ました。彼らは得意気に自動車を乗りまわしたり、散歩をしたりしていました。
 橋のほとりにいる歩哨は欄干に腰を下ろして、肩に掛けた小銃をぶらぶらさせ、チュウインガムを噛んでいました。こんなだらしのない軍隊に敗けたのかと思うと、口惜しくてたまりません。(P162)

同書

 一方、思想家・吉本隆明(1924-2012) は、戦時中の自分は軍国少年だったこと、敗戦後の占領軍の「民主主義」を肯定したことをことあるごとに公言していた。そしてそのうえで、ある講演会で次のような発言をした。

 太平洋戦争の敗戦ということですけれども(中略)、その時の(吉本自身の)考え方では、天皇制自体が戦争をやめよということで、勢力を温存しようとしても、支配者がそれを温存しようとしても、大衆は徹底的に戦うだろうと考えておりました。また自らも・・・戦うだろうと考えていました。しかし事態は全く異う・・・戦うだろうと考えていた兵士たちは、食糧不足の焼け野原ですから、その中でまっさきに軍隊がヤミ貯蔵していた食料を、もう背中いっぱい背負えるだけ背負ってなんらの反応も示さないで武装解除されて、郷里へ帰るというのが、そのときの大衆の敗北の構造だったわけです。(中略)大きな袋をもって帰っていくだけで、流血の叛乱もなく、そういうふうにして総武装解除されて、戦争が終わり、そして、終わったことによりなにが得られたのかといえば、温存された支配層がえられただけ、とはまったく意外でした。(『敗北の構造』吉本隆明講演集/弓立社版P409~410)

敗北の構造

 江藤が引用した私信と、吉本が目撃した日本軍兵士に対する述懐のどちらが日本国民を代表するのかは判断することはできないし、しても意味はない。ただ言えることは、江藤が引用した私信の書き手はいまだ、日本帝国のマインド・コントロールのなかにあること、一方、吉本が目撃した日本兵たちは敗戦を契機として日本帝国のマインド・コントロールから解放され、まずなによりも自分と家族が生き延びることに邁進していたーーということだ。神の国の軍隊を信じ、敗戦に至っても勇猛で最後の最後まで戦う無敵の日本帝国軍を信じた市井の日本人と、敗戦により、その呪縛を自ら解き放ち、闇貯蔵の食料をかっさらいリュックに詰める日本帝国軍人ーーマインド・コントロールをめぐる二極的併存こそが敗戦直後の日本の情況だった。

連合軍の検閲体制

 GHQにおける検閲等情報統制任務に当たったのは、対敵諜報部隊(CIC/ Counter Intelligence Corps )と、遅れてCICの耳目として日本全国に散開し、諜報活動に従事した前出の民間検閲支隊(CCD / Civil Censorship Detachment )の2つの組織だった。CCDは日本占領前、日本の新聞・放送の検閲を行うとされていた広報担当将校(PRO/ Public Relations Officer)にかわってその任にあたることになった。そして、現地(日本)における新聞および放送の検閲は、最高司令官の定める政策に従い、対敵諜報部長の指揮下において、太平洋陸軍民間検閲支隊がこれを実施することを定めた、「1945/9/3付、ソープ准将の命令書」が発出された。そこには次のような、計画事項が付されている。注目すべき項目(の概要)を以下に示す。

第一項、第二項(略)
第三項 新聞検閲は事後検閲(Post-sensorship)とする。即ち、新聞に予め禁止事項を通達し、発行された新聞を検閲して禁止事項違反の有無を確認する。
第四項 簡素かつ平易な〝遵則″の用に供するために、天皇が次のような詔勅を発出することが望ましい。詔勅の文言は慣例に従うものとする。 
ー連合国最高司令官は、今後言論の自由に対して最小限度の規則を加える旨を告示した。連合国は日本の将来に関する言論を奨励するが、公共の安寧を妨げる一切の記事を厳禁する。最高司令官は公共の安寧を妨げる記事を伝播し、それによって新生日本が敗北から立ち直り、世界の平和愛好国の一員になろうとする努力に悪影響を与える一切の出版社と放送局に業務停止を命じることがあるー
第五項、第六項(略)
第七項 同盟通信社を厳重に管理すること。同盟の配給するあらゆる記事は、同盟に常駐する将校によって厳しく検閲されなければならない。検閲不要の記事は下記の通り。広報担当将校を出所とするもの。現地あるいは合衆国の戦時情報局、戦時捕虜局、軍政局を出所とするもの。国務省を出所とするもの。他の連合国を出所とする記事は、最高司令官の判断に応じて検閲を行うものとする。
第八項~第十項(略)
(P166~167)

同書

占領軍兵士の犯罪を報道し続けた日本の同盟通信社

 第七項が注目される。占領下、日本のメディアである同盟通信社〔注3〕の活動である。同盟通信は占領軍におもねることがなかった。世界中の通信社が日本に支局をもたなかった敗戦直後、同盟通信は占領下の日本の状況をほぼ、独占的に海外に発信し続けることができた。彼らが敗戦~占領下にあって、自由に仕事を続けたのは、前出のポツダム宣言という国際条約が戦勝国⇔敗戦国に対して、双務的に、報道の自由を保証することを理解していたからにほかならない。言論の自由、報道の自由が国際法上、敗戦国にも適用されることを知っていたからである。同盟通信が世界に向けて発信する記事には当然、占領軍にとって不都合な真実が含まれていた。
 同盟通信の短波放送は、占領軍の動静をスクープするのみならず、占領軍将兵の行動についても詳細に報道し続けた。

 米海軍水兵の婦女暴行事件が、(同盟の報道により)いち早く全世界に伝えられたのは、ミズーリ艦上の降伏調印式以前である。以後米兵の非行は連日のように伝えられたが、三業地から拉致された少女の下働きが、実に27人の米兵によって輪姦されたという事件が報じられたときは、さすがの米陸軍と海兵隊当局者も、事実無根を声明せざるをえなかった(P173~174)。

同書

 GHQ最高司令官マッカーサーは当初、ポツダム宣言は、戦勝国、敗戦国に対して双務的であるという解釈をしていたことが「政策文書SWNCC150/4の草案」(初期対日方針(Initial Post-Surrender Policy for Japan) でわかっている。そのことは、〈特に内示された指令は、いくつかの点において降伏文書とポツダム宣言に規定されている諸原則を著しく逸脱していると思われるので、小官(マッカーサー)は所見を貴官(陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル)に上申しておかなければならないと感じています。〉という記録によって実証されている。
 マッカーサーの解釈を超えて同盟通信の報道を規制しようとする命令書が発出されたことは、米国の対日占領政策の大転換を象徴する。江藤淳は次のように書いている。

 マッカーサーその人すらこう考えていた以上、日本側が官民の別なく、敗北は合意による敗北であり、決して征服による敗北ではないと解釈したのは、余りにも当然と言わなければならない。
 そして、もしそれが合意による敗北であるならば、敗者たる日本側には、勝者たる連合国批判の自由を留保する権利があるはずである。しかも、ポツダム宣言第10項が「言論、宗教及思想の自由」を明示的に保障しているのを見れば、占領軍兵士の非違非行を黙認すべき理由は何一つない。(P175) 

同書

 GHQの次なる一手は9月10日付で発出された、5項目の最高司令官指令(SCAPIN-16)である。この指令を準備したのは後の新聞映画放送部(Press,Pictoria and Broadcast Division/PPB)である。PPBはやがてCCD部内で最大の組織になる〔後述〕。指令の内容は以下の通りである。

一、日本帝国政府は、新聞、ラジオ放送等の報道機関が、真実に合致せずまた公共の安寧を妨げるべきニュースを伝播することを禁止する所要命令を発出すべきこと。
二、最高司令官は、今後言論の自由に対して絶対最小限の規制のみを加える旨告示している。連合国は日本の将来に関する論議を奨励するが、世界の平和愛好国の一員として再出発しようとする新生日本の努力に悪影響をあたえるような論議は取締るものとする。
三、公表せざる連合国軍隊の動静、および連合国に対する虚偽の批判もしくは破壊的批判、流言蜚語は取締るもとする。
四、当分の間、ラジオ放送はニュース、音楽および娯楽番組に限定される。
五、最高司令官は、真実に反しもしくは公共の安寧を妨げるが如き報道を行った新聞・出版・放送局の業務停止を命じることがある。(P170)

同書

〔注3〕同盟通信社;1936年発足。1932年9月、斎藤実内閣がメディアを積極的に活用し総力戦を遂行することを目的として、外務省、陸軍省、参謀本部、海軍省、軍令部、内務省、逓信省、文部省からなる情報委員会を設置したことに端を発する。紆余曲折を経て、新聞聯合と日本電報通信社(電通)の出資により、社団法人として設立に至った。

日本を日本ではない国、日本人を日本人以外の何者かにしようという企て

 日本の報道各社も同盟通信社と歩調を合わせるように、自由な報道活動を続けていた。それに対して、GHQは「新聞報道取締方針」を1945年9月10日付で発出したのだが、報道各社はそれを無視した。同盟通信は、「新たに1万名の米軍部隊が、近日中に東京地区に移駐する予定である」と報じた。この報道が直接的契機となり、GHQが動いた。占領下、日本の報道機関の自由を完全に拘束する事態が、すなわち、占領下の日本の報道機関の状況を一変させるような、江藤淳に言わせれば、「CCDが、日本の報道機関めがけて振り下ろした最初の斧の一撃」が加えられたのである。
 民間検閲支隊長ドナルド・フーヴァー大佐は、同盟通信社社長古野伊之助、日本放送協会会長大橋八郎、情報局総裁河合達夫、日本タイムズ理事東ヶ崎潔らの日本報道関係代表者を総司令部に召致し、検閲についての声明(命令)をくだした。声明の要旨は以下の通りである。
 同盟通信社の業務停止処分。理由は前出の「米軍部隊1万人の東京移駐」のような「新聞報道取締方針」に従わなかったこと。
 同方針に違反するものはいかなる機関といえども同様に業務停止を命じる。
 マッカーサー元帥は、連合国がいかなる意味においても、日本を対等と見なしていない。
 日本はいまだ文明国のあいだに位置を占める権利を認められていない敗者である。
 以下、命令文をそのまま表記する。これはポツダム宣言を否定する内容を明記したものであり、連合国(=米国)の日本占領政策の本音すなわち日本征服を明確に表している。〔後述〕

 ・・・諸君(報道各社)が(日本)国民に提供して来た色つきのニュースの調子は、あたかも最高司令官が日本政府と交渉しているような印象をあたえている。交渉というものは存在しない。国民は連合国との関係においての日本政府の地位について、誤った観念を抱くことを許されるべきではない。
 最高司令官は日本政府に命令する……交渉するのではない。交渉は対等のもの同士のあいだで行われるのである。日本人は、すでに世界の尊敬を獲得し、最高司令官の命令に関して〝交渉する”ことのできる地位を得たと信じるようなことがあってはならない。
 ・・・今後日本国民に配布される記事は、一層厳重な検閲を受けることになる。新聞とラジオは引続き100パーセント検閲される。虚偽の報道や人心を誤らせる報道は許されない。連合国に対する破廉恥的批判も然りである。日本政府は直ちにこの方針を実施に移す手続きをとらねばならない。もし日本政府がやらなければ、最高司令部が自らこれを行う。(P176~177)

