39℃

39℃

 

天井が回転していた。

僕は気だるい体を起こして、ベッドの横のサイドボードの体温計を手に取る。そして、それをパジャマの首から手を入れて脇に挟んだ。体温計の金属のひやりとした感触を確かめながら、サイドボードの時計を見た。5時だった。朝の薄明かりが6畳一間の小さい部屋の窓から差し込んできて、サイドボードの空になったグラスを光らしていた。2月の寒さに僕は震え、布団を引張り上げる。僕はサイドボードにあった携帯電話を見た。彼女の綾から2件、着信履歴が残っていた。僕は携帯電話を置き、溜息を付いた。僕は、昨日のことを思い出していた。昨日はどうやって帰ったんだろう。暗い職場で夜の10時まで一人で、企画書を書いていた。体の気だるさと頭痛に悩まされながら、企画書の仕上げに入っていた。僕はそれを仕上げた後から記憶が無かった。僕はめまいを感じて昨日のことを思い出すのを止めた。僕は重たい体を持上げて、ベッドの周りを見ると、皺くちゃになったスーツの残骸があった。僕の脇から体温計が音を鳴らした。僕はそれをパジャマの首から取り出して見た。体温計の表示は「39.0℃」だった。僕はため息をついて、ベッドに横たわった。39℃の熱を出したのはいつ以来だろう。確か、8歳以来だったかな。母さんは僕に生姜湯を飲ませてくれた。僕はそんなことを思い出しながら、目を閉じた。重たい眠気が僕をさらっていった。


僕は額に冷たい物を感じて、目を開けた。額には水に浸したタオルが乗っていた。僕は、体を持上げた。体はまだ重たかった。

「駄目よ。」

と、誰かが言った。僕は、声のする方を見た。母さんだった。

「母さん。」

僕は言った。母さんは微笑みながら、手を僕の肩に置いて、僕をベッドに寝かせた。僕は熱で朦朧とした目で、母さんを見た。母さんは若かった。髪にも白いものが見当たらなかった。顔には皺一つ無かった。

「母さん、どうやって部屋に入ったの。」

母さんは微笑んだまま言った。

「ドアの鍵は開いていたわよ。無用心なんだから。こうちゃんは昔からちっとも変わってないわね。算数のテストで+と×をよく間違えたわね。」

僕は笑った。喉がつかえて、咳がでた。母さんは笑った。

「大丈夫?」

僕は咳がおさまるのを待って言った。

「母さん。生姜湯を飲ませて欲しいんだ。」

「あらあら、まだ子供なんだから。」

母さんは立ち上がって、キッチンに向った。母さんは鍋に水を入れて火をかけ、冷蔵庫から生姜を出して、包丁で小さく刻み始めた。僕は母さんの後ろ姿を見ていた。変わらない後ろ姿だった。僕は包丁が小気味よく鳴る音を聞いていた。僕は目を閉じた。熱が体中をまわる音を聞いた感じがした。

暫くして、母さんの声がした。

「出来たわ。」

僕は目を開けた。母さんが持っているコップからは湯気が立っていた。生姜の匂いがした。

「気をつけてね。熱いわよ。」

僕はベッドから重い体を持上げた。そして、母さんの持っているコップに手を伸ばした。

コップは熱かった。僕は、少しずつ生姜湯を飲んだ。8歳の時と同じ味だった。母さんは微笑みながら、僕をずっと見ていた。僕は言った。

「どうして、そんなに僕を見ているの?」

「大きくなったなあと思って。」

「僕はもう25歳だよ。もう大人だよ。」

と僕が言うと、母さんはくすくす笑って、

「私から見れば、まだ子供よ。」

と言った。僕は顔が熱くなるのを感じた。それが熱から来るものか、恥ずかしさから来るものか分からなかった。突然、外の風が窓を揺らした。僕と母さんは、暫く黙ったまま、外の景色を見ていた。白い空気が僕たちを包んだ。


