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9月の宝石

9月になってから急に肌寒くなった。
どこにも出かけなかったから、夏があったことすら曖昧だが、夏は終わったのだな、と思った。

秋物の上着あったかなあ、とクローゼットを漁ると去年買ったブラウンのカーディガンが出てきた。友人の家に泊まった際、帰り際どうしても寒くて近くの駅ビルで買ったものだった。濃い茶色だったからクマみたい〜と言われた。
そんなこともあったなあと袖を通すと、ふわっと去年まで住んでいたアパートの匂いがした。

大学時代の4年間、神奈川で一人暮らしをしていた。築40年。家賃4万。オートロック付き。駅から歩いて15分。右隣は夜中に友人と騒ぐ男子学生、左隣は年中咳き込むおじさん。隙間だらけだから窓を閉めていても隣のタバコの匂いが入ってくる。ゴキブリは夏でも冬でも出る。夏は週一で出る。近所に惣菜の不味いスーパー。友人の家まで徒歩10分だったからしょっ中泊まりに行った。海がまあまあ近かったからシーズンを避けて静かになった海によく行った。真冬に始発で行って震えながら朝焼けを見たこともあった。
こんなアパートすぐ出て行ってやる、と毎日思っていた。汚いわけではなかったけれど綺麗ではなかったし、何より隣の住人のあからさま過ぎる生活感が嫌だった。海は近くてもゴキブリが出るのは嫌だった。最悪!はやく綺麗な部屋に住みたい!ずっと思っていた。

クマみたいなカーディガンに頭をうずめて、まるでなくなってしまった何かを取り戻すかのように大きく息を吸った。古いアパートの匂い。
あの部屋には今誰か住んでいるのだろうか。夜中うるさかった男子学生と、咳き込むおじさんは元気だろうか。2人とも顔も見たことがないけれど。大嫌いだったアパートのことを今日はなんだかたくさん考えてしまう。きっとまだゴキブリだらけなんだろうな。春には少し早咲きの桜がたくさん咲くんだろうな。

新築の綺麗で静かな新居でカーディガンを抱きしめた。まだわたしが少しだけあのアパートにいる気がした。

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