同書

 江藤淳はこの命令文について次のような解釈をしている。

 フーヴァー大佐のこの声明文は、二つの意味できわめて重要な問題点に触れていた。その一つが対日基本政策に関するものであり、他の一つがその一翼を担う検閲政策に関するものであることはいうまでもない。
 対日基本政策についていえば、この声明はポツダム宣言の規定する双務的・相互拘束的な連合国との関係を、真っ向から否定していた。即ち合意による敗北の全称否定であり、征服による敗北の一方的な宣言である。(P181)

同書

 米国国務省はポツダム宣言発出当初、日本側と同様、この宣言が戦勝国、敗戦国による双務的・相互拘束的な契約文書であるという理解をしていたのである〔前出〕。同宣言は講和条約締結までのあいだ、日本と連合国との関係を規定すべき基本文書にほかならない。同宣言を日本が受諾した時点で、米国の対日占領政策の大本を拘束する協定文書となったのである。ところが、米国は同宣言の拘束を力ずくでかなぐり捨てた。江藤淳は以下のように書いている。

 民間検閲支隊長のフーヴァー大佐がこの力の最初の行使者の一人になったのは、検閲というものが本来力と言葉との接点に位置するものだからであり、力は言葉に影響を及ぼし、そのパラダイムを組み替えることができなければ、そもそも力の要件を喪失してしまうからである。(P182)

同書

 敗戦国日本の報道機関が伝えた〈真実〉は、占領する米国にとって不都合な真実、すなわち米国にとってなかったことである。真実かそうでないかを決定するのは〈力〉である。もしかりに、力をもつものが(その者にとって不都合な)真実を放置してしまえば、〈力〉を喪失してしまうことにつながる。それゆえに、真実は虚偽となる。江藤淳は次のように続ける。

 これはいうまでもなく、言葉のパラダイムの逆転であり、そのことをもってするアイデンティティの破壊である。以後4年間にわたるCCD検閲が一貫して意図したのはまさにこのことにほかならなかった。それは、換言すれば「邪悪」な日本と日本人の、思考と言語を通じての改造であり、さらにいえば日本を日本人以外の何者かにしようという企てであった。(P182)

同書

抵抗する日本の報道機関、弾圧強めるGHQ

 日本の報道各社は《フーヴァー大佐の声明を「なお一片の声明」として受け取ったに過ぎない(P186)》と江藤淳は書いている。声明を無視して、抵抗の姿勢を示す新聞、雑誌があとを絶たず、CCDはその都度、発行禁止と押収で対抗せざるを得なかった。まず「朝日新聞」が発行停止処分を受けた。その理由は、鳩山一郎の米軍批判を掲載したことによる。鳩山は、米国による原子爆弾使用、無辜の日本国民殺傷、病院船攻撃といった国際法違反、戦争犯罪を批判したのである。さらに「東洋経済新報」が押収された。理由は米軍の暴行批判の記事を掲載したことによる。

日本出版法

 日本出版法は、それ以前に発出された「日本新聞遵則」「日本放送遵則」を統合したものである。米国太平洋陸軍総司令部民事検閲部が発出し、以後6年間にわたり日本の言語空間を拘束した。その内容をみてみよう。

第一条 報道は厳に真実に則するを旨とすべし。
第二条 直接または間接に公安を害するが如きものはこれを掲載すべからず。
第三条 聯合国に関し虚偽的又は破壊的批評を加ふべからず。
第四条 聯合国占領軍に関し破壊的批評を為し又は軍に対し不信又は憤激を招来するが如き記事は一切之を掲載すべからず。 
第五条 聯合国軍隊の動向に関し、公式に記事解禁とならざる限り之を掲載し又は論議すべからず。 
第六条 報道記事は事実に則して之を掲載し、何等筆者の意見を加ふべからず。
第七条 報道記事は宣伝の目的を以て之に色彩を施すべからず。
第八条 宣伝を強化拡大せんが為に報道記事中の些末的事項を過当に強調すべからず。
第九条 報道記事は関係事項又は細目の省略に依って之を歪曲すべからず。
第十条 新聞の編輯に当たり、何等かの宣伝方針を確立し、若しくは発展せしめんが為の目的を以て記事を不当に顕著まらしむべからず。新聞界の政府からの分離 (P193~194)

同書

 条文は報道における普遍的なあり方を謳っていて、注目すべきものはない。しかし、同法発出以降、CCDの検閲は厳しさを増していく。CCDは、日本の政府と報道機関のあいだにくさびを打ち込んだ。連合国最高司令官官房から日本帝国政府に対する指令(経由・終戦連絡中央事務局)、すなわち「新聞界の政府からの分離に関する件」であった。その趣旨を要約すると、

一、日本政府によるニュース頒布に関する統制の廃止、新聞通信社に対する直接間接の管理の廃止。
二、いかなる通信社にたいしても優遇措置を与えないこと、外国通信社の活動の許可 
三、日本政府管理下の一切の通信施設を内外の通信社に公平に提供すること、日本本土内におけるニュース頒布が政府管理下にある組織の特権とならないよう措置すること 
四 通信省以外の機関による外電の接受を禁止している現行法令の廃止 
五 現行制度による本土内ニュースの頒布方式は、現行独占事業に替わるべき私企業が設立されるまで、厳重な検閲下に於いてのみ許可されること
P197~198

同書

 江藤淳はこう書いている。《一見して明らかなように、・・・同盟通信社に重ねて死の一撃を加えることを企図した指令にほかならなかった(P198)》。同社社長古野伊之助は3日後に同社解散の意向を明らかにした。

ジャーナリズムの国家に対する忠誠という「根本問題」

 同盟通信社解散後、GHQによる日本の新聞の忠誠心を試みるかのような事件が続発する。
・9月25日:天皇は「ニューヨークタイムズ」特派員フランク・クラックホーンとUP通信社社長ヒュー・ベイリーの2人の外国人記者にはじめて謁見を許した。2人のインタビューは即座に全世界に打電されたが、日本の新聞には数日間掲載されなかった。
・9月27日:天皇は自らの発意で米国大使館の赴き、マッカーサーを訪問した。「朝日新聞」は米国大使館で撮影されたモーニング姿の天皇と開襟シャツ姿のマッカーサーとのあの有名な記念写真の掲載を控えた。
・9月29日、占領軍総司令部から配布されたと思われる記念写真とインタビュー記事が各紙に掲載されると、内務省は直ちにこれを差押え、新聞の頒布を禁止した。その根拠は日本帝国が1909年に公布した「新聞紙法第23条」である。その規定は以下の通り。《内務大臣ハ新聞紙掲載ノ事項ニシテ安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スルモノト認ムルトキハ其ノ発売頒布ヲ禁止シ必要ノ場合二オイテハ之ヲ差押フルことヲ得・・・》

 江藤淳は次のように書いている。

 内務省は前出の「新聞界の政府からの分離」指令に真向から挑戦して日本の現行国内法を発動し、直截に新聞界の国家に対する忠誠を要求したのである。これは、とりも直さず(日本の)新聞に対し、総司令部と日本国家とのあいだで、いずれの価値を選択するかという、二者択一を迫る要求にほかならない。もし真実に連合国の「真実」と日本の「真実」との二つの「真実」があるなら、新聞は果たしてどちらの「真実」を選択しようとするか?またもしCCDと内務省との二つの検閲が存在するとすれば、新聞は果たしていずれの検閲に服従しようとするのか?天皇に関する報道は、期せずしてジャーナリズムの国家に対する忠誠という根本問題を提起した。(P201~202)

同書

 筆者の見解を示そう。天皇とマッカーサーの会談及び記念写真はGHQ、すなわち米国政府が企図した情報操作の一環である。礼服の天皇が普段着のマッカーサーとカメラに収まるということが意味するのは、天皇がマッカーサーに恭順の意を示している、という象徴的記号であって、天皇の意志によるものかどうかもわからないし、そのことはどうでもよい。写真は真実というよりも、そのような会談があった事実の証明であって、それがなにがしかの真実を証明するわけではない。
 占領下の日本政府が現行法(敗戦前の国内法である「新聞紙法」)を使って記念写真を差し押さえたのは、日本帝国についての評価をひとまず留保するならば、法治国家として当然のことである。
 1945年8月15日以降、連合軍が進駐してからの日本の状況はいわば、二重権力状態にあった。江藤淳は「ジャーナリズムの根本問題」というが、二重権力下、ジャーナリズムは2つの権力のどちらかに忠誠を尽くすことを決断しなければならないような機関ではない。近代主権国家におけるジャーナリズムは、けっきょくのところ、権力に従属せざるを得ず、力によって規定される存在になってしまう。
 ただ一点確認すべき重要なことは、米国がポツダム宣言という国際法を無視して、征服者、支配者として振舞ったということだ。一方の日本のジャーナリズムは、戦前、日本帝国下においては、天皇と帝国政府に忠誠を尽くした。そして、連合軍による占領下、それは新たな支配者である米国に忠誠を尽くすよう強要されている。占領下の日本帝国政府が米国による日本のジャーナリズムへの強制、強要を排除しようとするならば、もう一度、戦争をして連合軍を日本の地から追い出すしかない。なお、ジャーナリズムに対する、日本帝国流、米国流の検閲手法の違いについては、この後に詳述される。

GHQの容赦のない対応

 法務省による「抵抗」に対する総司令部側の対応と報復は迅速かつ容赦のないものだった。「新聞と言論の自由に関する新措置(9月27日付)」の発令である。同措置は8項目あり、▽日本政府は新聞、通信の自由に関する平時・戦時の制限措置を即時中止すること、▽新聞その他刊行物、無線、国際電信電話、国内電信電話、郵便、映画その他一切の文字及び音声に対する検閲は、最高司令部が特に承認した制限によってのみ取締られること、▽日本政府は、いかなる政策ないし意見を表明しようとも、新聞、その他発行者、または新聞社員に対して、懲罰的措置を講じてはならないこと、などが規定されている。この措置は一見すると戦前の日本帝国が行ってきた言論統制・弾圧からの解放を謳っているようだが、実態は言論統制の権限を日本帝国からGHQに移管しただけのことである。江藤淳はこの新措置の与えた影響について、《深刻な影響を、以後日本のジャーナリズム全体に対してあたえた》と憂慮してみせた。江藤の解釈をみてみよう。