「母さん。僕が8歳の時に父さんと母さんと僕と家族3人で行った動物園の事を覚えている?」

「ええ。もちろん覚えているわよ。」

母さんは微笑んだ。母さんの吐いた息が白くなって消えた。

「僕は嬉しかった。家族で出かけるのは久しぶりだったから。」

「ええ。お父さんは忙しくて、日曜日はいつも家にいなかったわね。あの日はこうちゃんが泣いて「動物園に連れて行って」ってお父さんにすがりついたのね。あまりにも泣くもんだから、お父さんもどうにか仕事の都合を付けて家族3人で動物園にいったわね。」

「あの日はよく晴れてた。5月の気持ちいい天気だった。母さんは朝早く起きて、僕たちのお弁当を作ってくれた。」

「ええ。張り切って作ったわ。」

母さんは微笑んだ。僕も微笑んだ。2月の部屋の気温が上がったように感じた。

「あの日は楽しかったわね。こうちゃん、ペンギンの水槽の前で、ずっと見ているんだもの。寒い水槽の前だから風邪ひくわよって言ったのに、こうちゃんはずっとペンギンを眺めて。そして、こうちゃんは言ったわ。「ペンギンは立ち止まってどこを見ているの」って。覚えてる?」

「覚えてるよ。母さんは「人間には見えない、何かを見ているのよ。そして感じているのよ。」って言った。僕は、「何かって何?」って聞いた。母さんは微笑んで言った。「こうちゃんにも見つかるといいわね。」って言った。僕はずっとその言葉を覚えていた。そして、つらい時は、いつもその言葉を思い出した。」

母さんは黙って微笑んでいた。僕は心の底が震えるのを感じた。

そして、僕は口を開いた。


「母さん。どうして死んだの?」


僕の目からは涙が溢れた。涙は止まらず頬を伝った。僕は熱と涙でぼやけた目で、母さんを見た。

母さんの微笑みは氷のように固まっていた。顔は真っ白になっていて、目は一点を見つめていた。瞳はガラス玉のように光を失っていた。唇には微笑がうっすら残っていた。

「母さん。」

僕は泣きながら言った。

「どうして死んでしまったの?僕はずっと母さんに生きていて欲しかった。母さんに支えていて欲しかった。母さん。僕は寂しかった。9歳の時からずっとだ。高校を決めるとき。大学を決めるとき。就職するとき。母さんが生きていて、ぼくにアドバイスをくれるのを、どんなに待っていたか母さんは知らないんだ。でも、母さんは何も言ってくれなかった。これから僕はどうすればいいんだよ。」

母さんのガラス玉のような目から涙がぽろぽろと零れ落ちた。

「こうちゃん。ごめんね。母さんも生きたかった。あなたが成長するのを見たかった。あなたの傍にいたかった。ごめんね。」

僕は母さんに言った。

「母さん、なぜ自殺したの?」

母さんは左手で僕の右頬を触った。母さんの左の手首から血が溢れだしていた。僕は必死に血を止めようと母さんの左手首を押さえた。僕の指の隙間から血は溢れ出して、床に落ちた。零れた血が、赤く床を染めた。

「私にはなにも無かったの。なにもよ。私は0だったのよ。」

「僕がいたじゃないか。」

母さんは小さく微笑んだ。

「そうよ。でも、違うの。」

母さんの髪の毛が白くなっていた。そして、髪の毛は抜け落ちていった。顔は皺だらけになり、皮膚はかさかさになっていった。母さんの眼球が床に落ちた。眼球が落ちた眼の奥底から白い蛆がわいていた。そして、鼻、口、耳から蛆が出てきた。母さんの体中から蛆が皮膚を食い破って、体の外に這い出てきた。蛆は母さんを汚していった。僕は母さんを抱きしめた。蛆が母さんの体から、僕の体に移ってきた。

「母さん。」

母さんは母さんだった。


額に冷たいものを感じて、僕は目を開けた。僕の目からは涙が零れていた。

「起きた?」

綾だった。僕は綾を引き寄せて、抱きしめた。そこには生の温もりがあった。僕は言った。

「綾。それでも、僕たちは生き続けるんだよ。」


  


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