教育改革を改革する⑤

(前回の続きです。今回も寺田拓真さんの著書『教育改革を改革する』から引用を中心に。)

教育の危機を救うのは、やはり教育の力。つまり、鍵を握るのは、「教育行政として、教師に対して、どれだけ成長の機会を届けられるか」だと寺田さんは言っています。

教師が実践の改善を行なっていくことで、教育の危機が救われるのです。
そのために、教師がリサーチマインドをもって取組をする必要があります。「リサーチマインド」とは「様々なデータ(エビデンス)に基づき、子どもたちの状況を的確に捉えた上で、先行研究の結果などを踏まえて改善に向けた仮説を立て、その改善策の実施により得られたデータをもとにして、仮説を検証するとともに、さらなる改善策を検討するという、科学的なPDCAサイクル(仮説→実践(実験)→検証→改善)を回すことができるマインド及びスキル」と言えます。学校種に関わらず、すべての教師たちがこのマインドを持ち、自身の実践を絶えず改善し続けている。これが、この取組の目指すべき姿です。

この取組をする際に、生徒たちの意見を聞くことが大事だと寺田さんは言います。

当たり前ですが、生徒たちの人生は生徒たちの人生であり、教師の人生でもなければ、教育改革者の人生でもありません。そして子どもたちは、過去に引きずられてしまう大人たちと違って、常に未来を見つめています。「これまでの人生」よりも「これからの人生」を見ている子どもたちの方がむしろ、未来に向けた営みである教育の舵取りを行う上で、的確な判断を下せる可能性があるのではないでしょうか。
「答えのない問題」に対する自分の意見を教師に向かって言うのは、生徒たちにとって相当勇気が要ることです。学校という場所に、かなりのレベルの心理的安全性が確保されていない限りは、意見を言うのは難しいでしょう。「なんか意見ある?」と生徒に1回聞いて、言えなかった瞬間に「やっぱりウチの生徒にはムリだった」と結論付けて諦めてしまっては、元も子もありません。言えなかったのであれば、言えるようになるまで、学校というコミュニティの在り方を改善し続けていかなくてはいけません。
タイトルの「ラーニング・コミュニティ」。寺田さんはこれがのキーワードだと考えています。ラーニング・コミュニティは、文字通り、「学び続け、そして学び合い続ける人たちが集う共同体」です。そこには、「教師は教え、生徒は習う」という、一方通行で硬直的な役割分担はありません。教師も、生徒も、事務職員も、さらには保護者や地域住民も、誰もが、互いに学び合い続けるとともに、コミュニティを創造し、進化させていく、共同体の一構成員です。よって、誰の意見であっても尊重され、対話によってコミュニティの未来は決定されていく必要があります。

これを寺田さんは「学校の民主化」(Democratizing Schools)と呼んでいます。「教師が支配する側、生徒は従う側」ではない。「教師がルールを作る側、生徒はそれを守る側」でもない。「教師が施す側、生徒は乞う側」でもない。生徒は一主権者として対話に参画し、学校の目指すべき方向性(ゴール)や、進むべき未来の決定に関与する権利を持ちます。

教育行政に必要なことは、「二つの役割転換」です。
その第一が、「ガイドからコンシェルジュ」。これは、文部科学省だけではなく、教育委員会や同様です。ガイドとコンシェルジュの違いは、単に「一律に案内するか、個別に案内するか」ということではありません。最大の違いは、「オーナーシップの所在」です。ガイドの場合、オーナーシップはガイドにあります。一方で、コンシェルジュにはオーナーシップはありません。
旅の主体は旅行者であり、コンシェルジュは、あくまでそれを支える側です。そこには統制力も、拘束力も、強制力もありません。ですから、教育行政に必要な役割転換の第一は、学校の改革を(半ば強引に)指示・指導する立場から、それぞれの実情を踏まえて支援する側へと転換することです。

では、どのように支援すればいいのか?それが第二の役割の転換、「総監督からプロデューサー」です。これまでの教育行政は、いわば「総監督」でした。監督である校長に現場、すなわち学校の運営を任せているかのように見せつつ、実際には、人事権と予算権をちらつかせて、様々なことに細かくクチを出す。しかし、新たな役割であるプロデューサーの最大の仕事は、「クチ以上にカネを出すこと」です。現場のやり方に細かく口を出すのではなく、現場のことは監督(校長)に任せる。一方で、現場がよりよいものを作れるように、必要な予算を取ってくる。
ですから、プロデューサーとしての教育行政が果たすべき最優先の役割は、財政当局と政治を説得し、学校現場に届くカネを取ってくることです。なお、その際には、学校が自由に使えて、専門職としての教師の「トライアル&エラー」を後押しできる予算であることが重要なのは言うまでもありません。
加えて、プロデューサーのもう一つの重要なミッションは「キャスティング」、すなわち、「外へのプロモーションを積極的に行い、必要な人材を確保し、最高の成果を上げられるチームを構築すること」です。
日本の学校は伝統的に、自分たちの力だけであらゆることに対処するのが「善」であり「責任」であるかのような文化がありました。しかし、学校はこの「自前主義の文化」から脱却すべきだと考えています。教師を含む大人たちの役割は「子どもたちの世界を広げること」です。しかし、教師がすべてを担おうとすることは、「自分自身の世界に子どもたちを閉じ込めること」につながります。もちろん、生徒たちとの関係を深めようと努力することは大切ですが、それと同じくらい、いや、それ以上に「ホンモノ」に触れさせることも大切です。教師は万能ではありませんし、万能である必要もありません。外の力を借りることは、「悪」でも「逃げ」でもありません。使えるものは積極的に活用していくべきだと考えます。

教育行政も教師も、多様な人たちが参画する「教育」というオーケストラにおいて、唯一無二のハーモニーを生み出すべくタクト(指揮棒)を振る、指揮者となることを意識する必要があります。
「ラーニング・コミュニティ」のメンバーは、単に物理的に学校に集う人たちに限られません。
子どもたちは、学校の中だけで学んでいるわけではありません。保護者、地域の人、公民館・図書館・博物館などにおける専門家、様々な習い事、友達との遊びなどなど、多様な人々との関わり合いの中で、子どもたちは学び、成長していきます。そう考えれば、「学校での学び」というのは、「子どもの学び全体」のごく一部分であることがわかります。教師や教育行政は「学校での学び」のみにフォーカスを当て、その質を向上させることにだけ専念しがちです。しかし「学校内での学びと、学校外での学びの間に有機的なつながりを持たせ、これらが相互に作用することにより、子どもたちにとっての学び全体の成果を最大化させていく」、これが理想だと思いませんか?

(多分続きます)




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