 これによって新聞とその発行者および新聞社員は、「いかなる政策ないしは意見を表明しようとも」、決して日本政府から処罰されることがないという特権的地位をあたえられたからである。「いかなる」という以上、その「政策ないしは意見」は、日本にどのような不名誉と不利益をもたらすものであってもよい。換言すれば、この指令によって日本の新聞は、国家に対する忠誠義務から完全に解放されたのである。
 その代りに、新聞は、連合国最高司令官という外国権力の代表者の完全な管理下に置かれ、その「政策ないし意見」、要するに彼の代表する価値の代弁者に変質させられた。検閲が、新聞以下の言論機関を対象とする忠誠審査のシステムであることはいうまでもない。かくのごときものが、あたえられたという「言論の自由」なるものの実態であった。それは正確に、日本の言論機関に対する強制にほかならなかった。このとき以後、日本の新聞は、進んで連合国の「政策ないし意見」を鼓舞する以外に、存続と商業的発展の道を見出しえなくなった。(P205~206)

同書

ジャーナリズムは国家に忠誠を尽くすべきなのか

 筆者は江藤淳のこの立論を支持しない。その理由は、ジャーナリズムの理想のあり方とは、(それが実現できるかどうかは別として)、国家を超えたところにあると考えるからだ。日本のジャーナリズムは戦前・戦中、なかんずく戦中において、国家の広報部門として、大本営発表をたれ流し続けた。戦況の悪化を知りながら、国家の命ずるまま、そのことを隠蔽し続けた。日本のジャーナリズムは日本帝国軍隊が連合軍にたいして決定的に不利な状況にあることを知りながら、国民に報じなかった。本土決戦、竹槍攻撃を扇動した。同盟通信が外地における戦況を客観的に国民に報道していたならば、日本国内の厭戦気分を盛り上げ、反戦運動に結びついたかもしれない。米軍による、沖縄地上戦、都市無差別大空襲、広島・長崎核攻撃、そしてソ連参戦といった、日本の非戦闘員大虐殺を避けられた可能性があったかもしれない。
 そもそも、前出〔注3〕の通り、同盟通信社は日本帝国が中国侵略を開始した満州事変(1931)を機に設立が議論され、1936年に設立された国策通信社である。その翌年、日華事変(日中戦争)が始まったことは同盟通信社の設立の意味を象徴する。同盟通信は日本帝国と一体的な、すなわち、日本帝国の情報機関の一部と見なして差しつかえない。
 占領下、同盟通信は連合軍の非を報道した。それは結構なことである。占領軍の非道は断固非難されるべきである。だが、そのことは同盟通信がジャーナリズムの理想のあり方である正義と公正を貫いた結果としての報道であったのかについては疑問符がつく。同盟通信はポツダム宣言の規定により生じた二重権力下、敗戦国である日本帝国の利益のため、占領軍を貶める情報を世界に流したのではないか。同盟通信は日本国民、日本の生活者に目を向けたわけではない。同盟通信は権力者すなわちこの時点で、敗戦国・日本帝国の一部であり続けたのである。
 一方のGHQも占領軍兵士のモラル崩壊を律することができなかった。そのことを報道されると、検閲強化で報道機関を締め付けた。征服者として振舞ったのである。勝者米国にも、敗者日本帝国にも、報道における正義は存在しなかった。前出の通り、GHQは、戦時下、日本帝国政府が報道機関に課した制限措置を即時中止すること、その代替措置として、GHQが言論・報道を検閲することとし、その限りにおける、すなわち、戦勝国である米国に都合のいい報道・言論の自由を日本にもたらしたにすぎない。
 敗戦国日本における「民主主義=表現の自由」の出発点すなわち原点は、かくも貧しく不正義に満ち満ちたものであることを江藤淳は立証した。日本帝国による検閲は占領軍によって廃止されたけれど、占領軍による新たな検閲が開始されたにすぎなかったのだから。

GHQによる、さらなる検閲体制の整備と強化(PPBの新設)

 9月30日以降、GHQは占領下の日本における検閲体制を整備するとともに、一層の強化を図った。まず、CCD内に前出の新聞映画放送部(PPB/Press,Pictorial and Broadcast Division)を新設した。PPBは、日本の新聞、あらゆる形態の印刷物、通信社経由のニュース、ラジオ、ニュース映画および劇映画を通じて日本国民に頒布されるあらゆる題材の検閲を所管し、それらはすべて、PPBの事前検閲を受けなければならなくなった。
 日本のニュース映画プリントも試写の段階で検閲されるようになった。日本で製作される一切の映画、宣伝媒体に属する他の娯楽も事前検閲を受けるようになった。PPB内の調査課は、日本の出版社と出版物の背景を調査し、情報記録部の作成する報告書の部分的裏付けとして、種々の報道に対する日本人の反応を査定することとなった。

秘匿された検閲体制

 日本におけるニュース報道、映画、出版は事前検閲を余儀なくされたばかりか、PPBによる事前検閲を秘匿することが義務付けられた。秘匿の強制は、検閲者と被検閲者のあいだいに否応なく闇を成立させている価値観を共有させられてしまうと、江藤淳はいう。

 これは、いうまでもなく、検閲者と被検閲者のあいだにおけるタブーの共有である。この両者の立場は、他のあらゆる点で対立している。戦勝国民と敗戦国民、占領者と非占領者、米国人と日本人、検閲者とジャーナリスト。だが、それにもかかわらずこの表の世界での対立者は、影と闇の世界では一点で固く手を握り合せている。検閲の存在をあくまで秘匿し尽くすという黙契に関するかぎり、被検閲者はたちどころに検閲者との緊密な協力関係に組み入れられてしまうからである。(P222)

同書

 被検閲者は検閲という強制に反感、抵抗を示すのではなかという一般的通念を、江藤は否定する。むしろ秘匿という関係性を強制されることにより、検閲者と一体化してしまうというのである。江藤は、このような傾向を文化人類学におけるタブーの伝染という現象で説明する。この部分はおそらく、同書のクライマックスというべき箇所なので書き抜いておく。

 タブーは伝染すると、文化人類学者はいっている。「タブーとなっている人や物に接触したものは、それ自体がもとのタブー同様、危険なものとなり、新たな伝染の中心となり、共同体にとっての新たな危険の源泉となる。」つまり、被検閲者は、タブーとの接触の結果、「もとのタブー同様危険なもの」に変質し、「新たな汚染の中心」となり、必然的に「共同体にとっての新たな危険」の源泉とならざるを得ない。
 この伝染現象の動因となっているのは、恐怖以外のなにものでもない。検閲者側における「邪悪」な日本に対する恐怖と、被検閲者の側における闇の彼方にいて殺生与奪の権を握っている者たちへの恐怖ーー新聞関係者を、国家に対する忠誠義務から解放した「新聞と言論の自由に対する新措置」指令のごときも、それだけではおそらく占領軍当局の期待通りの効果を発揮しなかったにちがいない。表の世界の〝解放″は、影と闇の世界の黙契を支える〝恐怖”の裏付けを得て、はじめて日本人の「精神にまで立入り」、これを変質させる手がかりをつかんだのである。
 重要なことは、検閲の存在をあくまで秘匿するというCCDの検閲の構造そもののなかに、被検閲者にタブーを伝染させる最も有効な装置が仕掛けられていた、ということである。この点で、CCDの実施した占領下の検閲は、従来日本で国家権力がおこなったどのような検閲と比較しても、全く異質なものだったといわなければならない。(後略)
 ・・・戦前戦中の日本の国家権力による検閲は、接触を禁止するための検閲であった・・・天皇、国体、あるいは危険思想等々は、それとの接触が共同体に「危険」と「汚染」をもたらすタブーとして、厳重に隔離されなければならなかった。被検閲者と国民は、いわば国家権力によって眼かくしをされたのである。
 これに対して、CCDの検閲は、接触を不可避にするための検閲であった。それは検閲の秘匿を媒介にして被検閲者を敢えてタブーに接触させ、共犯関係に誘い込むことを目的としていた。いったんタブーに触れた被検閲者たちが、「新たな汚染の中心」となり、「邪悪」な日本の「共同体」にとっての「新たな危険の源泉」となることこそ、検閲者の意図したところであった。要するに占領軍当局の究極の目的は、いわば日本人にわれとわが眼を刳り貫かせ、肉眼のかわりにアメリカ製の義眼を嵌め込むことにあった。(P222~223)

同書

(四)GHQによる日本人の意識調査

CCDは私信をも開封した

 占領下における民間人の私信を開封し、検閲及び民意調査の任に当たったCCDは、CI&E(Covil Infomation and Education Section,民間情報教育局)によってコントロールされていた。CCD郵便部は月間400万通の私信を開封し、詳細にその内容を検討していた。また、CCD電信電話部は2万5000の電話を会話を盗聴していた。とりわけ戦犯容疑者の私信については検閲スタッフに「業務規則」を定めた。
 CCDが目指したのは新聞・雑誌・放送・映画等の事前検閲と民間私信の検閲を通じて、勝者(占領軍)に対する敗者(日本人)が抱いている感情に係る情報を収集し、占領政策に反映させていたことになる。そればかりではない。CCDは在日米国人、外国人、連合軍兵士の私信も検閲していたことがわかっている。日本人に同情したり、協力的である連合軍兵士、米国を含む海外のジャーナリストらが「注意人物」としてマークされたのである。

(五)ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画)

 CCDが日本の報道・言論機関及び民間私信を徹底的に検閲し情報収集に当たった最大の理由の一つが、「極東国際軍事裁判」を控えての戦犯容疑者と戦犯裁判に対する日本国民感情の動きの察知であった。米国が最も恐れたのは、極東国際軍事裁判批判が占領下日本に湧き起こり、占領軍に対する敵意、憎悪が再燃する事態だった。その予防策としてCI&E(民間情報教育局)が構築したのが「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」すなわち戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画である。

戦争を起こした軍国主義者が悪い

 同事業は先述した、占領下の日本人が占領軍に抱いている感情についての調査に基づき立案計画されたことはいうまでもない。同プログラムの目的は、CI&E(民間情報教育局)からG-2(SIS・Civil Inteligence Section・参謀第二部民間諜報局)に宛てた文書に明記されている。

「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(1948/2/6)」
一、CIS局長と、CI&E局長、およびその代理者間の最近の会議にもとづき、民間情報教育局は、ここに同局が、日本人の心に国家の罪とその淵源に関する自覚を植えつける目的で、開始しかつこれまでに影響を及ぼして来た民間情報活動の概要を提出すものである。文書の末尾には勧告が添付されているが、この勧告は、同局が、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」の続行に当り、かつまたこの「プログラム」を、広島・長崎への原爆投下に対する日本人の態度と、東京裁判中に吹聴されている超国家主義的宣伝への、一連の態度への、一連の対抗措置を含むものにまで拡大するに当って、採用されるべき基本的な理念、および一般的または特殊な種々の方法について述べている。(P262)

同書

 同文書には、「占領の初期においてCI&Eが民間情報の分野で一連の『ウォー・ギルト』活動を開始していた事実に触れており、それが一般命令第4号(SCAP・1945/10/2. 第2項”a”(3)にもとづくものであることがあきらかにされている。この条項は次の通りである。

 左の如く勧告する。(中略)
(3)各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること。(P263)

