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ショートストーリー『別れの朝』

    《別れの朝》

もうすでに運命は決まっていた。
いつとは知れず、ずっと前から、
全てがその方向に流れていたのだ。

女から告げられた別れの言葉は、
彼を激しく打ちのめした。

最後の朝…。
女の心は、もはや恋人のそれではなく、
心変わりを詫びる思いか、
あるいは、
哀れみにも似た母性の表れか、
いつになく優しいものだった。

そして男は…、

(いやだ。別れたくない…。
 ボクはまだ彼女を愛している…)

突然我が身に降りかかった現実への、
女々しいとも言える抵抗、
そして未練、執着に支配され…。

しかし、そんな彼でさえ、
彼女との未来などもはやないことは、
心のどこかではわかっていたのかも知れない。

(男+α)×(女+α)= 恋

この方程式の“α”の炎が、
どちらか一方でも消えてしまえば、
それは成立しないということを…。

男は、本当のところはこの一夜で、
自分の気持ちにケリをつける決心でいた。

だが……

「やっぱりダメだ。
 …ボクは、今この部屋を出ても…、
 …歩き方さえ忘れてしまった」

「大丈夫よ。
 そのドアを開けたら、きっと思い出すワ。
 あなたは強くて利口な人だから…」

彼女の部屋の玄関で、
未練を持たない彼女の優しい声は、
男にとってこの上なく残酷に響いた。

男はドアの把っ手に手をかけると、
渾身の力を振り絞り、
それを開いた。

眩し過ぎる朝の光が、
彼の心臓を射し貫いた。

よろめくように表に出る。
彼女を振り返る勇気はもとより、
その背中に投げかけられたかも知れない
別れの言葉さえ、
耳に入る余地もない。

ドアはまだ開いているのか、
もうすでに閉じられてしまったのか…。

たとえどっちであれ、
もはやそんなドアなど、
自分には関係のないものなのだ、
もう二度と出入りすることはない…。

そう思うと彼の体は、
こんな清々しい朝の空気の中で、
鉛の塊のように、
地面に落ちそうになるのだった。

今彼にあるのは、
重い絶望感だけだった。

しかし、
彼女が言ったように、
男は歩き方を思い出していた。

おぼつかない足取りながら、
少しずつ少しずつ、
女との距離は開いて行った。

だが、
この時はまだ、
その距離が開けば開くほど、
今度は他の誰かに近づいて行く可能性が
膨らんでいることに気づく余裕は、
この男にはなかった。


           End



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