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【感想】夏目漱石『虞美人草』、藤尾の欲望

夏目漱石『虞美人草』
 この作品は漱石が朝日新聞社に入社して最初に連載された長編作品で、いわく一字一句にまで腐心して書いた、ということらしいが、その評価は様々なようです。
以下、作品の感想です。

 『こころ』の中にも登場する「恋は罪悪」という言葉は、この『虞美人草』にも登場する(順番はこちらが先)。恋は罪悪・・・しかしここでいう罪悪とは何のことであろうか。

 甲野鉄吾や小野清三を説得した宗近は、「真面目」になれる男だ。彼の真面目は「義徳」に対する「真面目」である。彼は私利や願望に流されず、「義徳」と向き合える男である。したがってここで言われる「罪悪」とは、「義徳」に対する態度、「背徳」の事と受け取れるだろう。
 「私」を、「我」を、「個の自由」を一義とした思念や行動は、徳に背く行為となりうる。それこそが「恋は罪悪」といわれる所以ではないだろうか。

 『こころ』では、「先生」の恋の結末として友人Kを自死させてしまう。結ばれた二人は、この「罪」を背負って生きていかねばならなくなる、その結果としての、先生自身の自死である。

 『虞美人草』の場合はどうか。「我の女」である藤尾は、「真面目になった」小野と「真面目な男」である宗近の両者に突き放され、卒倒して亡くなってしまう。そうして結ばれた小野と糸子は、「義徳」に生きることで「真面目」になり、この罪から逃れることになる・・・のだろうか?

 果たして藤尾の死は、甲野のいう「悲劇」をあらわすためだけの出来事なのだろうか?この「悲劇」は、「義徳」の大切さを知らしめるためのものなのだろうか?藤尾は確かに「我の女」であった。自由恋愛などほとんど存在しなかった時代に、自分自身のために思念し振る舞い行動した。彼女は「義徳」に生きることはなかった。
 が、自分自身に対して、自身の欲望に対しては常に「真面目」に向き合っていたのではないか。宗近とは違う別の「真面目」を生きた女だったのではないか。

 ドイツの哲学者ヘーゲルは、人間の欲望は「他者に認められたい」という「承認欲求」であると言っている。宗近は、外交官試験に及第した途端に「真面目」を説きだした。承認欲求は満たされ、自己の価値が確保された身である。その点では、学業優秀で将来有望な小野もそうだ。
 だが、藤尾は違う。女として魅力があり、風流を解する教養のある人間として振る舞い、評価の高い身分の男に嫁ぐことで自身の「承認欲求」を満たす必要があった。彼女にとって「義徳」は、何ら自身の価値を保証してくれないのだ。
 六条御息所という光源氏の恋人がいる。強烈な嫉妬心から他の女性を生霊となって殺し、死後も祟って光る君のもとへと現れた女性である。『虞美人草』では描かれていない藤尾の欲望の怨念が、このままでは終わるまじと周囲を漂っている気がしてならない。それでこそ「悲劇」なのではないかと、達観したふうを装う甲野に問いたい。

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