同書

 同プログラムの目的・企図は明確である。それは敗戦により日本人にもたらされた惨状(戦争被害及び飢餓窮乏)は、戦勝国である連合軍によるものではなく、戦争を引き起こした日本の軍国主義者のせいである。ゆえに、連合国は日本の軍国主義者にその責任を負わせるために(日本を)占領しつづけ、いまおこなわれている軍国主義者による超国家主義的宣伝に対抗するのである、と。

『太平洋戦争史』の連載企画

宣伝文書か戦勝国の戦史か

 同戦史は約1万5千語の分量をもつ連載企画で、CI&Eが準備し、G-3(参謀第三部)の戦史官の校閲を経たものである。1945年12月8日に掲載され、以後ほとんどのあらゆる日本の日刊紙に連載された。『太平洋戦争史』は、江藤淳に言わせれば、《歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖したという意味で、ほとんどCCDの検閲に匹敵する深刻な影響力を及ぼした宣伝文書である(P264)》という。マッカーサー司令部はこの連載の第1回を新聞見開き2頁に組み込むために「聯合軍司令部提供」というクレジットのはいった用紙を各新聞社に特配した。その前書には、こう記されている。

 日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙に遑がないほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されてゐるものの、その多くは未だ白日の下に曝されておらず、時のたつに従って次々に動かすことのできぬ明瞭な資料によって発表されて行くことにならう。
 これらの戦争犯罪の主なものは軍国主義者の権力濫用、国民の自由剥奪、捕虜および非戦闘員に対する国際慣習を無視した政府並びに軍部の非道なる取扱い等であるが、これらのうち何といっても彼らの非道なる行為の中で最も重大な結果をもたらしたものは真実の隠蔽であらう。(P265)

同書

以下、その要旨を書くと、

・軍国主義者により真実の隠蔽は1925年(大正14年)に議会を通過した治安維持法から始まった。この法律により、国民の言論は圧迫され、20年にわたり政治犯の人権が圧迫された。
・1930年、日本の政治史は政治的陰謀、粛清、軍閥の専制政治に反対した政府高官の暗殺によって一大転換期を画した。
・1933~1936年の間に、「危険思想」の抱懐者、主張者、実行者という嫌疑で検挙された者は5万9千を超えた。また、荒木大将の下で思想取締中枢部組織網が厳重な統率下に編成され、国民に対し、その指導者(軍国主義者)の言に盲従することと一切の批判を許さぬことが教えられるに至った。
・1936年2月の「二.二六事件」により軍国主義者の支配力が増大するに伴い検閲の法規が強化され言論の自由が簒奪されるための新しい法律が制定され、支那事変より連合軍との戦争遂行中継続された。
・日英、日米戦争の戦局が進み(日本帝国軍が後退するに従い)軍部の地位が維持しにくくなるにつれて日本帝国当局の戦況報告は真実から遠くなっていき、日本帝国軍が多くの戦線で敗退し海軍が存在しなくなってからもその真実は公表されなかった。
・天皇御自身が仰せらているとおり、日本が警告なしに真珠湾を攻撃したことは陛下自身の御意思ではなかったにもかかわらず、憲兵はこの情報が国民に知らされることを極力防止した。(P265~266)

同書

 『太平洋戦争史』宣伝文書の最後の文書にはこう書かれている。

 聯合国最高司令官は1945年(昭和20年)10月5日治安維持法の撤廃を命令し、新聞に対するこの制度を破壊する方法をとり戦争に関する完全な情報を日本国民に与へるよう布告した。今や日本国民が今次戦争の完全なる歴史を知ることは絶対に必要である。日本国民はこれによって如何にして敗れたか、又何故に軍国主義によってか々る悲惨な目に遭わねばならぬかを理解することが出来よう。これによってのみ日本国民は軍国主義的行為に反抗し国際社会の一員としての国家を再建するための知識と気力を持ち得るのである。か々る観点から米軍司令部当局は日本及び日本国民を今日の運命に導いた事件を取扱った特別記事を提供するものである。(P266~267)

同書

『太平洋戦争史』を読む

 同戦史は、江藤淳の説明の通り、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の趣意により、GHQによる宣伝占領政策の一つであったが、書籍として、1946年4月、高山書院から聯合軍総司令部民間情報教育局資料提供、中屋健弌訳で刊行されている。もともとの副題は「奉天事件よりミゾリー号(戦艦ミズーリ)降伏調印まで」と記されたが、書籍では 「奉天事件より無条件降伏まで」に変えられている。同書のプランゲ文庫所蔵版〔注4〕を国会図書館提供によるデジタルサービスで読むことができるので、機会があれば目をとおしてみるのもいいと思う。
 実際に読んでみると、戦勝国の戦史であるから、日本帝国軍は悪であり、その無様な戦いぶりが強調されている部分もあるが、日本人を洗脳するほど強烈な内容ではない。気になったのは、1930年代の「二.二六事件」に係る記述の浅さである。たとえば、日本帝国軍内における皇統派、統制派の対立といった基本的史実が抜けている欠陥がある。とはいえ、戦勝国にとっては、考慮するほどのない史実と考えらなくもない。
 江藤淳を激高させた個所はおそらく、南京、マニラにおける日本帝国軍の残虐行為に係る記述だったかもしれない。日本帝国軍の残虐行為=戦争犯罪は今日まで論争が継続している問題でもある。時の経過とともに戦争体験者が減少するばかりであるから、告白、証言等の記録が増えることはない。なによりも、歴史の修正だけは避けなければならない。

〔注4〕プランゲ文庫;米国メリーランド大学付属マッケルディン図書館東亜図書部に所蔵されている占領下の日本の書籍、小冊子、雑誌、新聞等の資料。これらは、占領中、CCD(米軍民間検閲支隊)の検閲を受けたもの。同大学史学教官だったゴードン・W・プランゲ博士がGHQ参謀第二部(G-2)の戦史室に勤務していた因縁による。江藤淳は本書を著わすため、同図書館に日参したという。

CI&E、日本帝国教育修正を強要

 CI&Eは『太平洋戦争史』を教材に使用させて広く日本人に読ませると同時に、日本帝国下の教育の修正を指示した。これを受けて1946/01/16、文部次官は地方長官と各学校長宛てに「修身、国史、地理科授業停止二関スル件」と題する「依命通牒」を発した。江藤淳は次のように書いている。

 それは、とりもなおさず、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の浸透であった。『太平洋戦争史』は、まさにその「プログラム」の嚆矢として作成された文書にほかならないからである。歴史記述をよそおってはいるが、これが宣伝文書以外のなにものでもないことは、前掲の前書を一読しただけでも明らかだといわなければならない。そこにはまず、「日本の軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」との戦いにすり替えようとする底意が秘められている。
 これは、いうまでもなく、戦争の内在化、あるいは革命化にほかならない。「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起こった災厄であって、実際に爆弾を落とした米国人には少しも悪いことはない、ということになるのである。
 そして、もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は一応初期の目的を達したといってよい。つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいないから。(P270~271)

同書

GHQが提供した『太平洋戦争史』は戦後日本の歴史記述を規定したのか

 筆者の受け止めである。まず、『太平洋戦争史』宣伝文書中の日本帝国の近現代史に関する大雑把な記述に異論はない。日本帝国は基本的人権を認めない専軍国家であった。自由主義者、社会主義者、共産主義者が拷問を受け、獄中につながれた。当然、表現の自由、報道の自由は著しく制限された。前出の通り、戦中における大本営発表は、真実を隠蔽した。
 次に開戦~敗戦についてである。その責任はだれが負うべきなのか。開戦については、戦争を指導した天皇を含めた政府・軍部はもちろん、それを扇動したメディア、開戦を支持した日本国民にある。ところで、戦争というものは完全に相手国に勝つまで、つまり相手国が消滅するまでやるものではない。反対に、戦局がきわめて不利になった時点で休戦あるいは降伏することが肝要である。戦況に係る情報が完全に遮断されたような状況では、国民が厭戦、反戦の意思を組織して、政府に迫ることは難しかろう。となると、戦況を把握できる立場にある軍部・政府・メディアが停戦に向かう義務を負う。大戦末期の日本帝国で天皇がその立場にあったかどうかは筆者にはわからないが、日本の公式の歴史では、天皇が降伏(敗戦)を容認したことになっている。
 戦争犯罪についてはどうなのか。そのことは戦勝国、敗戦国ともに情報公開されるべきである。この大戦における、前者の核爆弾の使用、都市無差別空爆、占領後の戦勝国兵士等による犯罪は厳しく罰せられるべきである。後者についても言うに及ばない。
 米国の作になる『太平洋戦争史』が日本の軍国主義を批判し、戦争責任を問うた戦史として発表されること、そして、それを読んだ日本国民が自ら支持した戦争とその結果を反省すべき材料の一つとして読まれることはやぶさかでない。日本帝国政府およびその国民が戦争責任を負うことを以て、はじめて、この戦争は終結する。
 江藤淳が力説するGHQの洗脳プログラム(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の駆使についてどう考えるか。日本人が占領軍=戦勝国に敵意を向けないよう仕向けたということ、すなわち、日本国民を情報宣伝で教育し、日本の軍国主義者に戦争の犠牲の責任と戦中戦後の惨禍のすべて負わせるよう仕向けたことを認めないわけにはいかない。その結果、今日に至るまで、日本国民は戦争責任を無罪放免された、と考えてしまっている部分がある。日本帝国が突き進んだ戦争と敗戦がまるで他人事になり、戦争主体を構成したはずの国民が虚妄の歴史を背負い込み、反省を放棄してしまったのである。
 日本国民が関与しなかった戦争などあるはずがない。日本国民はときの政府の戦争の選択を支持すると同時に、日本帝国軍の侵略的軍事行動に喝采をおくった。それも日本帝国による日本国民に対する洗脳の結果かもしれないが、国は滅亡の危機に瀕し、多くの犠牲者を出して敗戦に至った。日本人すべてが戦争(犯罪)を反省し、侵略した周辺国に謝罪し、非戦の誓いを立てなければならないのである。日本帝国の洗脳の被害者なのだから、戦争責任はない、という論理は通用しない。よしんば洗脳状態にあったとしても、洗脳が解けた段階、すなわち戦争当事者だったことを自覚したとき、連合軍の戦争犯罪をはじめて糾弾できる。
 前出の吉本隆明は、『「世界-民族-国家」空間と沖縄』という講演(『敗北の構造 吉本隆明講演集』弓立社)の中で、「ある一つの〈古い共同体〉は、べつの〈新しい一つの共同体〉と接触すると、いろいろな意味で、矛盾や逆立を起こすこと、共同体を成立せしめている〈意識〉が、閉鎖的であればあるほど、あるいは、内攻的であればあるほど、その共同体は、どういうイデオロギーによって支配されていおうと、すぐに逆転しうる」という意味の発言をし、そのうえで、戦争中、沖縄で集団自決を命令したといわれる島の守備隊長が慰霊祭への出席を沖縄教職員組合に阻止された「事件」の真相を語っている。吉本によると、元守備隊長が教職員組合が出席について話し合っているとき、彼は出席拒否の組合員に対して「ならばほんとうのことを言おうか」と開き直ったという。そしてそのとき、組合員は激しくいきり立ったという。普通に考えれば、教職員組合は革新・平和主義者で、元守備隊長は軍国ファシズムの権化だと考えて当たり前のように思える。
 では、ほんとうのこととは何か――吉本は、〝集団自決はそこに駐屯していた軍の命令で起こったのではなく、自発的に集団自殺しうる要素が、沖縄の住民のなかにあった、という契機が重要だと言い、元守備隊長の出席を阻止した沖縄の教職員たちは、多少の例外があるとしても、熱狂的な戦争推進勢力だった、と指摘したうえで、沖縄の教職員というのは、かつて教師であるとともに、呪術師的要素をもっていて、本土では想像できない影響力を住民に持っていた”と断言した。呪術師的威力を有した熱狂的戦争推進者である沖縄の教職員たちが、戦後、熱烈な「平和主義者」に逆立するパターンが読み取れる。この逆立は〈孤島沖縄〉の教職員にかぎられたことではない。〈日本列島〉のおよそ全島民、すなわち、日本国民にあてはまるのではないか。

〈大東亜戦争〉か〈太平洋戦争〉か

 江藤淳は、『太平洋戦争史』の宣伝文書における〈太平洋戦争〉という用語に著しいアレルギーを示し、次のように書いている。

 この宣伝文書は、まず、「太平洋戦争」という呼称を日本語の言語空間に導入したという意味で、歴史的な役割を果たしている。新しい呼称の導入は、当然それまでの呼称の禁止を伴い(中略)、昭和20年(1945)12月15日、「大東亜戦争」という呼称は、・・・禁止を命じられた。(後略)
 つまり・・・わずか一週間のあいだに、日本人が戦った戦争、「大東亜戦争」はその存在と意義を抹殺され、その欠落の跡に米国人の戦った戦争、「太平洋戦争」が嵌め込まれた。これはもとより、単なる用語の入れ替えにとどまらない。戦争の呼称が入れ替えられるのと同時に、その戦争に託されていた意味と価値観もまた、その儘入れ替えられずにはいないからである。すなわち、用語の入れ替えは、必然的に歴史記述のパラダイムの組み替えを伴わずには措かない。しかし、このパラダイムの組み替えは、決して日本人の自発的な意志によって成就したものではなく、外国占領権力の強制と禁止によって強行されたものだったのである。(P267~268)

同書

 江藤淳の指摘は半分正しいと筆者は考える。先の大戦を何と呼ぶか、今日では「アジア・太平洋戦争」という呼称が定着しているように思う。江藤が拘る〈大東亜戦争〉の大東亜とは、日本帝国時代、東アジア(「日満支」)に東南アジア、南方を加えた地域を意味していたと考えていい。それには日本帝国が全アジアを植民地化するという、戦争の「存在と意義」が主観的に表出されていた。
 先の大戦における日本帝国の主戦場は、①中国、②東南アジア、③日本を含む広大な太平洋地域ーーの3地域であった。①は1931年の満州事変を嚆矢として1945年の日本の敗戦で終結した長きにわたる戦争地域である。②は「仏印進駐」と呼ばれるもので、日本帝国軍は1940年に北印に、41年に南印に進駐を開始し、英米と対峙し日米戦争へと発展する。日本帝国による真珠湾攻撃の契機となった地域である。そして、③は日本帝国が先制攻撃した太平洋上に浮かぶハワイ諸島を皮切りに、フィリピン、ニューギニア、オーストラリア近傍と、広域におよぶ。日米の戦況の転換点といわれるミッドウエー海戦、マリアナ沖海戦はハワイ諸島西の洋上である。以降、連合軍は日本軍を追尾する格好で太平洋を西に向かい、点在するいくつかの島嶼部を経て沖縄を攻略、日本列島まで迫ったところで戦争は終わった。日本帝国がいう〈大東亜戦争〉も戦争の全体像を正しくとらえていないが、米国がいう〈太平洋戦争〉も米国に偏向した呼称である。
 江藤淳がいうように、戦後、歴史記述のパラダイム転換はあった。それは日本帝国が目指した全アジア(大東亜)の植民地化という戦争の存在意義が日本帝国の敗戦により頓挫し消滅したことによる。その結果、占領軍が戦争の呼称を修正することは間違ってはいないが、検閲により訂正した呼称が米国に偏りすぎて間違った。歴史を修正することはできないが、用語の誤りならば後年、いくらでも訂正することができる。

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの「正当性」の法的視点

 日本帝国はポツダム宣言を無条件で、すなわち、そこに書いてある文言を無条件で受諾した。そこにはーー
 4.日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
 5.我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
 6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。
 ーーと書かれている。であるから、敗戦国日本は軍国主義者の指導を退け、理性の道を歩まねばならないのであり、同宣言を発出した戦勝国(米・中・英)が日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力、すなわち日本帝国の指導者を永久に除去する(すなわち極刑を含む)ことを受諾したことになる。日本帝国の終焉と日本国の出発は、軍国主義者の永久排除が条件づけられていたのであり、それを受諾してしまった以上、覆すことは難しい。

極東国際軍事裁判と『太平洋戦争史』

 江藤淳は書いている。

 米国がつくった『太平洋戦争史』は日本人が戦争をはじめた罪とこれまで日本人に知らされていなかった歴史の真相を強調するだけでなく、特に南京とマニラにおける日本軍の残虐行為を強調している。また、この連載がはじまる前に、マニラにおける山下裁判、横浜法廷で裁かれているB.C級戦犯容疑者リストの発表と関連して、戦時中の残虐行為を強調した日本の新聞向けのインフォーメーション・プログラムが実施された。この「プログラムは」は、12月8日以降は『太平洋戦争史』の連載と相呼応することになった。(後略)
 この「プログラム」が、以後正確に戦犯容疑者の逮捕や、戦犯裁判の節目節目に時期を合せて展開されて行ったという事実は、軽々に看過することができない。つまりそれは、日本の敗北を、「一時的かつ一過性のものとしてしか受け取っていない」大方の国民感情に対する、執拗な挑戦であった。(P 263~264)

同書

 日本人の敗北に対する受け止めが「一時的かつ一過性のものであった」、という江藤淳の記述はどのようなことを意味するのか、筆者にはよくわからない。文字通り、日本人は戦争も敗戦も一時的かつ一過性だと考えていたということでいいのだろうか。文字通りならば、筆者は、この記述を容認しない。沖縄戦は本土決戦準備のための「捨て石作戦」だと位置付けられた。その結果、沖縄での日米両軍および民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。その内訳は日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人であるとされている。戦前の沖縄県の人口は約49万人であり、実に沖縄県民の約4人に1人が亡くなったことになる。そればかりではない。沖縄方言を話す沖縄県人が本土からきた日本兵によって「スパイ容疑」で処刑されたともいう。このような事実が戦争直後、GHQによって公表されたことが、「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」に該当するのだろうか。日本帝国が戦時中に行った戦争犯罪はすべての日本人が知らなければならない事柄だと考える。
 さて、『太平洋戦争史』は文字媒体(新聞および教材採用)にとどまらず、『真相はこうだ』と題するラジオによるキャンペーンが展開された。これは同戦史を劇化したもので1945年12月9日から1946年2月10日まで、10週間にわたって週一回放送された。それと同時に日本の放送ネットワークに同番組の質問番組を設けた。ここまでがCI&Eがつくりあげたプログラムの第一段階である。

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの第二段階

 1946年初頭から開始された第二段階はプログラムが更新され、《民主化と、国際社会に秩序ある平和な一員として仲間入りできるような将来の日本への希望に力点を置く方法が採用された(P275)》という。その活動の概要は以下の通りである。

a.新聞
 (一)週三回の記者会見、毎日の報道提供、新聞社幹部等、活動の大部分は民主化を強調するプログランにあてられる。CI&Eにより、占領のあらゆる面(政治、行政、社会風潮、経済、公衆衛生、福祉、海外貿易等)に関する詳細な情報と説明と質疑応答が日本の新聞によって処理される。 SCAP( Supreme Commander of the Allied Powers:連合国軍最高司令官総司令部)は新聞を通じて、何を日本人に助言し援助するかを示す。CI&Eはまた、日本の民主化達成のみならず、経済的、社会的自立のために必要な、詳細な理念と方法を保有している。
 (二)民主化の過程を進行させる一方で、日本の戦争に関する罪や、破滅をもたらした超国家主義に直接言及し、罪悪感を扶植する努力をおざなりにしない。1946年6月に東京裁判が開廷されるに先立って、CI&Eは国際検事局のために2回の記者会見、弁護団のために1回の記者会見を開催。この記者会見には、共同通信と全国の代表的な新聞記者が出席した。国際法廷の目的と手続きについて入念な解説が行われ、同様に入念な報道が行われた。横浜では、同地で裁かれるB級戦犯を目的とする「インフォメーション・プログラム」が開始され、これに関連して一連の記者会見が開かれた。
 (三)裁判に関する一切の情報を日本の新聞に取得させるために、特に注意が払われているが、とりわけ、検察側の論点と検察側証人の証言については、最大漏らさず伝えらえるよう努力している。
 (四)CIC(対敵諜報部隊/ Counter Intelligence Corps)およびCI&Eの新聞出版班の活動を通じて、新聞や雑誌の幹部に対し、公式の席上や日常の記者会見の席上で、戦前戦中の日本の報道機関の腐敗ぶりを指摘する試みが、繰り返しおこなわれている。日本の侵略と、軍国主義政府のお先棒をかついだ新聞の役割と関係は、動かしがたいものだと力説することにしている。(P276/筆者による省略等あり)

同書

 江藤淳は1947年7月7日に開催された、日本新聞協会年次総会における主賓のD.Cインボデン少佐(CI&E新聞課長)の次のような発言を引用している。

 二、三の日本の新聞編集者と会談したところ、この人々は、新聞が政治上の議論に容喙する責務はないと思うと語った。私は不同意を表明しなければならない。私は確信するが、もし戦前に日本の新聞が政治上の議論に影響力を行使していたならば、東條とその一味徒党は、日本を含む今日のような悲惨な状況に陥れようとはせず、またしようとしてもできなかったであろう。(P276~277)

同書

 この発言はアメリカ合衆国と日本帝国における新聞(ジャーナリズム)のあり方に係る認識の差からくるものだと思われる。前者においては、ジャーナリズムにおける「不偏不党」という認識がない。客観的事実、あったこと、起こったことを報道するのはNEWS、つまり情報であって、新聞がそこに立脚するかぎり、権力をチエックすることができない。政府が公表することを伝えるだけならば、政府広報の位置にとどまってしまう。だから、インボデン少佐の日本の新聞に対する批判は正論である。ただし、対外戦争という異常事態における報道の自由がどこまで許容されるかについては議論が必要だということ。米国では先述(同書第一部第3章で江藤みずからが検証を行っている)したように、第一次世界大戦を契機として、その議論が深まっていたのだが、日本帝国においてはまったく議論される気配すらなかった。日本帝国においてはつねに「ジャーナリズム」は権力と一体的であり、権力の広報・宣伝・洗脳・煽動の役割を果たしてきた。たとえば、大戦の契機となった1931年の満州事変における軍部の独走について、新聞が国民に対して議論を呼びかけた形跡が認められない。もちろん、1941年の真珠湾攻撃もしかりである。

極東国際軍事裁判とウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム

 極東国際軍事裁判最終論告と最終弁論を目前に控えた1948年2月6日、戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画は第三段階を迎えた、と江藤淳は言う。占領軍にとって緊迫した情勢を反映しての実施である。GHQはそのプログラムを開始するに当たって次のような現状分析を行っていた。江藤が引用したG-2の資料である。

 五、G-2(CIS・参謀第二民間諜報局)のみから得られる口頭の報告にもとづき、当CI&Eは左のごとく諄解する。
 a 合衆国内の一部の科学者、聖職者、作家、ジャーナリズムおよび職業的社会運動家たちの論説や公式発言に示唆されて、日本の一部の個人ないしグループが、広島と長崎への原爆投下に〝残虐行為”の烙印を押しはじめている。さらにこれらアメリカ人のあいだには、一部の日本の国民感情を反映して、将来広島でアメリカの基金によって行われるべき教育的・人道主義的運動は、何であろうとすべてこのいわゆる〝残虐行為”に対する〝贖罪”の精神で行われるべきだという感情が、次第に高まりつつある。
 b 一部の日本人、特に世界と同胞に対して、日本の侵略と超国家主義を正当化しようとしている分子のあいだには、東條は自分の立場を堂々と説得力を以て陳述したので、その勇気を国民に称賛されるべきだという気運が高まりつつある。この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねない。
 c この二点は、両々相俟って、現在なりを潜めている超国家主義者たちが、占領終了後に再び地歩を固めようとするに当たって格好の証拠となるものである。(P280)

同書

 この分析内容は、米国(GHQ)が1948年の日本の情況をこのように認識していたのかーーという観点からして、たいへん興味深い。まず、米国による無差別核攻撃を非人道的だと批判する勢力が米国内に存在していたということ。これは驚きである。核攻撃批判が米国内から世界に広がれば、戦勝国=反ファシズム・民主主義のリーダーという米国の立場は一気に崩壊する可能性があった。そのような動きを回避するため、米国内において核攻撃を正当化するための世論操作があったものと想像できる。二点目は、日本国内に日本の侵略と超国家主義を正当化する勢力が敗戦直後においても内在していたということ。結果的には、なんとも皮肉なことに冷戦開始と同時に、その勢力は反共産主義の下、米国によって公職に復帰した。三点目は、無差別核攻撃と日本帝国軍の残虐行為を等価にしようとする米国の意図である。どちらも正当化できない戦争犯罪であることは論を待たない。

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム第三段階

 第三段階の同プログラムは米国による日本人洗脳の集大成というべき強力な内容である。かなりの分量になるが以下掲載する。

a 基本方針
 (一)直接かつ正面からの攻撃を目的とする宣伝計画は、双刃の刃となりかねず、大多数の世論を激昂させ、日本人を一致団結させることにもなりかねないので、極度の注意が肝要である。一方、現在入手可能な文書類は〝超国家主義者”と〝残虐行為”的思考が、一部少数の分子に限定されていることを示している。
 (二)全面的な宣伝実施との関連において、それがわが方の政策と矛盾しないかどうかという問題についても、考慮しなければならない。現在の政策は、日本の安上がりな再建をめざしており、そのためには早期講和が望ましいと考えられている。一方、問題の諸点について〝正面攻撃”を開始した場合、占領軍当局はアメリカ国民に対して、日本人は信頼に値せず、経済援助継続には問題があり、講和条約は望ましくないと、黙示的に認めることになる。
 (三)東條裁判と広島・長崎への〝残虐行為”はいずれも〝ウォー・ギルト”のうちに分類されてしかるべきものだという点については、大方の見解が一致している。しかしながら、その処理は左記の計画中に略述されている個々の方法によって多様化することができる。
b 一般的方法
 (一)超国家主義に対する解毒剤としての政治的情報・教育の強調(現在までに大規模に実施され、現に実施されつつあるが、さらに一層集中化された「プログラム」を展開中であり、承認を待っている)
 (二)超国家主義運動の復活を示すあらゆる具体的な動きを暴露し、細大漏らさず報道すること。そして、そのことによってそれらの動きを支える誤った思想を指摘し、その不可避な結果を明らかにすること。
 (三)影響力のある編集者、労働界、教育界おおび政界等々の指導者とつねに連絡を密にすること。そして、その際、全体主義国家に対する自由社会の長所を強調すること。
 (四)進歩的、自由主義的グループの組織発展を奨励すること。
c 特定の方法
 (一)新聞
  (a)CI&Eの新聞出版部は、特別任務に当たる新聞係将校(単数)を任命したが、その任務は、日本人編集者との連絡を維持し、前記b(三)に示されたイデオロギーを鼓舞するとともに、東條および他の戦争犯罪人裁判の最終弁論と評決について、客観的な論説と報道が行われるよう指導することにある。広島に関する報道もまた、任務のうちに含まれる。
  (b)極東国際軍事法廷に常駐する新聞出版係連絡係将校(女性)は、東條の最終弁論と評決の段階に特に留意して、引続き自由な新聞の目的と義務に関する広報活動を行うものとする。
  (c)新聞出版班は、1948年(昭和23年)4月に予定されている広島での原爆の碑献呈式に代表を派遣し、日本の新聞関係者がこの行事を正しく解釈するよう指導する。
  (d)東條と広島の双方について、SCAP各部局より新聞発表用に適切な材料を求められることになるものと思われるが、その材料は、パラグラフ五において指摘されている印象に対抗し得るものでなければならない。(マッカーサー元帥の声明が発表されれば、はなはだ有効と思料される)

 (二)ラジオ
  (a)CI&Eラジオ班は、戦犯裁判の継続中、パラグラフ四b(一)および(二)に略記されている線に沿って、引続き定期番組において「ウォー・ギルト」の主題を強調するものとする。また、パラグラフ四b(四)に略記されているその他の番組においても、常時「ウォー・ギルト」の主題に言及するものとする。
  (b)裁判での東條の最終弁論と評決の段階においては、大々的な材料および報道が計画されている。
  (c)CI&Eラジオ班特別代表一名が、日本の放送関係者に助言と指導を与える目的で、四月の献呈式の際広島に派遣される。

 (三)展示
  (a)CI&E展示班は、すでに戦犯裁判に関するポスター・シリーズの概要を準備し、関係SCAP各部局の承認を待っている。その主題は、何故に戦犯裁判が開かれるているか・・・いかに少数のグループが、国家と全世界を混沌のなかに投げ込んだか・・・にある。・・・平均的市民は自分の生活の問題についての真の発言権を持てなかった・・・誤った情報を鵜吞みにしたあげくの因果応報・・・軍艦、軍用機、弾薬等に費やされた金と、それが平和な目的のために用いられた場合、どれだけの家が建ち、電力の余裕が生じ、近代化が進んだかの比較等々・・・戦犯裁判から学ぶべき教訓の数々。
(P281~284)

同書

極東国際軍事裁判

 同裁判は、1946年5月3日から1948年11月12日にかけて行われた。ポツダム宣言第10項を法的根拠とし、連合国軍占領下の日本にて連合国が戦争犯罪人として指定した大日本帝国の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判である。11カ国(インド、オランダ、カナダ、イギリス、米国、オーストラリア、中国、ソ連、フランス、ニュージーランド、フィリピン)が裁判所に裁判官と検察官を提供した。弁護側は日米弁護士で構成された。極東国際軍事裁判に起訴された被告は合計28名であった。
 ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム第三段階はGHQが同裁判の進行を見据えつつ実施された。なかんずく、東條元首相の「東條口述書」の提出(2/18/1947)により彼が証言台に上ったとき(12/26/1947)、そして、キーナン首席検事の反対尋問とウエップ裁判長の尋問が終了(1/7/1948)したときーーを基点として、日本人の意識に変化が生じたことをGHQは察知し、日本人の戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画のさらなる強化が図られた、と江藤淳はとらえている。東條元首相の口述書の論旨はその末尾から読み取れる。便宜上、筆者がその論点ごとに番号を付した。
(一)日本帝国の方針は侵略・搾取ではなかった。
(二)適法に選ばれた内閣は憲法および法律に定められた手続きに従い事を処理していた。
(三)戦争をえらばざるを得なかった、つまり、自衛のための戦争だった。
(四)戦争が国際法上より見て正しいか否かの問題(その1)と、敗戦の責任いかんとの問題(その2)を明確に分けなければならない。
(その1)
 まずは外国との問題、すなわち法律的性格である。
 日本帝国の戦争は自衛戦であり国際法には違反しない。
 勝者(連合国)から国際犯罪として訴追され、また、敗戦国(日本帝国)の適法な官吏が個人的に国際法上の犯人また条約の違反者として糾弾されるとは考えられない。
(その2)
 敗戦の責任については当時の総理大臣である私(東條)の責任であり、その責任を衷心より受諾する。
 東條はキーナン首席検事との応酬においても、口述書の主張を翻さなかった。江藤淳はその一例として、東條が戦争勃発前に御前会議で決定した日米交渉日本側最終案(乙案)を米国が受け入れていたなら開戦はなかったとの主張を繰り返したという。では乙案とはなんなのか。

〔甲案〕
(1)日本は、通商の無差別原則が全世界に適用されるという前提の下に、太平洋全域及び中国における通商の無差別原則の適用を求めること、
(2)日独伊三国同盟の解釈については、「自衛権」のみだりな拡大をしないことを明確化するとともに、従来通り日本政府独自の解釈に基づくこと、
(3)撤兵問題については、中国からの撤退では華北及びモンゴルの一部と海南島に関しては日本・中国間の平和条約成立後およそ25年を目処として駐屯するが、それ以外の地では2年以内の完全撤退を目指し、仏領インドシナからは日中戦争が解決するか極東の平和が確立ししだい直ちに撤退すること
〔乙案〕
(1)日本・アメリカ両国は仏領インドシナ以外の東南アジア及び南太平洋地域に武力的進出を行なわないこと
(2)両国は蘭領インドシナにおいて物資獲得が保障されるように相互協力すること
(3)両国は通商関係を在アメリカ日本資産凍結以前の状態に復帰させること
(4)アメリカは日本・中国の和平の努力に支障を与える行動をしない

外務省外交史料館提供

 以下、キーナンと東條のやりとりをみてみる。

キーナン:もし米国が乙案の条件をうけ入れたならば真珠湾攻撃にはじまった開戦はなかったであろうか。
東條:乙案をきいていただければ勿論起こりません。その半分でもきいていただければ起こらなかったでしょう・・・もし米国が太平洋の平和ということを真に望んでおりますならば・・・それだけは付け加えます。
キーナン:一寸まちないさい、乙案のうちどの条件を受諾したならば・・・それを指摘されたい。
東條:どの項目でもです・・・あなたのお国が、真に太平洋の平和を欲し、譲歩をもってのぞんでくるならば・・・
キーナン:それは面白い。乙案のどの項目でも一項目でもアメリカが受諾したなら戦争は起こらなかったというのか。
東條:そういう意味です。米国が互譲の意思をもってのぞんでくるならば、条件の緩和は出来ると思っていた。
キーナン:この甲、乙両案を決定したとき、あなたはいたか。
東條:勿論、居合わせただけでなく、最高の責任者です。
キーナン:乙案は本問題に関する日本のアメリカに対する最後の言葉ではなかったか。
東條:米国に対する最後の言葉は12月7日に手交したものがそうである。その中間の11月26日にあなたの国からハル・ノートというものを叩きつけられたのです。(後略)
(P286~288)

同書(筆者により簡潔化した箇所あり)

 そして、1948年1月6日、反対尋問を終了するにあたって、キーナン首席検事がかたちをあらためるためて東條と正面から対峙し、「首相として戦争を起こしたことを、道徳的にも法律的にも間違ったことをしていなかったと考えるのか、ここに被告としての心境を聞きたい」と問い直したとき、東條元首相は、左手を証言台の上につき、胸を張った姿勢でキーナンに屹と向かい合い、「間違ったことはない、正しいことをしたと思う」と、声高にいい切った。〔後略〕(P289~290)

同書

東條口述書の矛盾

 先述した通り、日本帝国はポツダム宣言を無条件で受諾した。同裁判の根拠は、同宣言の以下の文言にある。再掲すればーー

4.日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
5.我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。

ポツダム宣言

 同宣言を受諾した以上、東條は罪状を認めていたことになる。犯罪者が裁判前に自白したようなものだ。もちろん、裁判で自白を否定することはできるが。
 さて、筆者の驚きは、この大戦を引き起こしたのが米国側だ、という東條の主張である。そのうえで、対米交渉の乙案を持ち出したことが意外である。東條が譲歩したという乙案は、日本帝国の中国侵略、仏印(フランス領インドシナ)進駐を既成事実として米国は黙認せよと、迫るものである。日本帝国が仏印に軍を進め駐留した背景は、ナチスドイツによるフランス占領があった。ナチスドイツと日本帝国は同盟関係にあったから、フランスの東南アジアにおける権益を日本帝国が独占することを意味する。ナチスドイツの勢力を東南アジアにおいて認めるということは、「反ファシズム」を掲げる勢力としては容認しがたいことにちがいない。米国が東條に譲歩するということは、ナチスドイツにたいして、アジアにおいて譲歩することを意味する。米国が譲歩するわけがない。そこで「ハル・ノート」である。

〔ハル・ノート〕
第一項「政策に関する相互宣言案」
1.一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
2.他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則
3.通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則
4.紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則
(略)
第二項「合衆国政府及日本国政府の採るべき措置」
1.イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
2.仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
3.日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
4.日米がアメリカの支援する蔣介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
5.英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
6.最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
7.アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除
8.円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
9.日米が第三国との間に締結した如何なる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しないことへの同意(三国同盟の事実上の空文化)
10.本協定内容の両国による推進

ハル・ノート

日本帝国軍、仏印進駐の経緯

 日本帝国による仏印進駐の第1回目は1940年5月、ナチスドイツによる侵攻によりフランスが劣勢になった時点で事実上開始され、同年9月にフランスにより条件付きで了承された。同年、日本帝国は、フランス、イギリスと戦争しているナチスドイツ・イタリアと三国同盟を締結し、英米仏と対立姿勢を明確化させた。これに反発したのが米国である。同年10月12日、三国条約に対する対抗措置を執ると表明、対日経済制裁を強めると同時に、イギリス領ビルマのビルマ公路などを利用すること(援蔣ルート)で、日本と戦争中の中国(蔣介石)への援助を続けた。日本帝国の陸海軍首脳からは資源獲得のために南部仏印への進駐が主張されるようになった。同地域がタイ、イギリス領植民地、そしてオランダ領東インドに軍事的圧力をかけられる要地であり、またさらなる援蔣ルートの遮断も行えると考えられたからである。1941年7月2日の御前会議において、日本帝国は仏印南部への進駐が正式に裁可され、日本帝国軍は7月28日に仏印南部への進駐を開始した。
 一方で英米は、日本帝国が南部仏印進駐を行った場合には、共同して対日経済制裁を行うことで合意していた。南部仏印進駐後の米国の態度は極めて強硬なものとなった。8月1日、米国は「全侵略国に対する」石油禁輸を発表したが、その対象に日本帝国も含まれていた。またイギリスも追随して経済制裁を発動した。これらの対応は日本陸海軍にとって予想外であった。当時の石油備蓄は1年半分しか存在せず、海軍内では石油欠乏状態の中で米国から戦争を仕掛けられることを怖れる意見が高まり、海軍首脳は早期開戦論を主張するようになった。この間の日本帝国内の動向については『大元帥 昭和天皇(山田朗著)』に詳述されているので参照されたい。
 米国は日本帝国に対し、以前提示していた仏印中立化案についての回答を求めたが、日本は南部仏印進駐が平和的自衛的措置であるとして、支那事変終了後に撤退するという回答を行った。米国ハル国務長官はこの回答が申し入れに対する回答になっていないと拒絶し、日本帝国が武力行使をやめることによって初めて日米交渉が継続できると伝えた。そして、前出の「ハル・ノート」が1941年11月26日、米国側から日本帝国に手交された。日本帝国側は日米の諒解案の一つ「乙案」を米国側に提案することになったが、米・英・蘭・豪は乙案を退けた。このころ日本帝国は戦争を決断していたと言われている。そしてついに、1941年12月8日、日本帝国は英米に対して宣戦布告をした。

東條英機とは何者か

 この裁判の被告、東條英機(1884 - 1948)の略歴をみてみる。東條は陸軍士官学校、陸軍大学校を経て、陸軍歩兵大尉、近衛歩兵第3連隊中隊長、陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官等を歴任後、陸軍大学校の教官に就任。 その後、参謀本部員、陸軍歩兵学校研究部員(いずれも陸大教官との兼任)。 1924年に陸軍歩兵中佐、 1926年に陸軍大学校の兵学教官に就任、 1928年には陸軍省整備局動員課長に就任、同年陸軍歩兵大佐に昇進。1931年には参謀本部総務部第1課長(参謀本部総務部編成動員課長)に就任。その間、1927年から1929年にかけて存在した木曜会という、大日本帝国陸軍の若手の中央幕僚による会合に参加。同会は少壮の陸軍幕僚が内々に集まり、陸軍の装備や国防の指針など軍事にかかわるさまざまな問題を研究し、議論・検討することを目的とした少人数の集団である。石原莞爾、鈴木貞一、根本博、永田鉄山、岡村寧次らも参加していた。
 その後、永田や小畑が海外から帰国したことを機に、1927年には二葉会を結成し、1929年には二葉会と木曜会を統合した一夕会を結成している。東條は板垣征四郎や石原莞爾らとともに会の中心人物となり、陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったという。編成課長時代の国策研究会議(五課長会議)において満州問題解決方策大綱が完成している。1933年に陸軍少将に昇進、同年兵器本廠附軍事調査委員長、陸軍省軍事調査部長に就く。1934年には歩兵第24旅団長に就任。
 1935年には大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。1936年の「二・二六事件」においては、関東軍内部での混乱を収束させ、皇道派の関係者の検挙に功があったといわれ、同年12月1日に陸軍中将に昇進。1937年、板垣の後任の関東軍参謀長に就任。日中戦争(支那事変)が勃発すると、東條は察哈爾(チャハル)派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加。1938年、第1次近衛内閣の陸軍大臣・板垣征四郎の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。1940年から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣(対満事務局総裁も兼任)。1941年10月18日、首相就任。1945年12月、日本帝国は英米に宣戦布告。しかし、大戦勃発直後の戦況優位から、日本帝国軍は連合軍に追い詰められ、東條は、1944年7月18日に総辞職、予備役となった。後任には、朝鮮総督の陸軍軍人である小磯國昭首相が就任し、小磯内閣が成立。
 日本帝国無条件降伏直後の1945年9月11日、東條は自らの逮捕に際して胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗する。このような事態を予測していたGHQは救急車などを配備し、世田谷区用賀にある東條の私邸を取り囲んでいて、連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行うなどしたため、奇跡的に九死に一生を得る。1948年12月23日、巣鴨拘置所内で死刑執行。64歳没。
 かつての陸軍大臣東條英機は1941年1月8日、「生きて虜囚の辱を受けず」と示達した訓令(陸訓一号)を発し、鬼畜米英、天皇陛下万歳と国民を無謀な死に追いやった張本人なのである。東條の発した戦陣訓が大戦中、軍人・民間人による玉砕や自決の原因となった。その東條が敗戦後生き延びて、連合軍によって裁判にかけられ、この戦争は米国に非があると申し開きをする姿はなんとも奇異に感ずる。しかもその申し開きの内容は、時の世界情勢とはなはだしくかけ離れた、著しく主観的かつ願望を交えた予測によって構成された認識であった。
 米国(GHQ)は判決よりも、この裁判を日本人及び世界がどう見るかに関心を寄せていた。日本国内には敗戦を素直に受けとめられない者が多数派であった。判決次第では反米闘争が起きないとは言い切れない状況にあった。日本帝国によるマインドコントロールを受けた日本国民に対して、〈戦勝国の米国は善〉〈敗戦を招いた日本帝国の軍国ファシストは悪〉という、新たなマインドコントロールを日本人にかける必要がどうしてもあった。それが、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」だった。

GHQの洗脳は功を奏したのか

 連合軍による日本占領は、日本帝国降伏(1945年8月15日)から2週間後の8月28日からサンフランシスコ平和条約締結(1951年9月8日)までの約7年間にわたった。その間、日本人による占領軍に対する大規模な武装闘争、テロ等の抵抗運動については管見の限りだが、確認できていない。戦勝国米国が恐れた占領下の混乱はおおむねなかったようだ。ただし、それが「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の効果だとも確言できない。効果のあるなしを客観的に検証するすべがない。
 さて、日本帝国国民は真珠湾攻撃時、「この一戦/何が何でも/やりぬくぞ/見たか戦果/知ったか底力/進め一億/火の玉だ/屠れ米英/われらの敵だ/戦ひ抜かう/大東亜戦/この感激を/増産へ」と絶叫していた。また、戦局悪化に際しては「突け/米英の心臓を/今に見ろ/敵の本土は焼け野原/撃滅へ/一億怒濤の体当たり」といった、さらに勇ましいスローガンを唱和していた。

(六)わが民族永遠の保持のため、世界平和恒久平和の人柱

 川村湊は『戦争の谺 軍国・皇国・神国のゆくえ』(以下「前掲書」)という著作の中で、太宰治の「トカトントン」、坂口安吾の「堕落」といった敗戦直後の文学作品に描かれた日本人の虚無感、ニヒリズム的心象を取り上げ、日本人の戦後精神のありようを具体的に示した。

 坂口安吾は、「大君のへにこそ死なめ」と歌って華と散った若者たちの、その同じ彼らが生き残って闇屋となり、「御盾とゆかん君とちぎりて」と歌った男たちを送った女たちが、位牌に額ずくこともなくなり、別の男の面影を胸に抱くことを指摘して、そうした「堕落」が人間の本質だと喝破したのである。(『戦争の谺』(川村湊著/白水社/P6) 

戦争の谺

被爆地「ヒロシマ」における検閲

 GHQが被爆地「ヒロシマ」で最初に行ったのは、被害者救済ではなく、調査だった。そして、ABCCを設立して放射能被害の膨大な資料を収集して回った。日本帝国がポツダム宣言を発出してすぐに受諾していたなら、原爆投下は避けられたのではないかという議論が戦後交わされているが、米国の原爆投下=核攻撃は日本帝国が同宣言を無視するという前提で計画されていたようにも思われる。戦争(軍事)が人類の技術革新を促進するとはよく言われることだが、日本帝国がその実験台になってしまった感がある。河村湊は次のように書いている。

 1945年9月8日、ファーレル代将を団長とする科学者、医者による調査団が広島に派遣された。原爆による人体への影響、自然環境への影響、社会環境や人間関係、社会組織への影響とそれによる変化・受容についての調査が、その後も続いて、多くの医者、自然科学者、社会学者を動員して実行されたのである。アメリカ学士院がABCC(Atomic Bomb Casualty Commision=原爆傷害調査委員会)を設立したのは1947年。研究材料とはされても、治療対象とはなっていないという非難の下で、アメリカは放射能被害に関する膨大なデータを入手していったのである。
 それと同時にGHQが行ったのは、原爆投下や原爆被害に関する証言や報道の検閲による言論統制だった。これはすでに堀場清子の『禁じられた原爆体験』などによって、その概要が明らかにされている。(中略)正田篠枝の歌集『さんげ』が「占領軍に見つかったら死刑にされる」という風説下にあって、悲壮な決意の下で秘秘裡に自費出版されたのも、栗原貞子の詩集『黒い卵』が一部の詩作品の削除によって発行を認められたのも、美川きよの小説「あの日のこと」を掲載しようとした『女性公論』1946年7月号が発禁(作品を差し替えて発行された)となったのもPPB(Press,Pictorial,Broadcast Division=出版・演芸・放送課/CCDの実働部署)の〝活躍”によるものだった。
 もちろん、GHQ(CCD)の意図は、原爆の被害を隠蔽するか、あるいはその被害を「最小限度」にとどめよう(もちろん、事実が変わることはない。その「記録」「統計」を改竄、改訂しようとしたのである)としたもので、原爆についての噂や流言蜚語を防止するとして、被爆直後に箝口令を布いた日本軍の大本営と同じように、占領軍もまた、出版物や映画、写真等の検閲を強化することによって、「ヒロシマ」の惨状を、日本の目はもちろん、世界の目からも覆い隠しておこうとしたのである。
 だが、CCD、PPBの実際の削除例を『禁じられた原爆体験』などを見ると、原爆体験そのものや、その被害の甚大さが強調されているということより、「原爆の惨禍が原爆以後なお続いているという」そのことを日本国民(広島市民)が知ることによって、原爆を投下したアメリカを憎み、その戦勝者による占領政策に大きく障害となることをGHQは、最も恐れたというフシが見受けられる。(前掲書P10~11)

戦争の谺

 川村湊の見識がすぐれているのは、GHQ(米国)の原爆検閲の意図を見事に言い当てているところにある。そのことは先に引用に続いて、次のような結びからもわかる。

 原爆投下直後のヒロシマの悲惨さ、残酷さはいいようもない。その地獄絵図は、どんなに酸鼻に、残酷に、酷薄に描いたところで、表現し尽くせるものではない。しかし、アメリカ人たちが恐れたのは、そうした苦しみ・悲しみがアメリカに対する復讐心となり、報復感情となることであり、その苦しみの底の深さや、表現としての深刻さではなかった。
 極端にいえば、その「恨み」の矛先がアメリカにさえ向かわなければ、原爆の悲惨さはいくら強調されてもよかったのだ。それは1945年8月6日と9日で終わったことであり、日本人がいかに深刻にその悲惨さを受け取ろうと、それが『忠臣蔵』のような「復讐劇」としてアメリカ(占領軍)へと向かわない限り、放置しておいても別段構わなかったのだ(GHQが『忠臣蔵』を始めとする時代劇の仇討ちものに、異常に神経を尖らせていたことは、そのことを証明している)。(中略)GHQやCCDは、日本人の精神に残存する怨念、復讐、報復につながるものの甦りを恐れていたのであり、原爆の悲惨表現は必ずしもそうしたものではないということを〝学習”していたのである。(前掲書P11~12)

戦争の谺

 川村はGHQによる〈検閲〉を指摘しているが、〈ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム〉には触れていない。また、前出の『閉されたた言語空間(江藤淳著)』に記されたPPB・CCD部隊の地域的展開(日本及び南朝鮮民間検閲支隊担当地区表)を見ると、広島は福岡ほか九州各県および島根、山口等を含む第三地区内にあり、その本部は福岡市に置かれていて(同書P227~228)、CCD・PPDが広島を特別地区としていたかどうかは、GHQの事務的記録からは判定できない。
 人類史上初の核攻撃を受けた「ヒロシマ」の市民の受け止めはどうだったのか。広島市民は原爆を投下した米国に怨念、復讐、報復の念を抱かなかったのか。抱かなかったからと言って広島市民を貶める気はないし、抱いたからと言って、それを野蛮さと見なして非難するつもりもない。重要なのは、運命の日、1945年8月6日を実際、どう受け止めたかにある。

ピカッと光った原子のタマ

 川村は前掲書のなかの〝「トカトントン」と「ピカドン」“という章において、前出の栗原貞子(1913 - 2005)の『核・天皇・被爆者』(三一書房)を引用しつつ、被爆直後の広島における驚愕すべき事実を紹介している。

 栗原貞子は書いている。「占領下の21年8月6日、『原爆を忘れて復興しよう』と被爆者の苦しみや遺族の悲しみをよそに、どのような乱痴気騒ぎが行われたか。町内会はシャギリ、山車、俵もみ、仮装行列などを行って『ピカッと光った原子のたまにヨイヤサーとんで上った平和の鳩よ』と3日間踊って歌った」のである。
 まだ、瓦礫と焦土のままのヒロシマの街に、花電車が走り、山車が繰り出され、「仮装行列が練り歩いて歌って踊ったというのは、何か悪夢のなかの幻想の出来事のようにも思えるが、事実だった。中国新聞社編の『ヒロシマの記録 年表・資料編』(未来社、1966)には、1946年8月6日の頃に、「花電車、山車をくりだし7日まで演芸大会など開かれる」とある。また、8月2日の頃には、「歌謡ひろしま」の当選発表があり、「誰がつけたか あの日から 原子沙漠の まちの名を いまは昔の語り草 むかしよもぎのひめばなし いくさ忘れてひめばなし」という、山本紀代子の作品を一等当選となったと記録している。
 「ピカッと光った原子のたま」は、まるで手品のようにそのなかから「平和の鳩」を飛び立たせてみせ、それは「いくさ忘れのひめばなし」をしている人々によって担われたのである。それは魔術であり、詐欺であった。原子爆弾という「人類最終兵器」が、「世界平和恒久平和」を作り出すというマジック。しかし、あろうことか、広島の生き残った市民たち(日本人たち)は、そうしたアメリカと日本の支配層が共同製作した大マジックに拍手喝さいを送ったのである。(前掲書P14~15)

戦争の谺

 米国(軍)によるヒロシマへの核攻撃(原爆投下)は、大量殺戮であり戦争犯罪である。当時の広島市の人口35万人のうち9万~16万6千人が被爆から2~4カ月以内に死亡したという(「Wikipedia」より)。米国が自らの犯罪を隠蔽し合理化しようとも、日本人ならば永遠に、核攻撃(原爆投下)した米国に対する憎悪を拭い去ることはできないはずだ。しかし、川村湊の驚きのとおり、広島市民は、原子爆弾を平和を作り出した“原子のタマ”として崇めたのだ。 

GHQと日本政府が合作した戦後的言説の定着

 それだけではない。川村は原爆投下の翌年(1946年8月6日)に広島市で開催された原爆投下1周年の追悼式典に出席した木原七郎広島市長の挨拶を、前出の栗原貞子の著書『核・天皇・被爆者』から再引用して紹介している。

 「本市がこうむりたるこの犠牲こそ、全世界にあまねく平和をもたらした一大動機を作りたることを想起すれば、わが民族永遠の保持のため、はたまた世界平和恒久平和の人柱と化した十万市民諸君の霊に向かって熱き涙をそそぐとともに、ただ感謝をもってこの日を迎えるほかないと存じます。」

 ヒロシマの原爆被害者が「わが民族永遠の保持のため、はたまた世界平和の人柱」となったというこの広島市長の言葉は、原爆投下は「世界平和恒久平和」の樹立のための「やむをえない」「避けられない」選択であったというアメリカ側の言い分と、「わが民族保持」のための「尊い犠牲」という二つの戦後的言説の原型となったと考えられる。 
 被爆わずか一年後に「平和都市」としての広島は「復興」の道を歩み始めたのであり、そこには、原爆を投下したアメリカへの「恨み」などまったくといっていいほど、見当たらないのである。「世界平和恒久平和」の「聖地」としての地均しは、この時からすでに始まっていたのである(1945年9月には、広島県知事は広島市に復興相談所設置を決め、1946年8月5日には、広島市復興事業起工式が行われている)。(『戦争の谺』P14)

戦争の谺

 広島市長の挨拶は(筆者の想像にすぎないが)、市長自らが作文したとは思えない。日本政府のとある部署が作文し、それを米国(CCD)が事前検閲したうえで「挨拶」と化したものと思われる。敗戦からわずか1年を経ただけで、広島市長を筆頭にしておおよその日本国民は、米国主導の戦後的言説を学習し、公的な場面で発言し、そしてそれを好意的に受け止め、新たな復興の道を歩み始めたことになる。
 この驚きの現象を解明するカギは、おそらく、江藤淳の言う米国による「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の効果だけではない。日本人に内在する戦争責任を回避しようとする思考回路と、そして、戦争を〈自然〉と同一視するような日本人の戦争観にあるとする解釈もある。これらが自らの戦争責任および戦勝国米国の戦争犯罪を追及する姿勢を去勢してしまったというわけだ。だが、このような解釈、すなわち、戦後的言説の定着というなかば公式的見解に納得しかねる「自分」がいるーーいや、ちがう、それ以外のなにかがあるのではないか。この問いに対する解を求めて、洗脳(その2)を立ち上げなければならない。(続く)








































この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?